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信仰と功徳  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  信仰と功徳
 池田 一般に、宗教はさまざまな利益を説きますが、それが、苦しんでいる人々に、ときとして大きな効果を生むことがあります。誰もが絶望的としか見なかった患者が、宗教を信ずることによって、精神的に立ち直って、病気を克服したり経済的苦境を脱したりすることなどがそれです。
 ところで、こうした利益が何によってもたらされるかについて、教授はどのようにお考えでしょうか。すなわち、そうした結果は、宗教のもたらす一種の暗示的効果または陶酔によるものであるのか、それとも偶然起こったそのような現象を効果的に利用しただけなのか、もしくは本当にそうした実効があったと考えられるのか、それらのうちのどれだとお感じになっておられますか。
 医学においても、たんに栄養剤にすぎないものでも、カゼ薬だといって投与すると、栄養剤だと知らされて飲むよりも、カゼに効果的であることが、集団的実験によって報告されています。宗教においても、こうした心理面からの効果が少なからずあるであろうことは、私も認めます。しかし、それらの効果の分を排除し、また偶然の要素をも排除した後に、なおかつ何らかの影響があったと考えざるをえないケースがあるように思われます。
 しかも、その宗教の説く利益が、客観的に見て十分に理論的な教義に裏打ちされたものであるならば、その価値を認めてもよいのではないでしょうか。教授のご感想をお聞かせください。
2  ウィルソン 宗教が積極的な社会的・心理的機能をもつことは、私には議論の余地のない命題であるように思われます。伝統的に、宗教の(心理的機能とは区別して)社会的機能は、以下の諸点にあることが認められています。すなわち、まず、社会の道徳的生活を強化する働き。次に、諸々の社会機関の作用を支える働き。第三に、社会的結束や忠誠心・アイデンティティー(自己同一性)を促進する効果。最後に、権威や政策を正当化する働きです。もちろん、こうした宗教のもつ社会的影響力の多くは、社会の組織がますます意識的に運営されるようになり、道具化し、合理化するにつれて(この変化の過程から諸々の深刻な社会問題も惹起されたにせよ)、現代の世界においては衰退しています。
 それとは対照的に、宗教の心理的機能の多くは存続しています。宗教は、いまもなお、多くの人々にとって力の源泉であり、献身度を強めています。あなたのおっしゃる通り、病人はたしかに回復し、死別の悲しみは慰められます。その他、さまざまな不幸を克服する力を宗教から得たという人もいます。そのような体験を、偶然の一致だとか偶発的な出来事だとかの説明で、簡単に片づけることはできません。得られた利益の原因について、信奉者たちが自分をあざむいているという場合も、ときにはあるでしょう。しかし、宗教的献身が力強い結果をもたらす有効な源泉であることを、私は疑いません。
 もちろん、個々の信奉者たちは、利益が得られたのは自分の宗教、自分の神、自分の瞑想の方式、自分の儀礼形態もしくは教義のおかげであるといいます。しかし、ここで私たちが気付くことは、実際には数多くの非常に異なる諸宗教がそれぞれに違った教義や解釈をもちながら、それらがほぼ同じように効果的に、信者たちが利益とみなす種々の結果をもたらしているようにみえる、ということです。
3  たとえば、キリスト教においても、人々は、きわめて多様な実践や信仰によって体験した病気治癒の諸例を、このうえない真剣さで証言しています。このことは、ローマ・カトリックにおける奇蹟の霊所(注1)から、ペンテコステ派(注2)の祈祷集会における熱狂ぶりや、クリスチャン・サイエンス(注3)の治療師が行う黙祷にいたるまで、当てはまることです。もっとも、これらの信仰のスタイルはたがいに大きく異なっており、それぞれの心酔者は、自分たちの信仰以外の主張に対しては、往々にしてきわめて排斥的です。
 これらすべてのことが示唆しているのは、大事なことは、信仰や実践の内容そのものよりも、信仰・実践に対する真剣さではないかということです。明らかに、あらゆる面で成功をおさめている宗教はありません。もし、すべてに成功しているとすれば、その結果だけで、もっと多くの人々が、たちまちその宗教を信じるようになっているでしょう。同時にまた、どんな宗教でも、信仰がもたらしうる物質的・心理的な利益だけで存立しうるということも、考えられません。宗教は、それ自体が真理であること、そして信者たちにとって適切な道徳的道標であることを主張するが故に、存立するのです。
4  宗教の真理は、宗教のもたらすよい結果、なかんずく心の平安によって証明される、ということがよくいわれます。しかし、宗教は、たんに奇蹟を生み出す媒体としてのみ存立するものではありません。人間が宗教を信ずるのは、その宗教が、真理そのものたることを主張しているからで、「あなたの利益になる」と主張するからではないのです。それとともに、宗教を信ずる人々は、天の恵みを受けるという考え方に敏感であり、そうした恩恵を重要視し、それに対する感謝の気持ちを表現することが、できるようになるものです。
 信者たちの通例として、ときには原因と結果について十分に厳密な吟味を加えることなく、自分の宗教から得た利益を、すぐにでも証言しようとします。だからといって、私は、そうした利益が本物でないというつもりはありません。ただ、敬虔な信徒というものは、あらゆるよき経験を自己の宗教のおかげだと考えがちなことは、認める必要があります。
5  信仰と、信仰への献身がもたらす果実には、密接な関係があります。これらの果実は、信者たちが実際に感じているものであり、したがって、そうした果実は真実のものであり、少なくとも心理的に真実のものである、ということは確実にいえるのです。その信者は信仰をもち、その信仰の力を感じ、その効力に満足し、より満足すべき心の状態に到達しているのであり、明瞭な物質的利益さえも体験しているかもしれないのです。
 もしもある人の主張が――あらゆる客観的な証拠に照らして、まだ明らかに病気であるにもかかわらず自分では治ったと主張するような、信仰治療や精神療法のカルト(注4)の場合のように――あまりにも現実にそぐわないものであるとすれば、その人の信仰は、明らかに危険なものといえるかもしれません。また、その人は、自分の心を欺いていることになるかもしれません。しかしながら、そうした場合を別とすれば、宗教的信仰の一般的に有益な効果というものは、十分に立証されています。宗教のもつこうした効果は、しばしば信者の献身を大きく強める力となり、間違いなく、人類のより大いなる善に役立つものなのです。
6  池田 「人々が宗教を信ずるのは、その宗教が真理そのものたることを主張しているからで、その宗教が『あなたの利益になる』と主張しているからではない」という教授のご指摘は、きわめて重要であると思います。宗教の最も重要な本質はここにあると、私も考えています。
 日蓮大聖人は「道理・証文よりも現証にはしかず」と、現実に顕れる結果の重要性を強調される一方で、しかし、より大切なのはその宗教の示す真理であることを、“いかなる迫害や誘惑に遭おうと、わが義(真理)が智者に破られないかぎりは、自己の信念を捨てはしない”と宣言し、示されています。
 しかし、真理の浅深、あるいは当否をも理解しようとすることは、一般に人々にとってはきわめて難しいものです。人々にとって、宗教が人生に有用であることを理解するのに最も容易な道は、現証を体験することです。それとともに、どんなに努力しても解決できない悩みを抱えている人々に人生の幸福を得させるために、私たちも、現証を強調しています。
 日蓮大聖人の仏法以外の宗教でも、さまざまな利益の体験は語られていますが、私たちは、そうしたさまざまな宗教を遍歴して解決できなかった悩みごとが、日蓮大聖人の仏法を信仰することによって初めて解決したという体験を語る人を、たくさん見聞しています。しかし、その点についてはここでは措きます。
7  大事なことは、利益の現証は、より深い真理の体得という仏法の根本に目覚めていくための、一つの入り口であるということです。利益の現証は、それなりにこの人生における悩みを解決し、幸せを実現してくれますが、そうした幸せは、それだけでは永続的なものではありません。なぜなら、この人生そのものが、やがては終末を迎えるのであり、永続的ではないのですから。仏法が人々に教えている深い真理の会得ということこそ、永続的な幸せにほかなりません。なぜなら、この真理とは、やがて終わる私たちのこの人生を超えて、宇宙の究極として存在し働いている大生命であり、それを自己の内奥に覚ることは、永遠に滅びることのない真の存在へと自己を昇華させることであるからです。
 日本の伝統的な仏教は、そのほとんどが観念的思索に閉じこもったり、形式化に陥って、大衆に密着した信仰のエネルギーを失い、したがって、利益の現証という体験も久しく失われてきました。たんに、自宗にそうした体験を語りうる人がいないというだけでなく、自らを正当化するために、利益の体験を主張することを邪道と決めつけるにさえいたったのです。
8  その反面、なんらの真理をも裏づけにもたない、いわば反伝統的な信仰が、利益の現証を宣伝して、次々と現れ、民衆の間に広まってきました。そうした現象に対して日本人は「イワシの頭も信心から」と言って揶揄してきたことも事実です。宗教が利益の現証を説くことに対して、人々、特に知識人が、ことさらに反感をもつ風潮を生じている一因も、ここにあります。
 このように、一方に、高踏な理論や形式に閉じこもって大衆と遊離している伝統的仏教宗派、他方に、現世的な利益論だけの浅薄で刹那的な新宗教という、両極への分裂が顕著化し、大部分の平均的知性をもった民衆は、そのいずれにも無関心か反感かをもって無宗教化してきたのが、日本の実情です。
 私は、利益の現証を訴えるとともに、高度で深遠な真理への探究を目標として教える日蓮大聖人の仏法は、こうして歪められ無宗教化してきた日本人の心に、本来の宗教への理解と関心をもたらすことができると信じています。
9  (注1)奇蹟の霊所
 ローマ・カトリックでは、奇蹟への信仰は、聖者の(神への)取り次ぎや特別な(神の)配剤などとともに、(たびたび公的に規制されたにもかかわらず)根強い伝統を形成している。現在でもフランスのルルドは、重病を治癒する奇蹟の霊地として信者を集めている。
 (注2)ペンテコステ派(運動)
 ペンテコスト(聖霊降臨日=キリスト復活後の第七日曜日)に起こった現象として聖書に記されている聖霊による賜物、特に神を讃える異言(グロサラリア)の賜物が、今日もなお働きをもつことを信じるプロテスタントのセクトの総称。ペンテコステ派に属する各セクトは一九〇〇年以後に発生し、その後、英語圏の各国、ラテン・アメリカなどに広まった。その運動をペンテコステ運動という。
 (注3)クリスチャン・サイエンス
 一八六〇年代に、ニューイングランドでメアリー・べイカー・エディによって設立されたこのセクトは、イエスの行った治療法はアメリカでエディ夫人によって再発見されたと主張している。事実の真実性を否定し、神が心であることと、その心の卓越性が主張される。登録された治療師は、患者に対して断定的な治療を行う。
 (注4)カルト
 伝統的組織の宗教教団に対し、組織性の薄い特殊な少数者の集団をいう。チャーチ、セクト、デノミネーションなどとは区別されて使われる。

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