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日蓮大聖人・池田大作

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思考と人間の教育  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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1  思考と人間の教育
 ユイグ 人間をつくる活動の計画は、つぎの二点に関わっていなければなりません。
 まず、支配的理念に働きかけ、すでにひどく使い古されて、異論がはなはだしいその理念が役にたたないことを明らかにして、それが使われないようにし、それに対してそれを修正する行き方を明確なやり方で人びとにわからせながら宣揚し、こんどはそれが主導的理念になるようにすることが大切です。要するに、生命の自然な調整作用によって助長されるような、旧来とは逆の一つの“伝染病”を生じさせることです。
 つぎに、固有の意味での教育に頼ることです。これは子供を対象としたもので、未来の人間を方向づけることになります。
 これらの二点は継続的に取り組まれるべきでしょう。
 なによりも、新しい理念への道を開くには、どうしたらよいでしょうか?
2  私たちが生きる基盤にしていて、各時代の人間を形成しながらその物の考え方を発展させてきた、正常で明白と思われている諸理念が、状況の産物でしかなく、したがって、それらはやがて滅びるものであり、変更できるものであることを明らかにすることです。こうして、私たちが生活の基盤としているのは、だいたい十七世紀に生まれ、しだいに発展して、その必然の結果として科学と技術の飛躍をもたらした一つの信条であるということに気づかせるべきです。それは、デカルトのことばにしたがっていうと、人間は“自然の主人であり所有者”たるためにつくられたとする信条であるといってよいでしょう。
 すでにみてきましたように、その結果として、前代の文明と現代の文明の本質的な違いは、自然と人間の協調をはかり、それによって自然が人間に提供してくれる潜在力を成就させるという古来の原理に変わって、搾取、挑戦、攻撃という、それとは反対の原理をおいたことであったわけです。これ以後、人間は自分が自然を変え自らの意志と欲望に屈服させる手段をもっていることを知ります。
3  マルクスは、ここから、人間は歴史の流れの中で自然に働きかけ、これを変革するという歴史優先のドグマと、こうして変形された自然・世界がこんどは人間に働きかけ条件づけていくという相互性のドグマを引き出すのです。それと同時に、人間は静的・不変的な世界に挿入されてその運命をたどるという観念は姿を消しました。
 しかし、これもいいましたように、人間が自身を、物質的世界である環境世界に働きかける手段としてしか考えなくなったときには、自分自身からも離れ、自分の人格の肉づけをすることや、内的存在への憧憬もなくしてしまい、もはや客観的事実とこれを理性的に操作することしかめざさなくなり、こうして客観的事物に働きかける手段、つまり科学と技術の発展しか考えなくなるのです。
4  この偏執の結果は経済生活の優先となり、経済性だけが唯一の関心事になるという現象にあらわれています。人間は、もはや自らの安楽しか気にかけず、人間を忘却してしまったのです。
 人間が自らの内に掘り広げつづけているこの空隙、この空洞について、さらにいっそう意識を強めていくことが必要でしょう。もっとも開かれた精神の人びとにおいては、この自覚がはっきりしたかたちをとりはじめていることが認められます。こうした人びとは、内面的な生命とその働きの欠如に気づいており、そのことを苦しんでいます。まだ本能的で不明瞭ではありますが、ただ功利的で実際的・経済的な現在の社会に対して、一つの抗議が起こっています。
 ですから、思想家たちは、必然性のある不屈の行動を通じて、人間の条件の中に生じている転倒について大衆の目を開かせ、とくに若者にとって痛感されている、まだ一つの不満であり多少とも漠然とした憧憬にしかすぎないものを、明確な観念に変え、人びとが粘り強く求めるようにすることが必要です。
 第二点は、固有の意味での教育です。この意味の教育は、成人対象の場合のように、時代を動かす思想や流行の思想の練り直しからとりかかる必要はありません。教師たちは多くの場合、もはや自由ではないのに対し、子供はまだ拘束されていないからです。それは、量の独裁と縁を切って、子供に質の経験と質的なものへの欲求を与えるように配慮されるべきです。
5  国民教育は、その時代を支配する人びとによって進められ、公認のドグマを、それが受け入れられ公式化されたときから進行中である――ということは、公式化されたときから明らかに超克され修正されなければならなくなっている――ドグマをつねに反映しています。そして事実、授業内容は、緊急に求められているのは反対の方向なのに、ますます技術化しているのです。
 教育は、実際的な効率に従属させられるべきではなく、内的生命への覚醒の具とされるべきです。つまり、世界の外面的な特性に対応する量や測定可能なものを重んずることをやめ、内的生命に固有の、質的なものを尊ぶよう導くことです。
 “質的”という語のもつ二つの意義を、はっきり区別しておきましょう。その一つは事物の特徴を知覚することで、これは“品質”ということばをあてはめるほうがふさわしいでしょう。この場合は感覚の錬磨ということが大事になります。それに対し、もう一つは、直観であり、内的生命への進展の可能性を開いてくれる、価値の段階への意識です。
6  こうした二重の経験を教育の中に導入するにはどうすればよいでしょうか? それは、同じやり方ですべての人を近づけるようにする抽象的な公式、つまり観念のうえに立てるのでなく、内面的な覚知、主観的な評価の発展に役立つようにすることが必要でしょう。このために大事なことは、まず、私たちが、明らかに純然たる錯誤から切り捨てているものを、教育の中に再び導入し、そこで発展させることです。最近のフランスでは、状況に対する驚くべき無認識から、授業課目から哲学がほとんど削除されています。現在のところは存続しているものの、簡略化されているのです。
 ところで、科学が外的・具体的世界を探究することに寄与し推進するのに対し、内面的経験である省察へ私たちを向けようとするのが哲学なのです。ここでいう哲学とは、公式や教義の説明で事たれりとするものではなく、瞑想を開くほんとうの哲学のことです。
7  現代の誤りのもう一つの特徴的な例は、芸術教育という、質的なもののための領域に与えられている分け前が、ますます減っていることです。フランスの最も高い責任ある立場の人びとの無認識ぶりがいかなるものかを知るために、いくつかの数字をあげるのもムダではないでしょう。
 一九七九年の新学年にあたって、造形(美術)教育の二百のポストと音楽教育の二百十六のポストが削減されました。それは、それまでの三年間に消滅していた三百五十六のポストにさらに空席が増えたわけで、この結果、リセ(後期中等教育。十五歳から十八歳まで)の三七パーセント、コレージュ(前期中等教育。十一歳から十五歳まで)の三一パーセントから造形教育が、リセの七〇パーセント、コレージュの三八パーセントから音楽教育が排除されたのです。
 さらにまた、リセとコレージュに存続しているポスト全体でも、造形教育の場合、一二パーセントは、補助教員をそこにあてているだけです。この比率は音楽教育の場合は三五パーセントに達します。音楽教育そのものの比率が数学より八パーセントも低いのに、です。そのうえこの芸術教育の内容も、歴史的事実の学習とか技術の習得になってしまったり、一つのモデルを忠実に写すことで終わっていることがあまりにも多く、ここにも、いかに軽んじられているかがあらわれています。
8  現在、創造性ということが、盛んにいわれていることは認めましょう。衝動のおもむくままに子供に表現させようと仕向けるだけにとどまるのでなく、存在するに値するものを自らの内に見いだし、それをできるだけ質的に高く表現するよう努力させるという条件のもとでなら、そこに一つの糸口はあります。
 この条件としていったことが美学というものの唯一の基盤であり、それは、何度繰り返しても、いいすぎることはないのですが、主義、理論や、伝達可能な観念のうえに成り立っているのではないのです。それが成り立っていくのは、教育できるもの、したがって受動的に得られるもののうえにではなく、つねに自己を超えて遠くへ行こうとする意志、質の征服へ向かう内面的な欲求、憧憬、努力のうえにです。ですから、造形美術においても音楽においても、その教育プログラムの中にあらゆるかたちで、芸術とくに傑作にふれることが大きい比重を占めていかなければなりません。
9  このような方向性は、芸術作品にふれることを求める民衆の数年来進展していることとも合致しているのではないでしょうか? ますます多くの人びとが展覧会や美術館で、そこに予感する精神的な若さのわきいずる秘密を見抜こうと、本能的に作品に見入っています。現代の学者ぶった人びとが好んで口にする、この“社会学的”な兆候に注目する必要があります。それは現在の時代がなにを求めているかを示しているのです。そこから、その意味を理解して、この兆候が漠然とあらわしている欲求を満足させるべきです。
 (註)一例だけあげますと、パリで、グラン・パレの展示会は一九七九年一年間で百二十三万九千人の訪問者を集めました。しかしテレビは、その芸術作品についてはほとんどふれず、解説者たちは「こんなものは人びとの興味をひかない」というばかりでした。
10  私は、この点で、日蓮が仏教の中で成し遂げたこの意味での巨大な前進の一歩が理解できるように思います。それまで、仏教はあらゆる欲望の消滅を求めていると考えられがちでした。しかし、仏教が禁じたのは、とくに外的世界に向けられる欲望であり、性欲、金銭欲、食欲といった物質世界の資源による満足を求める欲求であったことに注意をはらう必要があります。もし私の理解に誤りがなければ、日蓮は、欲望が内的生命に固有の欲求・憧憬といった、内的生命の開花と完成に寄与する、別のかたちをとりうることを理解していましたし、この欲望は、逆に完全に価値あるものであることを知っていたのではないでしょうか。
 私がこのさい強調したいのは、今日の人間に開かれねばならない道と、あなたの奉じておられる理想とのあいだの一致ということです。そして、ここから、私たちは、すでに明らかにした一つの確信にいたります。それは、西洋の哲学が、プラトンの精神が示しているような静止状態における完成を好んで求めるのに対し、仏教の思想は、時間の中への投影、生命が前提としている持続ということを重視するということです。その場合、欲望が“憧憬”に昇華するわけですから、どうして欲望というこの推進力を切り捨てるべきでしょうか。
11  池田 あなたのご意見に私も完全に同意します。なぜなら、現代の人間がおちいっている状況、すなわち、一方で本能的欲望にふりまわされ、他方で理性に支配されている状況から人間が抜けだすためには、広い意味での教育が根本的に必要であると思うからです。
 そして、その広い意味の教育が、現実の社会において、これまでの支配的な原理に対する盲信と崇拝を打ち破っていくとともに、学校教育においても、科学や技術を主にするのでなく、内面からの豊かさを涵養し質への志向を強化してくれる哲学や美術が重視されなければならないと、あなたがいわれている点も、まったく同感です。
 しかし、それと同時に、私は、直接に仏教を信仰するか否かということは別にしても、仏教のめざしたものを反映した人間教育、仏教が明かしている人間生命についての真理を知識としてもつようにすることは、非常に大きな価値をもつことになると考えます。
12  仏教が究極的な目的として教えている成仏――仏陀になること――は、自己の根源的存在を覚知することですが、現実の行動のうえにあらわれてくる姿は、菩薩として示されます。菩薩とは、菩提すなわち覚りを求めて実践する人を本来、意味していますが、それとともに、仏陀の覚りを根本として、それを現実の人間社会に反映させていく実践者という意味があります。
 仏陀の覚りを現実社会に反映するという場合、仏陀の覚りとは、すべての人びとの中に仏性があるということですから、いかなる人をも軽んじない、その生命、人格に敬意を払うことを大前提とします。この点を明らかにするために仏教経典に述べられている説話を紹介しますと、法華経の中に、不軽菩薩の話があります。
 不軽とは、あらゆる人に敬意を払い、いかなる人をも軽んじなかったということから、軽んぜず――すなわち不軽と名づけられたのです。この人は、すべての人に仏性があるから、どんな人も軽んじたならば仏陀を軽んずることになると考え、あらゆる人を礼拝したというのです。彼は自分を気違い扱いし、石ころを投げつけ、杖でたたいてくる人に対しても礼拝をやめませんでした。
13  あなたがおっしゃるように、現代においては、人間は自分自身をさえも、自らを取り巻く物質世界に働きかける手段としてしか考えなくなっています。仏教では、最も尊いものは人間自身の内にあると教えます。いかなるもののためにも、人間を手段化すべきではないのです。
 現代社会の傾向のうち、さらに悪い点は、自分を、物質世界に働きかける手段としている人間が、さらにその自分の目的のために、他の人を手段化する傾向をもっていることです。戦争における用兵の原理が、現代においては、あらゆる企業、官僚機構、組合等を支配しています。そして、それにともなって、教育もまた、種々の目的をもった組織の要求に応じた人間に仕上げるための機関となっています。ですから、ほんとうの意味での教育の根底におかれるべき精神こそ、仏教が教えているところでいえば、不軽菩薩の精神だと思うのです。
 いつの時代であれ、すぐれた教師は、生徒に対して、この不軽の精神で対したことでしょう。それは、東洋でも西洋でも同じだと思います。私が強調したいのは、教育の制度的体系、教育機構、教育理念そのものの基盤に、その精神が貫かれなければならないということです。教育のこうした抜本的変革がなされれば、私は社会全体の考え方や人びとの生き方も変わってくると思います。
14  あなたも指摘されているように、現実に「開かれた精神をもつ人びと」は、すでに、明確な意識をもちはじめていますが、社会の全体が変わるためには、やはり現在の教育から変わらなければなりません。
 現在の教育界は、あたかも、人材の生産部門といってよいものです。戦争をしている軍隊において、兵士たちがほとんど手段となってしまうように、現代の社会は人間を手段化します。教育は、そうした社会の各ポジションにはめこまれうる、そして、そのかぎりで役に立つ人間の養成を分担しているのです。
 たしかに、人間はなにかの目的をもたないでは、充実した人生を生きることはできません。その意味では、自らをその目的のための手段とせざるをえないのかもしれません。しかし、それにもかかわらず、自己の人生を充実したものとすることが目的であって、それ以外のなんらかの目的をもったとしても、それは、人生充実のための手段にほかならないことを知るべきでしょう。
15  自分の人生をなにかの目的にささげる――つまり、自らを手段化するといっても、それは、ただ命令されて動く兵士のようであってはならず、自らの意志で、自ら決定してそうするのでなければならないでしょう。そこにのみ、自らを手段化しつつも、自らの人生の充実が目的となってあらわれてくるのです。
 この場合、教育は、各人に、自らの人生をささげる目的は自らが選ぶべきであることを教えるとともに、そのささげる目的の質を見分ける力を養わせ、正しい選択ができるよう、青少年を導くのでなければなりません。
 科学的思考法や知識の学習、技術の習得も、もとより必要ではあります。しかし、それらの大前提として、こうした、自己をみつめ、事象の質的内容を鋭く洞察できる力と英知の涵養がなされなければならないと私は考えます。
16  さて、仏教がめざし、到達し、そして人びとに教えている最も根本的なことは、人間自身の究極的な自己認識でした。仏陀とは“覚知した人”という意味で、その覚知したものは、結局、自己の本源的な存在そのものです。
 本能的欲望や愛あるいは慈悲は、あえていえば、生命自体の発揮するエネルギーのかたちであるといえましょう。本能的欲望は、自己の生命を維持し強化するために、外部から吸収しようとするかたちをとったエネルギーです。それに対して、愛あるいは慈悲は、他者の生命を守り豊かにするために、外部へ向けて発散されるかたちをとったエネルギーといえます。
 私たちにとって、生きるということは、この吸収と発散の繰り返しともいえるわけですが、これら二つの種類のエネルギーの発現が、自己自身にとっても、また、他の存在にとっても、生命を破壊するのでなく建設し創造する働きになっていくためには、生命に対する敬意と、生命の複雑、微妙な働き、機能についての正しい理解がなくてはなりません。
17  この生命への敬意すなわち生命を尊いものとする心、感情と、生命の機能に対する理解を確立するために、最も近道であり確かな方法が自己の生命に対する覚知なのです。なぜなら、人が他者の生命を知ろうとしても、外から認識できるのは、浅い表面にしかすぎません。表情、行動やことばによってあらわせない深層の世界は、けっしてとらえることができないのです。
 真実に生命を正しく、深く知るには、内側からでなければなりません。すなわち、自己の生命を自ら観照する以外にないのです。この方向に努力を試み、完璧な覚知を達成した人が、いわゆる仏陀なのです。
18  仏教の説話の一つに、鬼子母神の話があります。これは、非常にたくさんの子をもった女神でしたが、人の子を食べる悪鬼でもあり、そのために、大勢の人が苦しみました。人びとの悩みを聞いた仏は、鬼子母神の子の一人を隠します。鬼子母神は、自分の子が一人いなくなったのに気づいて、気が狂ったようになって探しました。そこで仏は、鬼子母神に「お前は、これだけたくさんの子がいても、その一人がいなくなっただけで、これほど苦しんでいるではないか。お前のために、大事な子供をとられた人びとの苦しみが、これでわかったであろう」といいます。それ以来、鬼子母神は、人の子をとるのをやめ、逆に、人びとの子を守り、母親たちを助ける善神になったというのです。
 この説話は自ら苦しみを知ることによって、他者の苦しみを知り、他者を苦しみから救おうとする善の心が起こってくることをあらわしています。そして、最も広く深く、人間の心と生命の不思議な世界を究めつくし、人間の遭遇する、あらゆる苦しみを知り、その苦しみから救おうとする愛、慈悲をもっているのが仏陀なのです。仏陀は、たんにそうした救おうとする願望をもっているだけでなく、生命の真実を正しく知っていますから、どのようにすれば救えるかも知っています。
19  さらに、仏陀は、自らが人びとの苦を救うのみでなく、自分と同じように、いっさいの人が仏陀になれるように教えを説きました。仏教とは、まさに、このいっさいの人びとが仏陀になれるための原理と実践法を示したものにほかならないのです。
 ともあれ、学校教育とならんで、家庭が人間形成の場としてあること、また、それがきわめて重要な意味をもっていることを忘れるわけにはいきません。今も昔も、人間が最も基本的な自己を形成する場は、この家庭の外に求めることはできません。なぜなら、両親は、たんに部分的な特殊知識だけを子供に授与するものにとどまらず、全体的な人間形成のために努力するからです。全体的な教育の重要性が増せば増すほど、私は家庭というものの重要性を再考しなければならなくなるであろうと考えています。

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