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政治に望むこと  

「人生問答」松下幸之助(池田大作全集第8巻)

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28  靖国法案について
 池田 靖国法案が論議を呼んでいます。この法案には「三度と『英霊』を出さないようにするためにがんばることが、なによりの回向」(昭和四十九年四月十六日「朝日新聞」「声」欄)という遺族の声などもあり、戦前の軍国主義への巧妙なる回帰という反対者の意見も広く一般人に行き渡っているようです。
 私も靖国神社を国家管理にすることが英霊の供養という政府与党のいいぶんは事の本質を知らぬ形式論理の結論であると思います。英霊の供養は、「声」の投書でも訴えられているように、三度と不幸な戦争を起こさないということに尽きると思いますが、この法案に対してご意見をうかがいたいと思います。
 松下 この靖国法案については、賛成、反対、それぞれいろいろな意見があって、軽々に是非は論じられないように思います。ですから私は、これはお互い国民一人ひとりがほんとうに素直に考えて結論を出すことが、大切ではないかと思うのです。
 考え方はいろいろありましょうが、私は、問題は結局、国のために殉じた人びと、そのなかにはやはり純真な青年たちが多いと思うのですが、そうした人びとの英霊をいかに祭るかということではないかと思います。
 この点について、国民一人ひとりが胸に手を当てて考えてみてはどうでしょうか。つまり、かりに自分自身が国のために殉じたという身になったら、果たしてどう考えるだろうかということです。祭ってもらったほうがうれしいと思うか、祭ってくれないほうがいいと思うか、そのどちらかということを、純粋に死んでいった人の身になり、その心情を察して考えてみることが大切なのではないでしょうか。
 いいかえれば、死んでいった人たちの声なき声に聞いてみるということです。素直な心になってその人たちに聞いてみるのです。その声が、祭ってくれたほうがいいというか、あるいは二度と戦争を起こさないのであれば別に祭ってくれなくてもいいというか、それは聞いてみなければわかりませんが、いずれにしても、祭られる人たちの声なき声を聞くことが一番大事だと思います。
 ただ問題は、その声なき声をどのようにして聞くかです。科学的には聞けませんから、精神的に聞くしかないでしょう。これはむずかしいことですが、そうするほかはないと思います。一度、全国民が、真夜中に心を静めてその声を聞いてみてはどうでしょうか。そのとき自分の胸にひびいてきた声を聞けば、結論はおのずと出てくるのではないかと思います。
29  国難に殉じた人をいかに祭るか
 松下 どこの国でも、その建国以来、戦争その他の国難にさいしてこれに殉じた人が多かれ少なかれあると思います。そして、いずれの国においても、なんらかの施設を設けて、そうした国難に殉じた人びとを祭っています。ですから、たとえば他国の元首がその国を訪問したさいにそういう場所に詣で、花束を捧げてその人びとの霊を慰めるといったことが一つの慣習になっているように思われます。
 日本は二千年になんなんとする長い歴史をもっていますから、その間、国難に殉じた人は非常に数多いと思います。しかし今日、その人びとを祭り、外国の元首が来日されたさいに、花束を捧げ霊を慰めていただくための場所が、はっきりと定められていないようです。
 こうしたことは、国家の尊厳にもかかわってくることであり、そのような場所があってもいいのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。ご高見を賜わらば幸いです。
 池田 戦争その他の国難に殉じた人びとを祭る施設を設けるというのは、靖国神社を国家管理とするということを言外にいわれているのか、それとも新たにつくるといわれているのか、そのへんがはっきりいたしませんが、もし靖国神社を国家管理化する腹案をもっていわれているのならば賛成しかねます。
 それはすでにご存じのとおり、第二次世界大戦後、日本国憲法第二十条の精神にのっとって靖国神社は国家の管理をはなれて単立宗教法人となっているからです。したがって、現憲法のもとに靖国神社を国家管理にするのは明らかに憲法違反です。そして、私は現憲法にうたわれている「信教の自由」は、国民の精神的自由の最も中核となるものであり、この精神は今後とも守りつづけていかねばならない条項であると思っています。
 現在、政府・与党は靖国神社法案を国会で議決しようとしておりますが、この件についても私は何回か見解を発表しているとおり反対です。
 また、新たにつくるという考え方だとすれば、私は、それ自体に大きな問題があると思います。というのは、なぜこの時代に、国家のために、戦争によって殉じた人びとを国家の力によって祭るのか、という疑問が出てきます。それは、考えようによれば、国家のために生命を棒げることを奨励し、戦争を賛嘆することにならないでしょうか。
 このご質問のなかで、「外国の元首が来日されたさいに、花束を捧げ霊をなぐさめる場所が定められていないことは、国家の尊厳にかかわる」というご意見がありますが、あまり、こだわる必要はないと思います。
 その理由は、いくつかの点からいえますが、まず、日本国憲法の根底にあり、現代民主主義の精神ともいうべきものは、生命の尊厳を認めるところから出発しております。太平洋戦争などは、国家を尊厳なるものとして、人間生命をその犠牲にする考え方の象徴であったわけです。私は真に尊厳なものは一人ひとりの人間の生命であって国家ではないのだということを明確にするとともに、それはどういうことなのかを全人類が再認識することこそ先決であると考えております。
 この意味から、日本国憲法の戦争放棄の宣言は、生命の尊厳への崇高なる精神と普遍的な真理を条文化したものであり、理想的なものといえます。したがって日本国民が、あらゆる障害を乗り越えて厳守していってこそ、世界の国々の模範となっていけるのではないでしょうか。日本を訪れる元首も、この日本人の″法″に対する忠誠心、持続性を知って、それを正しく評価されるものと思います。いわれるように″国家の尊厳″にかかわるとは私には思えないのです。
 次に、祭られている英霊についても、国家の元首が花束を捧げたという行為によって供養され鎮められるものではありません。英霊に対する真の供養は、三度と再び、悲惨な戦争を繰り返さないという固い決意を実行に移していくことによってなされていくものと考えます。そして、そのためのあらゆる努力を惜しまず、また戦争につながるようなあらゆる動き、原因というものを取り除いていくことが、国難に殉じた人びとへの真心の供養といえるのではないでしょうか。
 とくに神道が国家宗教として国民の思想統一の号令に用いられ、戦争へ突入するために精神的準備に利用された思い出は、忘れようとしても忘れることのできない悲しい現実であり、それが再び国家の名において、英霊を鎮めるという理由で復活することには強く反対する必要があると思います。

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