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日蓮大聖人・池田大作

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政治に望むこと  

「人生問答」松下幸之助(池田大作全集第8巻)

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27  裁判と世論
 松下 今日、裁判というものは、いわゆる三権分立のもと、独立したかたちになっています。したがって、裁判官は憲法をはじめとするもろもろの法律を基準として、時の政府、時の風潮をこえて、公正無私に何が正しいかを判断しなくてはならないと思います。
 ところが、昨今の日本では、裁判に対する圧力的な世論が非常に強いように思われます。昔はそういった裁判所に対して圧力をかけるとか示威運動をすることはめったにありませんでした。今日は民主主義の時代ですから、そういうこともあって当然かもしれませんが、そのことが、本来、中正であるベき裁判官の心理になんらかの影響を与えはしないでしょうか。裁判官も人間である以上、そうした圧力によって多少動揺することも考えられますが、それでは裁判の公正が侵されるおそれもでてきます。
 裁判に対して世論が、なんらかの圧力をかけることについてどのようにお考えでしょうか。
 池田 裁判に対して世論が圧力をかけるのは好ましくないとのご意見のようですが、私はそのようには考えません。
 三権分立という制度は、裁判官が行政府、立法府から独立して、法律の指し示す根拠と自己の良心のみにもとづいて判断を下すことができるようにとの精神から生まれたものです。したがって、この二権分立による裁判所の独立というものは、他の行政府、立法府に対するものであって、国民から独立し、世論から遊離したものであるべきだということでは、全くありません。裁判所もまた、国民の信託にもとづくものであり、国民を代表し、国民のために裁判をする義務をもっています。というより、むしろ三権分立は、裁判所が国民の側にたてるための制度的保障です。
 ところで、ご質問には、裁判は裁判官に任せておけばよいのであって、民衆がとやかくいうべきではないというお考えが見受けられるようです。しかし、それは、政治は政府に、立法は国会に任せておいて、その結果に対して、ただ国民は黙って従っていればよいというのと同じになります。これは、もはや民主主義の根本精神に反します。
 司法制度といえども、それは、行政府、立法府と同じく、国民のものであり、その裁判の過程や結果について、国民がそれぞれ自身の意見をもち、厳しく評価するのは、むしろ当然の権利です。そして、この声を世論として盛り上げ、裁判に反映させようとするのは、国民として全く当然の行為です。したがって、アメリカなどにおいては、裁判にも民衆(の意思と判断)が参画できるように、陪審員制度をとっているわけです。
 裁判官は、この世論に真摯に耳を傾け、時代に対して、深い洞察をなしていかなければなりません。
 裁判所というのは、法の監視役として、ともすれば、時代性を超越したものとか、国家権威の象徴のように考えられがちであり、また、現実に、裁判所自体がそのような前近代的意識から抜けだせないでいるような面も多少なりとも見受けられます。しかし裁判にあたって、まず先立つものは″現実″そのものであり、裁判官にはその的確な把握がなによりも要請されるといえましょう。その事実に即して法を解釈し、適用するのが裁判官の任務であると私は考えています。この事実の認識と法律の解釈にあたって裁判官自身の識見が大きく問われることはいうまでもありません。そして現実社会は常に流動しています。それゆえ裁判官は、常に、現実社会の動き、世論、国民の意思というものに、十分な関心を払い、知悉していくことが大切といえましょう。
 このような世論を聞くことによって、本来、中正であるべき裁判官の心理が、なんらかの影響を受けることを懸念しておられるようですが、それも、いわれのないことと思われます。中正といっても、それは固定化され、時代的変化を離れてあるものでないことは、先にのべたとおりです。さらに、憲法等による裁判官への身分保障(最高裁判事の十年ごとの国民審査等)の現状をみるならば、裁判官自身が自己の良心に従って裁判できる立場は十分保障されています。しかも、この保障自体、裁判官が国民の声に従って裁判できるためのものといえるでしょう。
 総じて私は、国民はもっと裁判に関心をもち、大事な判決のあるごとに、大いに世論を巻きおこし、裁判に国民の意見を反映させていくべきであろうと考えます。
 ただし、世論を聞くといっても、一方的であってはなりませんし、世論だからといって明らかな正義を曲げることがあってはならないことは当然です。
28  靖国法案について
 池田 靖国法案が論議を呼んでいます。この法案には「三度と『英霊』を出さないようにするためにがんばることが、なによりの回向」(昭和四十九年四月十六日「朝日新聞」「声」欄)という遺族の声などもあり、戦前の軍国主義への巧妙なる回帰という反対者の意見も広く一般人に行き渡っているようです。
 私も靖国神社を国家管理にすることが英霊の供養という政府与党のいいぶんは事の本質を知らぬ形式論理の結論であると思います。英霊の供養は、「声」の投書でも訴えられているように、三度と不幸な戦争を起こさないということに尽きると思いますが、この法案に対してご意見をうかがいたいと思います。
 松下 この靖国法案については、賛成、反対、それぞれいろいろな意見があって、軽々に是非は論じられないように思います。ですから私は、これはお互い国民一人ひとりがほんとうに素直に考えて結論を出すことが、大切ではないかと思うのです。
 考え方はいろいろありましょうが、私は、問題は結局、国のために殉じた人びと、そのなかにはやはり純真な青年たちが多いと思うのですが、そうした人びとの英霊をいかに祭るかということではないかと思います。
 この点について、国民一人ひとりが胸に手を当てて考えてみてはどうでしょうか。つまり、かりに自分自身が国のために殉じたという身になったら、果たしてどう考えるだろうかということです。祭ってもらったほうがうれしいと思うか、祭ってくれないほうがいいと思うか、そのどちらかということを、純粋に死んでいった人の身になり、その心情を察して考えてみることが大切なのではないでしょうか。
 いいかえれば、死んでいった人たちの声なき声に聞いてみるということです。素直な心になってその人たちに聞いてみるのです。その声が、祭ってくれたほうがいいというか、あるいは二度と戦争を起こさないのであれば別に祭ってくれなくてもいいというか、それは聞いてみなければわかりませんが、いずれにしても、祭られる人たちの声なき声を聞くことが一番大事だと思います。
 ただ問題は、その声なき声をどのようにして聞くかです。科学的には聞けませんから、精神的に聞くしかないでしょう。これはむずかしいことですが、そうするほかはないと思います。一度、全国民が、真夜中に心を静めてその声を聞いてみてはどうでしょうか。そのとき自分の胸にひびいてきた声を聞けば、結論はおのずと出てくるのではないかと思います。
29  国難に殉じた人をいかに祭るか
 松下 どこの国でも、その建国以来、戦争その他の国難にさいしてこれに殉じた人が多かれ少なかれあると思います。そして、いずれの国においても、なんらかの施設を設けて、そうした国難に殉じた人びとを祭っています。ですから、たとえば他国の元首がその国を訪問したさいにそういう場所に詣で、花束を捧げてその人びとの霊を慰めるといったことが一つの慣習になっているように思われます。
 日本は二千年になんなんとする長い歴史をもっていますから、その間、国難に殉じた人は非常に数多いと思います。しかし今日、その人びとを祭り、外国の元首が来日されたさいに、花束を捧げ霊を慰めていただくための場所が、はっきりと定められていないようです。
 こうしたことは、国家の尊厳にもかかわってくることであり、そのような場所があってもいいのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。ご高見を賜わらば幸いです。
 池田 戦争その他の国難に殉じた人びとを祭る施設を設けるというのは、靖国神社を国家管理とするということを言外にいわれているのか、それとも新たにつくるといわれているのか、そのへんがはっきりいたしませんが、もし靖国神社を国家管理化する腹案をもっていわれているのならば賛成しかねます。
 それはすでにご存じのとおり、第二次世界大戦後、日本国憲法第二十条の精神にのっとって靖国神社は国家の管理をはなれて単立宗教法人となっているからです。したがって、現憲法のもとに靖国神社を国家管理にするのは明らかに憲法違反です。そして、私は現憲法にうたわれている「信教の自由」は、国民の精神的自由の最も中核となるものであり、この精神は今後とも守りつづけていかねばならない条項であると思っています。
 現在、政府・与党は靖国神社法案を国会で議決しようとしておりますが、この件についても私は何回か見解を発表しているとおり反対です。
 また、新たにつくるという考え方だとすれば、私は、それ自体に大きな問題があると思います。というのは、なぜこの時代に、国家のために、戦争によって殉じた人びとを国家の力によって祭るのか、という疑問が出てきます。それは、考えようによれば、国家のために生命を棒げることを奨励し、戦争を賛嘆することにならないでしょうか。
 このご質問のなかで、「外国の元首が来日されたさいに、花束を捧げ霊をなぐさめる場所が定められていないことは、国家の尊厳にかかわる」というご意見がありますが、あまり、こだわる必要はないと思います。
 その理由は、いくつかの点からいえますが、まず、日本国憲法の根底にあり、現代民主主義の精神ともいうべきものは、生命の尊厳を認めるところから出発しております。太平洋戦争などは、国家を尊厳なるものとして、人間生命をその犠牲にする考え方の象徴であったわけです。私は真に尊厳なものは一人ひとりの人間の生命であって国家ではないのだということを明確にするとともに、それはどういうことなのかを全人類が再認識することこそ先決であると考えております。
 この意味から、日本国憲法の戦争放棄の宣言は、生命の尊厳への崇高なる精神と普遍的な真理を条文化したものであり、理想的なものといえます。したがって日本国民が、あらゆる障害を乗り越えて厳守していってこそ、世界の国々の模範となっていけるのではないでしょうか。日本を訪れる元首も、この日本人の″法″に対する忠誠心、持続性を知って、それを正しく評価されるものと思います。いわれるように″国家の尊厳″にかかわるとは私には思えないのです。
 次に、祭られている英霊についても、国家の元首が花束を捧げたという行為によって供養され鎮められるものではありません。英霊に対する真の供養は、三度と再び、悲惨な戦争を繰り返さないという固い決意を実行に移していくことによってなされていくものと考えます。そして、そのためのあらゆる努力を惜しまず、また戦争につながるようなあらゆる動き、原因というものを取り除いていくことが、国難に殉じた人びとへの真心の供養といえるのではないでしょうか。
 とくに神道が国家宗教として国民の思想統一の号令に用いられ、戦争へ突入するために精神的準備に利用された思い出は、忘れようとしても忘れることのできない悲しい現実であり、それが再び国家の名において、英霊を鎮めるという理由で復活することには強く反対する必要があると思います。

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