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政治に望むこと  

「人生問答」松下幸之助(池田大作全集第8巻)

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1  政治の目的は何か
 松下 政治の役割とか目的については、昔からいろいろのことがいわれているようですし、また、政治の内容も今日では複雑多岐にわたっています。そのため、ともすれば、基本的に大切なものが見失われるおそれもあると思うのですが、いったい政治というものは、何のために行なわれるものなのでしょうか。いろいろ議論もありましょうが、わかりやすく端的にいえば、どういうことになるでしょうか。
 池田 政治の目的は、これを一言にしていえば、個人の幸福と社会の繁栄との一致を達成することだと思います。このことは、私の恩師である戸田城聖第二代会長が訴えておられたことでもあります。
 なるほど、個人の幸福は、各個人の努力と信念によって、あるていど実現できるかもしれません。しかし、社会全体が大きく変動したときには、個人の努力も一瞬にして水泡に帰しかねません。
 しかも、各個人の利害は複雑に入り組んでおり、ある個人の幸福が他の多くの人の不幸をもたらすことも、なきにしもあらずです。あるいは反対に、社会全体の繁栄のために、少数の個人が不幸を強いられる事実も、数多くみられます。とくに近代の市民社会においては、各個人の私権と私権、また私権と公権のぶつかりあいがいたるところに発生しています。
 政治の目的の第一は、そうした私権相互の葛藤を克服し、対立を止揚するとともに、公権と私権の境界を明確にし、誰もが幸福になりうる道を開くことではないでしょうか。憲法第二十五条にも明記されているように、すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利をもっています。そのような国民の生存権を守り、理想を達成できる政治を行なうことが、憲法第九十九条によって、この憲法の規定を尊重し擁護することを義務づけられている公務員、なかんずく政治家の第一の目的でなければなりません。
 ところで、すべての国民に健康で文化的な幸福生活を保障するためには、社会全体の繁栄を無視するわけにはいきません。ケインズの理論にもあるように、パイの分け前を多くするには、パイそのものを大きくしなければならないということも、たしかに一理あります。しかし、そのさい、どんなにパイを大きくしても、各人に対するパイの分配が不平等になされるようであっては、国民の間に対立と不信を招く結果になってしまうでしょう。
 たとえば、たしかに戦後の日本経済の発展は、まことに目覚ましいものがあったといえます。しかし、国民の偽らざる胸の内では、大きくなったパイが平等に分けられていると感じている人は、ほとんどないと思います。事実、そのことは国連の統計資料によっても明らかです。七一年度の国民総生産、いわゆるGNPでは、日本は自由世界第二位を保っていますが、一人あたりの国民所得となると、アメリカにはるかにおよばないのは当然としても、カナダ、西ドイツ、ベルギー、オランダ、イギリスよりも等しいものとなっています。ここに、投げ溝して働いた国民が、政治に不信の目を向ける根本的な原因があるのではないでしょうか。したがって、政治の目的の第二は、このような不平等を取り除くことにあると思うのです。
 さらに最近の日本では、パイの分け前の不平等を論じる以前の問題として、日本経済の急激な高度成長が、公害や環境破壊をもたらし、多くの国民に不幸を強いる結果になっています。しかも、これは、日本国民に対するだけではなく、わが国の経済が進出している地域、すなわちアジア各国をはじめとして、世界中に不幸をまきちらし、反日感情を生んでいるわけです。そうした問題に対して、政治家は謙虚に反省し、ここで政治の在り方を根本的に転換する必要があるのではないでしょうか。
 政治の目的が、個人の幸福と社会の繁栄との一致を目指すところにあるとした、私の恩師の提言は、たんに日本一国だけを問題としたものではありません。一国の繁栄が、他国の不幸のうえに築かれてはならないこと、大国の幸福のために、小国が犠牲になってはならないことまでを含み込んだうえでの発言だったのです。すなわち、地球上のすべての民族が、平和的に共存しうる道を探し、切り開いていくことも、政治に課せられた重要な任務としなければならないでしょう。
2  政治に欠けているもの
 松下 国家の発展、国民の福祉向上にとって一番大事なことは、なんといっても、政治のよしあしではないかと思います。ところが、今日の日本においては、政治にいろいろと問題が多く、必ずしも好ましい政治が行なわれているとはいいがたいものが感じられます。
 個々に取り上げればいろいろと問題がありましょうが、今日のわが国の政治に一番欠けているものは何だとお考えでしょうか。
 池田 現代日本の政治に問題が多く、必ずしも好ましい状態ではないとのご感想に、私も同感いたします。では、今日の政治に最も欠けているものは何かとのご質問ですが、私はそれは″慈悲″――人びとの苦しみと同苦し、苦悩を抜きさり、生きる喜びを与えていこうとする熱情――であるということを、まえまえから指摘してきました。
 もちろん、政治の欠陥について、個々に制度的な面の不備を指摘することもできましょう。議会制民主主義の在り方を根本的に問い直す議論があることも承知しております。選挙制度の改革や政治資金を規制することが、政治をよくする道であるという意見もあります。しかし、そうした制度的改革を手がける以前に、まず政治家が″慈悲″の精神をもつベきであるというのが、私どもの主張なのです。
 たとえば、今日の政治家のうち、はたして何人の人が庶民の苦しみをわが苦しみとしているでしょうか。毎晩、料亭で財界代表と懇談している政治家に、物価上昇で苦しむ主婦の悲鳴が聞こえるのでしょうか。また環境庁長官は当然としても、それ以外の首相をはじめとする閣僚のうち何人の実力大臣が、たとえば水俣の現地へ行って直接患者の苦しい実情を見聞したでしょうか……。
 このように具体例をあげていけば、まだまだ枚挙にいとまがありません。要は与野党を問わず、また保守・革新を含めて、およそ政治家を志すほどの人は、国民全体の代表であり、ほんの一握りの財界や圧力団体の利益代表であってはならないはずです。国民の付託にこたえ、庶民の声なき声までも聞く耳をもたなければならないと思うのです。そして、庶民の苦しみを知り、それを解決しようとする一念にたちさえすれば、日本の政治は見違えるほどよくなると、私は固く信じています。
3  民間が政府に任せた
 松下 社会が複雑になってくるにつれ、政府の果たすべき機能も多岐にわたってくるのも一面当然かもしれませんが、なにもかも政府がやるということでは、政府の力が分散してしまい、また国民も依頼心をもって、結局かえって事がスムーズに効率よく運ばないことになってしまいます。そこで、政府は政府でなくてはできないことだけをやり、他は民間に任すということが必要になってくると思うのですが、いかがでしょうか。
 池田 私は、これは、基本的な考え方をキチンと立て直してみることが大事だと思います。政府はどこまでやるか、民間はどれだけやるかという具体的な問題は、一つ一つ取り上げていたら際限がありませんし、なによりも、根本の考え方がはっきりしなければ、判断も下せないでしょう。
 そこで私が強調したい″基本的な考え方″というのは、いったいこの人間社会の主役・主体は政府なのか民間なのかという点です。申すまでもなく、民主主義思想の基盤は、まず人間の集まりがあった、この集まりが秩序の維持のために王あるいは政府をつくり、そのための権利を委託した、というところにあります。
 つまり「政府は政府でなくてはできないことだけをやり、他は民間に任す」というのではなく、本来は民間がすべてで、必要性に迫られて政府をつくり、政府でなくてはできないことを民間が政府に任せたのです。
 もちろん、歴史的には、このようにいうことは異論があるかもしれませんが、民主主義の理念とは、この一点にあるわけです。
 これが明確になれば、政府が始めた戦争のために、国民が犠牲を強いられることもなくなるはずですし、政府があらゆる権力を握って国民はその思うままに操られることもありえないでしょう。また、あまりにも政府のすべきことが多くて力が分散し中途半端になることもなければ、国民が依頼心をもってかえって事がスムーズに効率よく運ばない、などということも、本来ありえないはずです。
4  国家権力と人民
 松下 封建的な時代、専制的な時代には、国家権力というものは、人民と相対立するという面があったと思います。一方、民主主義においては、主権は人民にあり、したがって、国家権力はすなわち人民権力だと思うのです。ところが今日のわが国では、とかく国家権力が人民と相反するもののように考えられ、それで議論をたたかわせ、争いをしげくさせている面がみられます。このように、国家権力というものを昔のままに錯覚するような見方はなぜ生まれてくるとお考えでしょうか。
 池田 わが国が国民主権を標榜し、制度のうえでも、その理念が保障されるような手続きを定めていることは事実ですが、これをもって、国家権力即人民権力であるとするのは、理論的にも飛躍があるし、実際とも異なることであると考えます。
 すなわち、国民主権ということは、君主主権等の言葉に対して用いられ、国家権力の根拠がどこにあるか、また、その権力の行使が正当性をもつ理由はどこにあるかをのべたものです。それに対して国家権力の行使それ自体は、今日においては国民の代表者としての地位を与えられ、国民から委託された機関が行使するのであり、常に少数者が管掌しています。これは日本国憲法の前文の「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」との文からも明らかなことです。
 つまり、統治権の根拠は国民に求められるが、統治権の行使は、統治組織が行なっているのが実際であり、この事実を無視しては、政治を論ずることはできません。
 そこで問題は、この統治機関が、手続的にはむろんのこととして、実質的に真に国民を代表しているかどうか、その権力の行使にあたって″国民″の福祉を忘れさって私利に走っていないかどうか等の点に求められるわけです。「今日のわが国では、とかく国家権力が人民と相反するもののように考えられ」ているとの、ご質問に示された現状分析については、私は、ただ「考えられている」のではなく、「事実」として、まことにそのとおりであると考えます。今日の国家権力の行使の在り方は、私たち一般国民にとって、封建的な時代、専制的な時代のそれのように、違和感をもって迫ってきています。まるで国民の福祉と相対立する支配層が、民主日本の国土を領有しているかのような「錯覚」さえいだかせます。この「錯覚」が、錯覚に終わらず、冷厳なる「事実」としてのしかかってきているところに、今日の日本社会の不幸があると私はいいたいのです。
 今日の国会における審議にしても、行政府の政策にしても″国民の福祉″が第一義になっているとは、どうしても考えられません。そこには″一部国民の利益″とか、一政党の思惑とかが、色濃くまつわりついているとの感をぬぐいさることができないのは、けっして私一人ではないでしょう。
 このような政治の私物化という事実がなぜ生まれてくるのかということについては、私は権力の魔性ということをあげざるをえません。権力の獲得ということは、本来は、政治家にとって、自己の政治目的達成のための手段であるべきはずです。それが、いつのまにか、権力の獲得それ自体が政治の目的となってしまうところに、権力の魔性が姿をあらわしてくるといえましょう。この権力の魔性の実体は、人間生命のなかに巣くう権力欲であリエゴです。
 現代日本の政治に、憲法が目指す民主主義の理想を蘇らせ、政治権力が民衆自身のために正当に使われる社会を実現させるためには、民衆の結束による政治家覚醒の、絶えまない戦いが必要であると、私は考えます。
5  権力行使の在り方
 松下 政治の権力というと、なんとなく上から抑えつけるような感じもしますが、しかし封建時代の政治とは異なり、今日の民主主義政治のもとでは、為政者は主権者たる国民の代表としてその権力を正しく行使する責任があると思います。
 しかるに昨今は、どちらかというと、迎合的になって、毅然とした権力行使の姿をみせず、それがかえって国を乱しているようにも思われます。いったい、国民のために権力はどのていど行使するのが好ましいのでしょうか。
 池田 昨今の権力行使の在り方が、どちらかというと迎合的になって、毅然とした権力行使の姿をみせておらず、それがかえって国を乱しているとのご意見は、具体的にどういうことを指していわれたことか、判断がつきかねます。しかし、もし政府の政策に対する民衆の抵抗運動と、それへの権力の行使ということを意味しておられるならば、このご意見には全く賛成しかねます。
 民衆の抵抗運動は、国家、とくに行政府と民衆の側との価値観の相違から生じるものです。それが、暴力をもってする等、非合法なものにいたらないかぎり、その価値観の相違を権力をもって解決しようとすることは、すべての人びとに自己の信条を貫くうえでの平等の権利を与えている民主主義という根本原理に反するものであると私は考えます。価値観の相違、意見の相違は、あくまでも、言論によって、双方が相手の立場を理解しあい、なんらかの結論を見いだしていくべきであります。民主主義にもとづく政治は、たんに議会の決議をもって終わるのではなく、現実の行使の場においても、民主主義は貫かれなければなりません。それがたとえ、かえって紛糾を呼び、物事の解決への迂遠の道のりのようにみえても、私たちは、その努力を、けっして怠ってはならないでしょう。なぜなら、それが、民主主義を守り育てる唯一の道だからです。
 その意味からいえば、今日の権力行使の在り方は、私はむしろ行き過ぎすらあると感じております。これ以上の権力の行使は、国民不在の政治傾向をますます強め、民主主義制度それ自体の崩壊へとつながっていくであろうことを憂えるものです。
 また、もしご質問の意味されるものが、とかくウワサの種になる経済界その他、強大な圧力団体と政界との癒着、馴れ合いを指しており、それに対してもっと毅然とした政治家の姿勢が必要であるとのご意見であるとするなら、私も全く同感です。政治家には、国民すべてのために、政治をとり行なうべき使命と責任とがあり、一部勢力の愧儡となるべきではないと信ずるからです。
 また、権力はどのていど行使するのが望ましいかとのご質問ですが、まず問題とすべきは、権力(心理的。物理的強制力)行使の方向性であるといえましょう。はたしてそれが″国民の福祉″のために使われようとしているのかどうかが、常に、まず第一に問われなければなりません。またそれが、たとえ形式的にも実質的にも″国民の福祉″(最大多数の最大幸福)のためのものであったとしても、少数の人びとの基本的人権を無視した権力の行使は、行き過ぎということになりましょう。
 具体的事実に即して権力行使の限界を論ずることは、私にとって困難なことです。基本的には、法律をふまえ、憲法の精神にのっとっていくことが、権力の正しい行使になると考えられますが、個々の問題については、そのときそのときで判断する以外ないと思います。
 ただ私は、一市民として、今日の政治に、社会的・経済的強者を保護するためではなく、社会的弱者、経済的弱者を、どこまでも守り抜くための権力の行使であってほしいと、強く望んでいます。
6  法治主義の倒錯
 池田 法治主義とは、法によって国家権力の暴走を食い止めることをいいますが、現今の政治の動向をみていますと、反対に、あたかも仮借ない法の行使によって、権力を民衆の生活のすみずみにまでおよぼし統治することのように考えられているふしがみられます。これは恐るべき倒錯であると考えますが、いかがでしょうか。また、こうした倒錯の思考を変革するには何が大事でしょうか。
 松下 法治主義とは、行政は法にもとづいて行なわれなければならないということだと思いますが、今日の日本がその反対の姿、つまり法によって国家権力が暴走している姿にあるかどうかは、軽々に断定できないように思われます。
 あるいは、そういった面もあるかもしれませんが、その逆の姿もあるのではないでしょうか。つまり、なんらかの圧力によって、国家権力が暴走どころか無力になり、法がおよばない、社会混乱が起こるといったことも一方では生じているような感じがするのです。
 たとえば、一人や二人が社会秩序を乱し、他人に迷惑をかけたなら、これはすぐ法により逮捕されるでしょう。それはそれでいいわけです。しかし、何万あるいは何十万というような多数の人が、圧力団体などとなって行動し、他人に迷惑をかけたり、社会の秩序を乱しても、それは法のおよぶところとはならず、しばしば放置されているのが実情ではないでしょうか。
 そういうことを考えてみますと、今日の日本においては、力の弱い者に対してはご質問にあるように、法というか国家権力がおよぶけれども、反対に強い圧力に対しては、国家権力は無力になってしまっているといえましょう。そうした、国家権力の無力化ということも、きわめて重大な問題ではないかと思うのです。
 いってみれば、力が正義だということになっているわけです。そして、そのことが今日の日本の社会において、混乱の大きな原因の一つとなっていると考えられます。ですから、ご指摘のような国家権力の暴走という面ももちろん軽視できませんが、そのことと国家権力の無力化という面と、この二つを合わせて考え、物事を判断する必要があるのではないでしょうか。
 そうした姿がなぜ起こってきたかといいますと、結局、これは政治家や公務員の人びとも含めて、お互い国民の良識の培養が十分になされていないからだと思います。法の乱用、国家権力の暴走も、反対に国家権力を無力にするような圧力がまかりとおるのも、ともに国民の良識の培養が足りないところから生じた姿だと思うのです。
 ですから、それを是正していくためには、やはり国民の良識を高めていかなくてはなりません。そういう国民教育、社会人教育というものを力強く行なっていくことが、なによりも大切だと思います。
7  国民の声と政治
 松下 国民各界各層の声といいますか、要望を政治に反映させることは、きわめて大切だと思います。
 しかし、これも一歩あやまると、いわゆる圧力団体の横行となったり、大衆迎合の政治に堕してしまうおそれもあると思うのです。真に国民の声を生かし、その要望にそった政治を行なっていくために、政治家にとって、また国民にとってどういうことが大切なのでしょうか。
 池田 まず政治家に望みたいことは、できるかぎり国民のなまの生活に、じかに接するようにしてもらいたいということです。選挙の時だけ、街頭演説や遊説カーで手を振るのではなく、日常の生活のなかに飛び込み、庶民の意見を絶えず聞く耳をもってほしいのです。
 とくに地方議会の議員などは、それが可能なはずです。たとえば議員の自宅や事務所を生活相談の窓口にして開放し、誰もが政治の問題に関して相談し、意見を交換しあえるようなサロンを形成してはどうでしょうか。それをもって議会活動に庶民のなまの声を代弁し、さらに国政レベルの問題については、所属する党の中央機関に反映していくべきでしょう。
 そのような地道な日常活動は、国会議員でも可能なはずです。むろん、その活動範囲は全国的な規模にわたることになりましょうが、常に国民大衆と一体になった意識をもつならば、庶民の切実な願望がどこにあるかを、身にしみて知ることができるにちがいありません。
 たとえば、国会の開会期間中でも次期選挙の事前運動的な活動に終始するのか、あるいは国民の声を国政に反映する活動をするかでその違いが明確になるはずです。
 また、最近の日本の新しい動向として、各地に市民運動、あるいは地域の住民運動が盛んになっています。なかには、革新政党や労組によって指導されているものもありますが、一方では無党派の、庶民のやむにやまれぬ心情から起こされた運動も少なくありません。庶民の側にたつ政治家であるならば、こうした住民運動とも連帯のスクラムを組み、そこで出された国民大衆の声を政治に反映すべきではないでしょうか。
 さて、次は国民の側からの問題です。日本国憲法の規定にみるまでもなく、主権者は国民の一人ひとりです。政治は政治家に任せておけばいいのではなく、国民こそ国政の主人であるという自覚を強くもつべきでしょう。したがって、政治が悪いのは政治家だけが悪いのではなく、そのような政治家を選出した国民みずからの″失敗″も反省してみる必要があるでしょう。
 たとえば、選挙の時だけしか主権者としての権利を行使することはなかったのではないか。否、選挙の時さえ、はたして、ほんとうに国民が主権者であることを自覚しているかということも反省してみる必要がありそうです。主権者というのは、たんなる選挙の投票要員ではないはずです。常に政治の動向に強い関心をもち、厳しく政治を監視して、むしろ国民が政治家を、どしどし使っていくべきです。それこそ主権在民の姿であって、あくまで議員は公僕、つまり公衆に奉仕するものでなくてはならないのです。
 わが国の場合、その点、まだ国民と政治家の関係を逆に考えているきらいが少なからずあるようです。政治家を「先生」と呼んだり、スター扱いしていますが、国民こそ政治の主人であるという自覚をもちたいものです。
 ご質問のなかに「圧力団体の横行」とか「大衆迎合の政治に堕す」との憂慮もみられますが、ふだんから政治家は国民の声をよく政治に反映し、国民もまたみずから政治の主人であるという関係をよくわきまえて行動すれば、そのような心配は無用になると思われます。
8  政治家が尊敬されるには
 松下 職業に貴賤の別はありませんが、ただ政治家という職業は、国民の労作を生かすか生かさないかの重大な職責を担っているのではないかと思われます。それだけに、国民としては政治家を尊敬することが大切ですし、また尊敬にふさわしい待遇をすることが必要ではないでしょうか。
 今日のように、国民がどちらかといえば政治家を軽視しているような状態で、ほんとうによい政治が生まれてくるとお考えでしょうか。
 池田 ご質問の趣旨は、よい政治が生まれるためには、国民が政治家を尊敬し、厚い待遇をすることが必要であり、今日の日本のごとく、国民が政治家を軽視しているところからは、よい政治は生まれないということであると思います。
 しかし、私はこのご趣旨には、賛成しかねます。なぜなら、これは視点が逆転していると考えるからです。政治家への国民の尊敬、信頼というものは、政治家自身が、その実績を通じて獲得すべきものではないでしょうか。今日までの世界の歴史をみても、偉大な政治家として、国民の尊敬を集めた人びとも、けっしてその初めから信頼と尊敬につつまれて政治を行なったわけではありません。むしろ、さまざまな評価を受けながら、その時代への卓見、実践力、国民への誠実さ等によって勝ち取った実績を通じて、しだいに人びとから尊敬されるようになっているのが事実です。
 むろん、政治家という仕事が、本来、社会的に重い責任を背負い、心労の多い仕事であることは私も十分に理解できますし、国民の大半も、それは理解しているといえましょう。それだけに、その重責と労作業をあえて引き受けてたった政治家に、国民は期待もし、注目もしています。その期待と注目にこたえるかどうかが、尊敬を集めるか、軽蔑の心を生むかの分かれ目になります。
 おっしゃるように、今日の日本の国民は、どちらかといえば政治家を軽視しています。しかし、その責任は、国民の側にあるのではありません。私は、この事実こそ、今日までの日本の政治家が、国民の期待と注目を裏切ってきたことを示す、冷厳な証左であると主張したいのです。今日の日本社会は、政治不在の社会といってもいいすぎではないように、私には思われます。政治を忘れて票田の獲得に腐心し、一部勢力の利益を守ることに汲々としている政治家を、国民が尊敬できるはずはありません。
 尊敬と信頼に値する政治家の出現こそが、今日の日本の政界に、最も望まれることであるといえましよう。
9  総理大臣に望まれる要件
 松下 一国の盛衰、国民の幸・不幸は、政治いかんによって大きく変わってきますが、なかでも政治家のリーダーともいうべき総理大臣によるところがきわめて大だと思います。
 人間である以上、完全無欠ということはもちろん望めないと思いますが、総理大臣として、これだけのものはそなえていなくてはならないという要件として、どのようなものが考えられるでしょうか。
 池田 政治家であれば、専門的見地から総理大臣のそなえるべき要件を種々あげることができるでしょうが、私はここでは一国民として感じるままをのベる以外にありません。
 政治が国民生活のすみずみにまで入り込んでいる現代にあっては、政治家の資質はきわめて大きな影響力をもっており、なかんずく総理大臣のそれについては、より完璧であることをいくら望んでも望み過ぎるということはけっしてないといってよいでしょう。そういう意味では無数の要件があげられるでしょうが、要約して次の三点を望んでおきたいと思います。
 まず第一に、国民の下僕としての姿勢こそ根本であるということです。これは公職にある者すべてが等しく負うべき責任ですが、この姿勢の欠如しているところに政治が国民と遊離し、国民から不信の目を向けられる最大の要因があるといえます。もし大衆の機微を知り、国民に対する深い思いやりが発言の一つひとつ、施策のすみずみにまであふれているならば、少々の試行錯誤はあっても、国民は政治を信頼し、かえって支援するものです。逆に国民を下僕とみなし、愚民視する政治は、いかに高邁な理想を掲げても民心の離反は防げません。国民を犠牲にし一部の階級の繁栄をもたらすような政策はもってのほかです。国民のためなら、みずからの犠牲もいとわないという先憂後楽の精神こそ、政治家なかんずく総理大臣の不可欠の要件であると考えます。
 第二に、未来を展望する哲学です。日本の国を預かり、いかに安定した発展をもたらすかは、広い視野にたった展望のいかんが大きな部分を占めることはいうまでもありません。「国家百年の大計」とよくいいますが、長期の展望をもって政策の立案、施行をしてもらいたい。場当たり主義、思いつきのアイデアだけでは、一国の総理は務まりません。また、その展望は、たんに長期的な視野にたつだけでなく、広く世界を見つめ、その国際社会における日本の位置を洞察してなされなければならないと考えます。現代世界は、他国への影響を無視して一国のみの安寧、繁栄を考えることはできない有機的な広がりをもっています。世界のなかにあって日本が果たすべき役割を考え、いかにすれば調和ある平和世界のなかで日本が幸福と繁栄を享受できるかに腐心していただきたい。
 時間的には数百年にわたる展望を、また空間的には全世界を見つめた視野の広さが要請されてしかるべきです。そうすれば国際社会においても、建設的な意見をのべ、平和を実現する推進役にもなれるはずです。外交政策が後手後手に回っている事なかれ主義の日本の現状はそうした賢明さの欠如にあるともいえるでしょう。
 それには、空漠たるビジョンであってはなりません。たしかな政治理念に裏付けられていなければならないのはいうまでもありません。国民を犠牲にする戦争は、いかなる手段としても絶対に用いないという徹底した平和政策、国民主権を最大限に発揮させ、確立させること、その根底には生命を至上の宝として畏敬する姿勢、哲学が必要であろうと考えます。鹿を追って山を見ない愚かさは、総理として失格といわざるをえません。
 第三に、それらを基本線にして、あとは現実の諸政策を賢明に立案、施行する「知恵」の問題です。理想主義だけではパンを得ることはできない。物価を抑制するにはいかなる政策を断行すべきか、住宅政策はいかにあるべきか――豊かな発想と現実に密着した巧みな政治技術が発揮されなければなりません。
 わが国の政策が硬直しているといわれる理由の一つに、政治家が自身の利害に奔走し、政策を官僚に任せきりであることがあげられております。政治家が政治の実態をよく知らないことは背任であるといわざるをえません。よく官僚のつくった答弁を丸読みして失笑を買う場面が見られますが、もってのほかでありましょう。官僚機構自体、悪の存在であるというつもりはありませんが、これを生き生きと国民のために活用し機能させていくために、政治家自身がもっと勉強し、苦労する必要があります。総理はこの先頭をきってもらいたい。その努力のなかに政治技術の向上があるはずです。
 そのほか、要望したいことは山ほどあり、今望んだことはごく当然の基本的なことばかりです。しかし、その当然のことを緊急の課題として要請しなければならないところに、日本の政治の貧困さが浮かびあがるように思われてなりません。
10  首相と党首の在り方
 松下 今日の日本では、与党の総裁と総理大臣とが同じ人であり、これまでもだいたいそういう姿できました。それに対して、たとえばソビエトのような社会主義の国では、党の書記長と首相とをそれぞれ別の人が担当している場合が多いようです。
 もちろん体制の違いということもあって、一概には論じられないかもしれませんが、わが国においても、首相と党首を別々の人が担当するほうがより好ましいとお考えでしょうか。それとも、現在のような姿のままでいい、とお考えでしょうか。
 池田 首相と党首は政治の世界における役割と機能が全く異なることはいうまでもありません。
 党首は政党の党首です。政党は一国の政治の動向、展望について、一定の信念と思想を同じくする人びとの集まりです。そして、その代表者が党首です。したがって、党首というのは、あくまで、一国の政治における複数の政党の一つを代表する機能にすぎません。これに対して、首相は、一国の政治を代表し、国家的、全国民的立場から政治を行なう機能を受け持ちます。
 以上のべました機能面の違いからいつて、理想論、原理上からは党首と首相とは同一人物でないほうがベターであるといえましょう。
 たしかに、党首と首相が同一人物の場合、政党の仕事と全国民的な仕事の二つを背負い込み、責任の重さから、また多忙さのゆえに、いかに力量ある人物といえども、双方の仕事をこなすのは並みたいていではありません。
 いきおい、健康を害するか、双方の仕事のどちらも結果的には不徹底に終わらざるをえないか、になってくるのは目にみえています。
 では、分離すればよい、といって簡単に分離できないところに、理想論、原理論では割りきれない現実の複雑さがあるように思います。
 現に、日本の政治は、日本国憲法の定めるとおり、議院内閣制をとっております。内閣総理大臣は、国会議員のなかから国会の議決により、指名されるという条項からいって、多数を占める政党の党首が首相になるのは必然的といってよいでしょう。
 したがって、ある意味では、今日の日本において、党首と首相とが同一人物であるのは、制度上からくる問題ともいえます。
 しかし、問題はその先にあります。
 これは微妙な事柄ですが、たしかに結果的には首相と党首が同一人物になるのは制度上の必然とはいえ、それ自体が不動の前提として事が行なわれだすと、これは本末転倒になるのではないでしょうか。現実に、今日の政治には、はっきりとその姿をみることができます。
 与党の総裁選挙がそのまま実質的には首相選出を意味することになっている事態はその好例です。与党の総裁に選出されると、内閣総理大臣の指名は、もはや形式、儀礼のこととなり、ここに、国会よりも与党内の抗争、取り引きなどが優先される結果になっております。
 いきおい、国民のなかの多様な思想や意見を考慮して、慎重に国民のコンセンサスを求めて動いていくべき政治が、党利党略に流され、政党内の閉ざされた空間で処理されていくことにならざるをえません。
 これまでにも、たびたび出た首相公選論にしても、党首と首相と別人物にする議論にしても、それ自体が与党の派閥内の抗争から出てきたところに問題の深さがあることを憂えます。
 私の今感じていることは、党首と首相の関係を一度、原点に帰して、憲法の条項に照らし、全国民的見地から、国民の最も望む方向に検討すべき段階にさしかかっているのではないかということです。
11  歴史上の偉大な政治家
 松下 今までの世界の歴史において、偉大な政治家と思われる方を一人お示しのうえ、その政治家がなぜ偉大であったのか、また今日の政治家が最も学ばねばならない点は何か、についてのご高見を賜わらば幸せです。
 池田 一個の人間の業績というものは、その時代的背景を離れて論ずることはできないものです。とくに政治家の場合、現実社会そのものが、仕事の舞台であるだけに、時代、社会状況との関係は、よりいっそう深いものがあります。それゆえ、誰が、今日までの歴史において最も偉大な政治家であったかを判断することは、きわめて困難なことといえましよう。
 さまざまな時代に、さまざまな意味で偉大な業績を残した人がおりますが、あえて、一人の名前をあげるとするなら、激動の時代に民主主義の精神を貫きながら、奴隷解放という偉大な仕事を完成させたアメリカ第十六代大統領のリンカーンの名をあげたいと思います。
 彼が大統領に就任した時代は、奴隷制度の是非をめぐって、アメリカは南北に分裂し、それぞれの勢力の過激派が、激しい憎悪をもって対峙していました。このようななかにあって、リンカーンは、奴隷制度が道徳的に悪であるとの信念にたちつつも、けっして、熱狂的な勢力に巻き込まれることなく、冷静に事態を分析しながら、可能なかぎり、穏健な路線を推進していきました。
 奴隷制度をめぐる南北の対立は、リンカーンの努力にもかかわらず四年の長きにわたる南北戦争という一大内戦にまで発展しましたが、リンカーンは、この戦争を、たんなる北部の南部に対する勝利に終わらせず、「すべての人は平等に創られているという命題に捧げられた新しい国」アメリカの蘇生への″試練″として位置づけ、「人民の、人民による、人民のための政治」という輝かしい標語によって、アメリカ民主主義の基礎を、人びとの心のなかに確固不動のものとして打ち立てました。
 そして、「なんぴとに対しても悪意をいだかず、すべての人に慈愛をもって」新しい国アメリカの完成に努力すべきことを訴えたのです。
 私は、激動の時代にあって、その時代にいたずらに流されることなく、堅実な政治的手段による努力を忍耐強く重ねつつ、しかも、偉大な理念と方向性を人びとに与えたところに、リンカーンの政治家としての偉大さを感じます。
 今日の政治家が、リンカーンから学ぶべき点は多々あるといえましょうが、あえて三点をあげれば、第一には、彼が、たんに北部の利益を代表するという立場ではなく、常にアメリカ全土をいかにすべきかを、考えていた点です。一党一派の利益や、一部勢力の便宜のために動くことはやめて、国家百年の大計、さらには全世界的視野にたつことが、今日の政治家に最も望まれる資質であると思うからです。
 第二に、リンカーンが現実に深く根ざしつつも、それを正しい方向に導く、確固とした理念をもっていた点です。これは現実の処理のみに追われ、その激流に流されながら、自己保身に汲々としている現代政治家の、最も見習うべき点ではないでしょうか。
 第三には、リンカーンが、みずから庶民として育ったこともありましょうが、常に庶民を基盤とし、最下層の人びとの苦しみを、自身の苦しみとして感じられる、慈愛の心をもっていた点です。民主政治とは、社会の指導者階級のお手盛り政治に終わっては断じてなりません。民主政治の根本は、すべての人びとへの″慈愛″にあると、私は信じます。
12  代議士の政治責任
 松下 政治の責任というと、一般に政府が追及され、総理大臣にその責めが負わされます。政治の衝にあたるものとして、これは当然のことですが、それだけでいいのでしょうか。
 国民の代表として選ばれた以上、代議士の一人ひとりの責任は甲乙なく、皆が等しく責任の一端を担っているとはいえないでしょうか。かりに政治に過ちがあれば、政治を担当している政府だけでなく、与野党平等に国民に対して責任を負っているとも考えられますがいかがでしょうか。
 池田 ご質問の答えは、すべて日本国憲法に明記されております。私は、改憲論者ではなく、あくまで民主的な平和憲法を擁護する立場にたっていますので、個々には憲法の条文を借りてお答えします。
 まず、議院内閣制をとるわが国の憲法体制からすれば、政治責任を政府が追及され、内閣を代表する総理大臣が、その責めを負わされるのは当然でしょう。憲法第六十六条第二項にも「内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負う」と、責任の所在が明確に記されています。
 次に、国民の代表として選ばれた代議士の責任については、広く政治全般に関しては責任の一端を担っているでしょうが、憲法第六十五条に「行政権は、内閣に属する」とあるとおり、行政権の行使に関する責任は内閣が負うわけです。ですから、とくに野党議員は、政府の行政責任について、むしろ積極的に厳しく追及していくことが、よく国民の信託にこたえることになりましょう。また、与党議員であっても、内閣の責任を追及するのは当然です。その点、わが国の与党議員は、国会での質問をみても、まだまだ馴れ合いに終始している感が強いように思われます。
 こうして政府に失政があった場合、その責任はすべて内閣が負うべきものであって、ただちに内閣は総辞職するか、衆議院を解散して国民に信を問う以外にはありません。
 むろんその場合、政権党である与党の責任は大きいでしょう。それについては、総選挙において、主権者である国民の厳粛なる審判が下されることになります。また野党議員にあっても、政府の失政を厳しく追及し、内閣を総辞職に追い込むか、国会の解散を迫るのでなければ、国民に対する責務を果たしたとはいえないでしょう。そこに与党と野党では、国民に対する責務のとり方に明確な違いがあります。
 責任とは権利の裏返しとして出てくるものであって、行政についての責任は、行政権をもつ者に属します。野党議員、および与党であっても行政の権利に関係していない議員は行政に関する責任を問われる筋合いはありません。
 しかし、これら政権に関与しない議員も、国民の代表として政府の政策に対し監視し追及する権利はあるのですから、それを全うしなければ、この権利を付託してくれた国民に対する責任を問われなければならないのです。したがって、政治を担当している者が失策した場合、それを追及しなかった与野党議員は、国民に対する責任をとるべきでありましょう。
13  若い議員が少ない理由
 松下 政治というものには、豊富な知識や経験にもとづく、熟練、老練ということも大切ですが、それとともに、一面、若さというものが必要だと思います。つまり、なすべきことを断固としてなす勇気や情熱、そして不可能を可能ならしめるがごとき信念、あるいは高き理想、そういったものが必要だと思うのです。そのためには、心の若さも大事だと思いますが、それと同時に、やはり年齢的にも若い国会議員がふえてもよいと思うのです。けれども、今日の議会をみると、やや若い議員のほうが少ないようにも思われますが、これはなぜだとお考えでしょうか。
 池田 日本の人口統計(昭和五十年)などをみますと、現在、昭和生まれの人が、全人口のほぼ八割、あとの二割が明治・大正の生まれです。ところが、政治家の年齢構成をみますと、逆に、衆議院議員の場合、明治・大正生まれの人が八割で、昭和生まれは三割に満たない現状です。ご指摘のように、政界がいかに老人議員で占められているかがわかります。参議院の場合は、さらにこの傾向が強いでしょう。
 明治・大正生まれというと、いうまでもなく五十歳以上の年代です。もっと四十代、三十代、さらには二十代の代表が、大いに政界で活躍できる姿が望ましいといえましょう。
 むろん、だからといって、老年の政治家が無能であるとか、議員の年齢構成は、日本の成人の年齢構成に比例すべきだと主張するものではありません。また、それは理想的だとも思えません。政治には、なんといっても、若さや情熱だけではカバーしきれない面があります。豊かな人生経験と、そこからにじみでる確かな判断力、見識といったものがなによりも大切です。そうした面では、むしろ年配の政治家のほうが適しているともいえますから、あるていど年配の議員が多いというのは、自然の姿なのかもしれません。しかし、それが極端になると政治の硬直化を招くおそれがあります。事実、今日の日本の政界では、その良い面より、悪い面が出ているのではないでしょうか。
 とくに私は、現在、なぜ政界に、老人議員が多く、青年議員が少数なのか、この原因から考えてみる必要があると思います。
 本質論からいえば、ご指摘のように、政治そのものが、豊富な知識と経験を不可欠とする世界だということでしょう。しかし、これは、間接的な要因ではあっても、現実を支配している直接の原因は、もっと別なところにあるといわざるをえません。
 まず、日本の政治を語るときに、常に問題となる″カネ″と″組織″が、大きな要因であることが指摘できます。それに加えて、一般論として日本の社会を支配している″年功序列″の思想の一つの反映であるという指摘もできましょう。
 まず、第一に″カネ″の問題です。立候補し、選挙活動を行なうには、巨額の費用を要します。少なからぬ資産のバックがなければ、立候補すらできない現状です。カネをかけなければ勝てない選挙になってしまっているようです。したがって、なんらかの″資金″を得る道をもたない者は、いかに有能でも政界に出ることは不可能であるというのが実情です。
 第二に、さまざまな派閥組織が、若い有能な青年の芽をつんでしまっているのではないかということです。たいていの場合、いずれかの派閥、組織に入っていなければ、経済的、組織的なバックアップも得られず、したがって、政界で活躍する機会も得られないといった構造になっています。しかも、それぞれの派閥・組織には、それぞれ独自の人脈と序列が形成されていて、首脳部の席は、古参の者に独占され、青年の進出する機会は、きわめて限られています。
 むろん、一般論として、派閥や党派があることが悪いというのではありません。しかし、どんな組織でも、利害と打算の論理で動き、支配されているかぎり、新鮮なバイタリティーは失われてしまうものです。
 第三の年功序列の問題は、徐々に改まっている分野もありますが、依然として、日本の社会全体に根強く残っている問題です。ある意味では、これにも、功罪両面があることは事実でしょう。しかし、組織の多くが動脈硬化している原因の多くは、ここにあることも間違いありません。政治が、本来、民衆のなかに生き、その現実との格闘のなかで推進されていくべきものであるならば、青年の情熱と力、そして若々しく柔軟な思考は、政治にとって絶対不可欠のものであり、日本の政治の場合、もっと反映されていく必要があると私は思います。
14  政治家の出身分野
 松下 わが国の政治家の出身分野をみますと、官僚、労組などが多く、必ずしも広く国民各層から人材が進出しているとはいえないように思います。これでは国民生活の実態なり、国民の総意なりを正しく政治に反映させるという点において問題があると思います。こうした出身分野の偏りはどのような理由によって生じているのでしょうか。また偏りを是正するにはどのような方策が考えられるでしょうか。
 池田 政治家の出身分野に偏りがあり、その偏りがなぜ生じるのかということですが、それは政治家が選出される″選挙″そのものの制度と実態によって生じた問題ではないかと思います。換言すれば、候補者の当落を左右する決め手が、実際に何によっているかという問題です。一つは制度そのものの問題があります。選挙区画、定数、費用制限など、党利党略を超えて、真に公正で民主主義を反映した制度を目指して検討し、改善すべきことが多々ありましょう。私自身は、政治や行政の専門家でもないし、詳細な知識もありませんので、その具体案を申し上げることはできません。
 ただ、制度の問題というより、今日の選挙の実態について、次のことは指摘できると思います。つまり、選挙戦で最大の力を発揮するものは″組織″と″カネ″であるという事実です。選挙の時だけでなく、政治そのものが、組織とカネの力で動いているといってよいようです。しかも、このことは、事あるごとに改められるべき問題として指摘されながら、いっこうに改善されません。そればかりか、かえって年々その度を強くしているといわざるをえない状態ではないでしょうか。
 今日の状況では、有力な組織をバックにもつか、または莫大な財力を有するか、そのいずれかがなくては、いかなる真実の叫びも、なかなか人びとの胸に届かないようです。
 いま一つ有力な武器として、最近注目されているのが、いわゆる″顔″といえます。組織やカネ以上の力を発揮する場合が少なくないようです。それは、つまり全国くまなく網羅されたテレビ・ラジオの電波に乗って宣伝されているタレント・スターの顔です。
 とくに最近は、この″タレント″という顔が、政界の新しい出身分野の一つになっており、実に現代という時代をよく反映していると思います。
 ともあれ、組織、カネ、そして顔が、当選するための大きな要素になっているというのが実情であり、これらをもっていることが、政治家としての実力だと思われています。この″実力″は、全国民のなかでも、ごく一部の人しかもちえないものですから、当然その結果、政治家の出身分野に偏りができるのは当然といえましょう。
 むろん、組織やカネや顔が、それ自体で絶対的な悪だというのではありません。これらは、ある意味では、不可欠の要素だともいえるでしょう。ただ、それだけが、いっさいに優先して、当落の決定打になってしまっている事実に問題があるといいたいのです。
 したがって、出身分野の偏りをいかに是正するかという問題も、たんなる制度的な改変では抜本的に解決されるとは私には思われません。制度的にどう改めるかということも、もちろん大事ですが、それ以前に、選ぶ側の国民自身の問題があるといいたいのです。選択の最終の鍵を握っているのは、あくまでも一人ひとりの国民であり、その一人ひとりの″政治姿勢″″選挙姿勢″の転換こそ、いかなる方策よりもすぐれて決定的なものであるはずです。
 どのような人が自分たちの代表として、そして一国の政治に参画する人として最も望ましいのかを、一人ひとりが主体的に判断し選択できる眼力を養うべきです。人物を見抜く民衆の英知、つまり正しい意味での政治意識の高揚こそ、まずなされねばならないことと思います。
15  人口と議員定数の不均衡
 池田 今日の衆議院の選挙区ごとの議員定数が、その選挙区に住する人口に比して、はなはだしく不均衡であることは、明らかな事実です。この議員定数については、公職選挙法の別表で定められていますが、これは、昭和二十一年四月の人口調査をもとに、都道府県の人口にほぼ比例して配分された定数です。しかし、それ以後現在にいたる間、人口状態は大きく変動し、人口と議員定数のアンバランスがいちじるしくなり、一票の価値が全く不平等なものとなったわけです。
 私は、このような事実は、全く民主主義の大原則をゆがめるものであり、公選法で五年ごとの調整を規定しているとおり、早急に現状に即した定数にすべきであると考えます。この点について、どのようにお考えでしょうか。また定数是正を要請する世論が無視されている根本原因はどこにあるとお考えでしょうか。
 松下 衆議院の議員定数を公職選挙法の規定どおりに、五年ごとに現状に即するよう是正すべきだというお考えは、全くそのとおりだと思います。そういうことが規定どおり行なわれていないということは、それを行なうべき議会の怠慢だといわれても仕方がないでしょう。その責任は第一に議会が負わなくてはならないと考えます。
 定数の是正を行なうについては、技術的にいろいろの困難なり、いざこざがあるかもしれませんが、しかし、それは各党の合意のうえで調整すべきだと思います。もしそれを行なうこと自体に異議があるのなら、その規定を改定して、国民に疑惑を与えないようにする必要があるでしょう。そのどちらもやらないということでは、いけないと思うのです。
 いずれにしても、民主主義のもとで一人が一票ずつもっている以上、不均衡がいいか悪いかはもはや論議すべき余地はありません。もちろん、人口は絶えず流動していますから、一時的に多少の不均衡が起こるのはやむをえないでしょうが、もう今日の状態では、定数の変更はぜひとも必要だと思います。なぜこうした是正を要請する世論が無視されているかということですが、やはりそれは国民がまだ十分にその点について理解していない、その必要性を十分に認識していないからではないでしょうか。今日では、そういう理解、認識もかなり高まってきてはいますが、国民が真に定数是正の必要性を認識すれば、要望の声もさらに大きくなり、各政党ともそれを無視しえなくなると思うのです。
 もちろん、各政党はそうした国民の要望をまたずに、進んでお互いの合意のうちにこれを実現していく責任があると思います。また議員の方々も、私情というか自分の利害にとらわれることなく、自分に都合の悪いことでも正しいことには従うという心構えにたつことが大切でしょう。
 これを実施することにより、人により政党によつては、一時的に多少不利な立場にたつということもあるかもしれません。しかし、そういう個々の利害にとらわれず、真に国家国民のために正しいと考えられることを行なっていくところに、民主主義における政党なり議員の責任があるのではないでしょうか。
 ですから、定数是正については、それによる影響のいかんにかかわらず、早急に行なうべきだと考えます。その責任は第一に議会にあり、第二には国民が負うべきだと思います。
16  選挙運動の自由化
 松下 国会その他の議員について、選挙法というものを定めるのは、それによって、いわゆる天下有能の士を当選しやすくするのが目的だと思います。その点、今日の選挙制度ではあまりに選挙運動等についての制約が多く、必ずしも本来の目的にそぐわないような点も感じられますが、これでよいのでしょうか。それとも、もっと選挙運動を自由化したほうがいいのでしょうか。ご高見を賜わらば幸いです。
 池田 法律には、必ずその制定の目的というものがあります。たとえば、現行の公職選挙法は、その目的として、選挙制度の確立をあげ、「その選挙が選挙人の自由に表明せる意思によって公明且つ適正に行なわれることを確保し、もって民主政治の健全な発達を期すことを目的とする」とのべています。
 このような目的をいかにして達成するかを考えるにあたって、現実の社会状況を分析し、それに対応しつつさまざまな条文がつくられていると、私は理解しています。としますと、現実の社会状況の変遷とともに、法の内容も変更されなければならないのは当然といえましょう。
 そこで、ご質問にある選挙運動等の制約に関してですが、ひとつひとつの規制については、それなりの歴史的背景や、法的根拠があるように思われます。選挙運動の期間や選挙事務所の数、乗り物や文書図画についての規制等、細かな規定がおかれていますが、これらは候補者の選挙活動の機会を均等にしようとする目的から出たものと考えられますので、いちおう、納得のいくところであると思われます。
 ただ問題となるのは、支持者や一般国民の選挙運動に対して、たとえば戸別訪問の禁止等の規定が設けられていることです。これは、義理人情に動かされやすい日本人の体質や、買収と結びつきやすいということ、訪問される者の静穏を守る等の理由から設けられたもののようです。
 たしかに民主主義という考え方が、長い歴史のなかで民衆自身によって培われてきたとはいいがたい日本にあっては、前近代的な風潮が根強く残っており、それが選挙においても、さまざまな弊害をもたらしてき、今日でもなおその名残があることは否定できない事実です。
 しかしながら、私は、選挙における言論活動は、本来全く自由な対話を通じて、各候補者の人柄、政見、それぞれの政党の基本理念、政策が、国民の間で十分に話し合われるべきであると思います。そのような言論運動に、弊害を理由に規制を加えていたのでは、いつまでたっても、民主政治の健全な発達は、なされないことになるのではないでしょうか。
 公選法の第六条では、自治大臣や選管等が、「選挙が公明且つ適正に行なわれるように、常にあらゆる機会を通じて選挙人の政治常識の向上に努めなければならない」と、その啓発の義務を定めています。だが、選挙も政治もけっしてお上のものではなく、上から教育していけばよいという性格のものではないはずです。もっと、国民相互の啓発を重視すべきであろうと考えます。そのためにも、国民自身の選挙の運動に対する規制は撤廃し、自由闊達な対話の場を確立する必要があります。
 当然、今日の選挙法が心配している買収等の問題も十分考慮しなければなりませんが、その規制のために、選挙――というより民主政治において最も大切な言論の場が狭められているのは、逆転した現象といわざるをえません。
 また戸別訪問を規制していても、その規制によって意図した買収等の防止が、全く効果をあげていない等の現実から考えるなら、買収等の防止を理由に国民の言論による政治活動の自由を規制することの無意味さは明らかです。
 買収や、情実による投票の強制、その他の手段による自由意思の束縛、選挙運動によって静穏が侵される等の選挙にまつわる弊害は、それ独自の問題として取り扱われるべきではないでしょうか。
 こういった意味から、ご指摘された選挙運動の自由化ということは、私も賛成いたします。
17  政治資金の寄付
 松下 今日、政治家が立候補するさいの政治資金というものが非常に問題になっています。とくに、その政治資金について、政党なり個々の政治家が寄付を受けることが批判されているようですが、この点についていかがお考えでしょうか。
 また、たとえば政党に入っていない若い人が立候補するにあたって、その考えに共鳴する人があっておカネを出すというような場合、それをどう考えるべきでしょうか。
 池田 政党や政治家個人が、政治資金の寄付を受けることは、差し支えないと思います。国民の信託にこたえ、また支持者の声を政治の場に反映する活動を行なうわけですから、その活動のための資金を得ることは、必要でもありましょう。政治家は、その国民の付託によくこたえるならば、寄付を受けたからといって、なんら批判されるべき問題はないはずです。
 今、政治資金の問題が批判されているとすれば、それは企業による大口寄付の方法でしょう。これに対しては、私もずっと以前から反対していますし、この一凶を禁じないかぎり、日本の金権政治、腐敗選挙は正されないと考えています。
 とくに自民党が、その体質を抜本的に改める決意があるならば、企業からの政治資金をいっさい受け取らず、個人の政治献金のみ認める勇断をとるべきです。現在、企業による政治資金の寄付が自粛の方向にあるのは、遅まきながら正常化の道を、たどっているといえましょう。
 いうまでもなく、政治は大手企業のためにあるのではなく、すべての国民の利益のためにあり、主権者は国民です。国民一人ひとりが個人として政治に参加していくのは当然ですし、どのような政治信条をもっても自由です。しかし企業の場合、そこにはさまざまな相対立する政治信条をもつ人が所属するわけですから、企業として特定政党や政治家に献金することはこうした社員個々の意思を無視してしまうことになりましょう。
 また、政治資金を受け取る側の政党や政治家としても、特定企業からの献金を受けている以上、たんなる企業の利益代表になりやすく、その弊害も現に指摘されてまいりました。とくに自民党の場合、戦後三十年近くにわたって政権の位置にあったことから、企業との癒着が腐敗を生み、全国民的な立場にたちにくい傾向が顕著になってきたわけです。そこに政治資金の規制の問題が、最近になって批判される大きな要因があるといえましょう。
 なお、若い有能な人が政治家として立候補するにあたり、その考えに共鳴する人が資金を出してもなんら不都合はないと思います。ただし、その場合も、あくまでも献金は個人に限るべきであって、会社ぐるみの企業選挙であっては民主主義の原理に反したものとなってしまうでしょう。真に有能な政治家であるならば、国民がよく理解し、強く支持するでしょう。先の参院選でも、ほとんど選挙費用も使わずに、高位当選した人もいるくらいですから。問題は、政治はカネによって左右されるものではなく、あくまで政策と人物本位によって決められるようにしたいものです。
18  投票率の低下と民主主義
 松下 今の日本では、選挙の投票率というものがきわめて低いという状態がつづいており、せっかくの主権在民という民主主義の意義が十分には生かされておらず、このままでは民主主義が民主主義でなくなってしまいかねません。こんなとき、理由なくして棄権した人に罰を科することも必要だと思いますし、また、それでも投票率が高まらなければ、制限選挙にすることもよいと思うのですが、いかがでしょうか。
 池田 基本的に、そのようなご見解には賛同しかねます。投票率が低いから棄権した人を罰する、または、制限選挙にする、といった短絡した把握の仕方、対応策には、あまりにも″強者″の論理を感ぜざるをえません。投票率の低いことが、ご質問の出発点になっておりますが、この問題は、次の二点から考える必要があると思います。
 第一に、なぜ投票率が低いのか、なぜ棄権する人が多いのかということ。第二に、いったい民主主義の精神とは何かということ。この二点について、十分な考察がなされていないように思えてなりません。
 まず、第一の投票率がなぜ低いのかという点ですが、その根本原因は、人びとの間にある、ぬぐいきれぬほど深い政治不信です。このなかには、ほんとうに自分が一票を投じたい人がいないから投票しないという棄権者もあるでしょうし、今の政党や行政体制のままでは形だけ民主的な選挙を行なっても、実質的には、国民の真の意思が反映されないといった批判者もあるでしょう。長年の国民不在の政治が、人びとを政治不信に追いやったというのが、問題の真相ではないでしょうか。
 もちろん、なかには投票がめんどうくさいとか、政治がどうなってもかまわないといった無責任さから棄権している人もいるでしょうが、私は右にのベたような意識から棄権する人がきわめて多いのではないかとみています。
 票を投ずるということは、代議制の民主主義政治においては、自身の政治的権利をその候補者を信任して、ゆだねるという行為になります。しかし、現実の政治家の動向をみて、ほとんど信任するに値する人がいないとしたら、棄権するという手段によって、自己の政治的意思を消極的に表明する人もいるでしょう。
 また、なかには、あるていど妥協して、誰かに一票を投ずる場合もあるでしょう。しかし、ドイツのナチや、イタリアのファシストが民衆の票によって政権を握った例などからすれば、民主主義を破壊するものは、民衆の投票率の低さではなく、むしろ無批判な投票であり、民衆の支持を得ながら民衆を裏切る政治家です。
 したがって、まず棄権することを責めるより、やむをえず棄権をするという状態をつくりだしている政治家こそ、糾弾されるべきだと訴えたいのです。もう一点、民主主義の根本精神は何かということから、棄権の意味を考えなければならないという点に触れたいと思います。
 民主主義とは、その基本精神は、一人ひとりの国民の強制されない自由意思ということです。そこには、政治的にも成入し、さまざまなかたちで自主的に関与していく″社会人″が予定されていることは当然です。したがって、選挙が国民一人ひとりの積極的意思表示の場となって、投票率も高いことが望ましい姿であることはいうまでもありません。
 しかしながら、その″社会人″が選挙にさいして棄権するということも、国民としての一つの権利であり、自由意思の表明です。信任できる候補者が一人もいないという意思を、棄権というかたちで表現できるように、もともと留意してあるのが現代民主主義というものです。″棄権者を罰する″という発想こそ、まさに″民主主義でなくなってしまう″考えです。
 まして「制限選挙」など、民主主義の逆行であることは論ずるまでもありません。いったい制限選挙にするというならば、いかなる基準で″制限″するのでしょうか。投票率が低いことをそのまま民主主義の堕落、衰退であるとする考え方は、妥当ではないと思います。望ましくない人物には投票せず、権力の基盤を与えないという意思表明も、むしろ民主主義を守るためには大切なひとつの方法となるのではないでしょうか。
 このようにいっても、私は、消極的政治参加の実情をよしとするものでは当然ありません。基本的には、有権者がみずから主権者としての意思を積極的に表明し、その結果として投票率が高まることを望むものです。そのために日本の政治が、より国民の生活と密接なものとなって、国民の政治への関心が高まっていくことを、心から願っております。
 根本的には私たち一人ひとりが、厳しく政治を監視し、鋭敏に政治の動向に反応できる見識をもつことが、なによりも大切な事柄といえましょう。それが民主主義を蘇生させ、国民の意思の反映された政治が行なわれるようになる道であると確信します。
19  政党の対立と協調
 松下 政党というものが、それぞれに考え方を異にしているのは当然のことですが、しかしまた、国家の真の発展、国民の真の幸福のためには、ときに大同団結することも大切だと思います。その点、今日の日本の政党は、いささか対立抗争に走りがちのように思われますが、なぜそのような姿になるのでしょうか。政党同士の対立と協調のあるべき姿について、ご高見を賜わらば幸いです。
 池田 近代政党の在り方というのは、さまざまな国民の意見を結集し、それを民意として議会に反映していくものと思います。したがって、国民の意見が多岐にわたっていれば、それだけ多くの政党があって当然ですが、戦後日本の場合は、この二十年近くの間に、ほぼ五つの政党に集約されてきたように思います。
 ところで、国民の真の幸福のためには、ときに大同団結することも大切ではないかとのご所見ですが、たしかにそのようなことも、ときに必要でしょう。一般的にいって、外交条件については、超党派の国民的合意をもって、事に当たるのが望ましいし、また比較的実現しやすいものです。たとえば日中国交回復のような場合、自民党は二十数年にもわたって″二つの中国論″をとってきましたが、国民世論の七割もが日中復交に賛成した事実の前に、一転して国交正常化を目指し、ここで五党の足並みがそろったわけです。
 しかし国内問題の場合は、なかなかそういうわけにはいきません。大事なことは、いろいろな考えの違いがあっても、議会における審議を通じて、それぞれの考えを煮詰め、なんとか一致点を探そうとすることでしょう。それが、議会制民主主義の在り方ではないでしょうか。
 日本の場合、私は基本的には現在のような複数政党制で結構だと思います。政党は本来、民主的なルールを守るのは当然ですが、各党が独自の考えをもって議論しあうなかに、そこから国民の真の幸福を探しだしていくべきだと考えるからです。逆に戦時中の議会のように、大政翼賛会方式でいけば、政党間の対立抗争もなく、議事の進行、とくに政府が自分の考えを押し通すのには、まことに好都合でしょう。
 しかし、それは、人間としての良心から政府に協力しない人びとをも排除する独裁体制であり、結局、国全体を破滅の道に引きずりこんでしまうことになります。
 また、今日の社会主義諸国のほとんどにみられるように、複数政党制が認められない体制では、国民の自由な意見の表明は抑えられてしまうのではないでしょうか。したがって私は、現在の日本の政党政治にすべて満足しているわけではありませんが、対立抗争が全くみられない議会になってしまうことこそかえって恐るべきことだと思います。
 ともあれ、日本の政党政治にしろ議会制民主主義にしろ、それを前進させるのも後退させるのも、一にかかって主権者である国民の自覚によるものと思います。
20  議会に衆知を集めるには
 松下 なにによらず事をなすにあたっては、衆知を集めて行なうことが肝要だと思います。とくに一国の政治を決める議会においてはそのことが必要ではないでしょうか。
 しかるに、わが国の議会では、ともすれば各政党が対立抗争にのみ走りがちで、いわば衆知離散の姿を呈しているようにも思われます。いったいどこにその原因があるのでしょうか。また、どうすれば議会において真に衆知が集まるとお考えでしょうか。
 池田 議会において、衆知を集めて一国の政治を決めるべきであるというご意見に、私も異論はありません。しかし、わが国の議会が、ともすれば衆知離散の姿を呈している原因は何か、とのご質問ですが、私はそれは、選ばれた議員が、全国民的な見地にたっていないところに原因があるのではないかと思います。いったい現代日本の政治家のなかで、民衆の苦しみをわが苦しみとして受けとっている人が、何人いるでしょうか。
 各政党が、それぞれの信念に従って対立するのは、まだよいと思います。しかし、その政党間の対立が、国民の利益を無視して、たんなる政党政派のエゴに発するものであることが往々にしてみられるのはまことに残念です。これでは、いつになっても、真に国民のための衆知は結集されそうにもありません。
 もちろん、選挙によって選ばれた政治家である以上、その支持基盤というものがあるのは当然でしょう。次の選挙に再選されることを考えれば、みずからの支持基盤のために利益を図ろうとする心情も理解できないこともありません。しかし、議会制民主主義の本来の在り方からすれば、いったん議員として選出された以上は、政治家は特定の人びとの利益のために国民全体の利益を無視したり、犠牲にしたりしてはならないはずです。全体と部分とが互いに利益が相反する場合は、全体の利益を優先すべきです。だからといって、部分を犠牲にしてもよいというのではありません。どちらを優先すべきかという問題です。
 そうした強い自覚によってこそ、議会において真の衆知が結集されるような姿になるのではないかと思います。さらに付言すれば、有権者である国民一人ひとりが、常に議員の行動と発言を監視するようにしていくことが大切です。
 結局、政治の在り方を決めていくのは、主権者である国民の正しい判断と強い意志にほかならないからです。
21  多党化か二大政党か
 松下 今日、先進諸国の議会をみますと、フランスとかイタリアでは多党化しています。それに対してアメリカとかイギリス、あるいは西ドイツなどは、いわゆる二大政党の対立で政権交代という姿になっています。
 その点、日本では今日、多党化の傾向にありますが、今後の方向として、二大政党にしていくべきでしょうか。あるいはその必要はないのでしょうか。ないとすれば、なぜでしょうか。必要があるとすれば、二大政党実現のためには、具体的にどういう方法が考えられ、また国民の意識をいかにその方向に培養していったらいいでしょうか。
 池田 一一大政党制か、多党制かについては、戦後わが国が議会制民主主義の国として再出発して以来、しばしば論議されてまいりました。もちろん、これには、それぞれ一長一短があり、民主政治の伝統とか国民性の問題などを考え合わせると、いずれが制度としてすぐれているかは一概には決めかねると思います。
 日本の今後の方向としては、二大政党制にしていくべきであるという意見も、たしかに一理あると思います。しかし現実政治の動向としては、自民、社会とも内部に分裂の危機をかかえ、ますます多党化する傾向にありますし、なによりもまず自民党に代わるべき健全野党が、なかなか育ちにくい現状にあります。
 二大政党制の本来の在り方からすれば、スムーズに政権交代しうる野党が必要ですが、わが国の場合、保守と革新ではその政治的信条が、あまりにもかけ離れてしまっています。そこに政権交代にともなう激変が予想され、思わぬ不幸と混乱を招きかねない危険もあります。
 そこで私は、以上のような日本の状況を考えるならば、まず当面は、保守と革新と、その中道を行く三つの政党が、互いに混乱なく政権交代しうる方向も、考えられていいのではないかと思います。すなわち具体的には、戦後三十年にもわたって保守独裁をつづけてきた自民党に代わり、全野党が連合政権を組むか、あるいは中道勢力が結集するかの選択が、遅かれ早かれ切実な問題となるにちがいありません。
 そのさい、あくまで国民に犠牲を強いたり、あるいは被害をおよぼすような混乱は、絶対にあってはならないでしょう。また、そのような激動に直面すれば、新たな政権の安定もありえず、軍事クーデターや外国からの干渉、まかりまちがえば軍事独裁政権が誕生しないともかぎりません。
 このような日本の現状からすれば、ただちに二大政党制にもっていくのは、きわめて困難であり、またその必要はないと思うのです。国民の意識としても、自民党の政治にあきたりない人は少なくありませんが、さりとて、社会党や共産党の行き方に全面的に賛成するという人は、戦後三十年たっても過半数に達したことはないわけです。″自共対決時代″などとマスコミでも騒がれてきましたが、共産党が単独で政権を獲得するのは、ここ数年の調子で伸びていったとしてもまだかなり先のことといわざるをえません。とすれば、そうした国民の意識からしても、強いて二大政党制に固定することは、さまざまな問題を生まないともかぎらないわけです。
 多党制か二大政党制かというまえに、まず、政党とは一つの明確な政治理念、政策を中心に形成されたものであるという本義に立ち返って、政党自体の体質を改善すべきでしょう。その結果、多党化するにせよ、数が少なくなるにせよ、この改善がなされた後に、国民に信を問い、国民の意思が正しく政治に反映されるようにすることが、まず肝要と考えます。
22  派閥の弊害
 松下 今日、政党その他さまざまな団体、組織において″派閥″というものが存在し、それが往々にして、その団体なり組織の秩序を乱すことにもなり、弊害を生んでおります。このような派閥は、解消できるものなのでしょうか。それとも、これも人間の本性の一つのあらわれであり、いちおう、その存在を容認したうえで善用していくべきものでしょうか。
 池田 政党は、その主義・主張によって国民の信頼を託された組織・団体です。したがって、そこに″派閥″が生ずるということは、この信頼を裏切るものであり、国民の政治不信を招くという弊害を生じます。ですから、私のいう弊害とは、団体なり組織の秩序を乱すこと自体にあるのではなく、国民、民衆から寄せられた信頼を裏切るというところにあるわけです。
 つまり、政党は、ある政治理念、政策を掲げ、それを遂行することを約束し、その前提のもとに国民から信頼を得て、国会等に議席をもっているはずです。ところが、その政党のなかで、利害などの結びつきによっていくつもの派閥が生じ、派閥同士が争って、民衆に約束した政治理念の遂行が十分にできないとしたら、それは、民衆に対する違約になります。
 もし、異なった政治理念を唱えるのであれば、党内に派閥をつくるのでなく、新しい別個の党をつくるべきです。また、もし党が掲げた政治理念に背いており、それを摘発し、修正するための派閥であれば、それは、党内での争いに終わらせるのでなく、民衆に明確に示し、判断を求めるべきです。
 政党にかぎらず、広く民衆の支持によって成り立っている組織・団体は、必ず支持してくれる民衆に対して果たすべき責任をもっているはずです。この責任の遂行を妨げる派閥は、すなわち″悪″であり、その意味での派閥は解消されなければなりません。しかし、派閥がその組織・団体の秩序を乱すこと自体をもって、ただちに″悪″とすることは誤っていると思います。
 そこで次に、そうした″悪″の派閥、解消されるべき派閥を生む根源は何かというと、ご指摘のように「人間の本性の一つのあらわれ」であることは否定できません。その多くは、党なり団体の掲げる理念の崇高さとは裏腹の、私利私欲であり、権力欲であるでしょう。これらの欲望や闘争心、憎悪といったものが、人間の生存の基盤に根ざした、非常に奥深いものであることも事実です。
 しかし、それが「人間の本性」であるからといって、克服できないものと諦めることは間違っていると思います。人間は種々の本性をもっており、そこには醜いものもありますが、また、そうした醜い本性に支配されることに甘んぜず、高い理念、目的を目指して、これを乗り越えていこうとする″本性″ももっています。
 個人の生き方を考えてみても、隣の人が良いものを持っているのを見れば、それを欲しいと思うのも″本性″でしょう。しかし、その″欲しい″という本性に身をまかせて行動するなどということは、ほとんどの場合ありません。どうしても欲しければ、自分でおカネを払って、同種類のものを買うはずです。こうした、理性による抑制、欲望を満たすにしても、他に迷惑をかけない正しいルートの選択ができることが、人間の人間らしさをささえているわけです。個人においては当然のこととして守られていることが、集団・組織になると、往々にして無視され、醜い本性をむきだしにして、争い、奪い、さらにひどい場合には殺し合いさえ演ずることは、まことに悲じむべき事実です。
 派閥の問題の場合、こうした″本性″を克服する″理性″にあたるのは、自分たちはいったい、社会・民衆に対していかなる約束をしているのかという自覚、責任感であり、政党政治家は、常にこの自分たちの原点を確認し、そこにみずからを律していくべきでしょう。
23  議員と政党との関係
 松下 国会議員とその所属する政党との正しい関係とはどういうものでしょうか。国会議員という立場と党員という立場にもし矛盾が生じたとき、どちらを優位に考えるべきでしょうか。
 池田 国会議員という立場と党員という立場に、矛盾が生じたような場合に、その議員がどのような選択をするかは、その国の政治の実情によって、ずいぶん違ったものになります。
 たとえば、アメリカなどの場合は、共和党の議員が党の政策に反対して民主党の提案に同調したり、民主党の議員が共和党の政策を支持したりという姿は、比較的多いようです。これは、個々の議員を選出する基盤である州が独立性の強い地方自治体であることから、党の統制力も、それほど強力なものにはなりえないということも、その要因の一つとして考えられるでしょう。
 この点、日本の場合は、地方自治の確立がなされておらず、党に対する個々の議員の自立性が弱いこともあって、党で打ち出された政策に国会審議の場で反対することは、非常に困難なようです。また今日の政党政治の場にあっては、政党から離脱して個人として動いて政治の方向を変えることは期待できないということも、党の指導性を強めている原因の一つといえるでしょう。
 さらには、政党政治にあっては、選挙のさい、選挙人は、候補者の人びとと同時に、その所属する政党の基本政策をも、選択の基準としています。したがって、政党の政策にのっとっていくことが、選挙民の意思を代弁する正しい道であるという見方も、大事な点であります。
 しかし、そういったさまざまな背景はあるにせよ、より根本的な原則論をいうならば、党の決定した政策であっても、それが国民の福祉に反すると考えるなら、国民の信望を担った国会議員としての公的立場を第一義として、毅然として党と対決し、国政を正しいと信ずる方向へ導くために努力することが正しい在り方であると信じます。そのような勇気ある戦いが、日本の政党政治を、より一歩前進させていく原動力となっていくことでしょう。
 つまり、国会とは国民のための国会であって政党のための国会ではありません。国会議員は国民のための国会議員であって、政党のための国会議員では絶対にないはずです。この国民のための議員としての責任を全うし、国民のための国会という機能を果たすために、その手段として党があるわけです。党は、この立場をわきまえ、責任を全うしてこそ、みずからの存在価値を高めていくことができるのではないでしょうか。
24  日本の政党と議会
 池田 現在の日本の政党と議会に対して、だいぶご不満のようですが、具体的に自民党のどこが悪いのか、野党各党が団結して与党と対抗できないのは、どこにその原因が潜むのか、ご見解をおうかがいしたいと思います。
 また、議会制民主主義の長所と短所、さらに現在の議会の在り方に疑問をもたれているのであれば、それに代わりうる議会の在り方はどのようなものをお考えか、具体的にご所見をおうかがいしたいと存じます。
 松下 私が、今日のわが国の政治において最も問題だと思うのは、国民全体の共通の指針となる国家経営の基本的な哲理というものが明確にされていないということです。そういうところに、国政がいまひとつ力強く行なわれない原因があると思うのです。
 すなわち、国家経営の基本的な哲理がはっきりしていないところから、各政党の在り方にも、議会の在り方にも、さらには国の政治そのものについても、いろいろな問題が起こり、また、国民の政治に対する責任感も弱くなって、そこにお互いの不信が起こっているのではないかと思うのです。
 そういう国家経営の哲理が、戦後三十年にして、なおできていないということが一番の問題だと思います。そういうものがあれば、おのずとそれにもとづいて、各政党から、かくあるべし、こうしていこう、といった方針が次々と生まれてくると思うのです。そういうものなくしては、どの政党が政権につこうと、日本がよりよく向上していくことはむずかしいのではないかという気もします。
 もちろん、日本には憲法があります。しかし憲法は、たとえていうなら会社の定款のごときものです。業種によって多少の違いはありますが、だいたいにおいて、どの会社の定款も似たようなものです。憲法も、どの国もだいたいにおいて似たりよったりではないでしょうか。
 だから憲法は国の基本法として、これを大いに尊重しなければならないことはいうまでもありませんが、その憲法をどういうように生かしていくかという生かし方、活用の仕方というものに対する基本的な理念が必要なのです。それがあれば、それにもとづいて憲法をよりよく生かしていけるわけです。
 会社の場合でも、定款のほかに経営理念というものをもち、それにもとづいて方針がたてられ、それによって定款を守りつつ経営を盛んならしめている会社があります。また一方では、同じような定款はあっても経営理念がなく、一生懸命に働いていて、しかも成績が上がらず、常に問題ばかりを起こしている、といった会社もあります。国家もまたしかりだと思うのです。
 国家経営の基本理念がはっきりしていないところに、日本の混迷が起こり、また政党と政党の必要以上の対立抗争という姿もそこから生じてきているのではないかと思います。
 それでは、そういう基本理念はどこから生みだされるのかというと、それは結局、国民全体の所産として、国民の合意として生みだされるべきものだと思います。ところが、そういうものを生みだす努力を国民全体としてしているかといえば、していないわけです。
 お互い国民は、日前の利害にとらわれてはいても、国家百年の大計となるような理念を国民合意のうえで生みだそうといった努力はしていないと思います。ここに問題があると思うのです。
 どこの政党がどうこうというよりも、政党を含めて国民全体として、こうした基本理念を求めていくことが大切だと思います。
 ご質問の趣旨からは多少はずれたかもしれませんが、こういう理念が生まれることによって、政党の在り方、議会の在り方というものも、しだいに正されていくのではないかと考えます。
25  政治の生産性向上
 松下 一般に企業であれば、生産性を高め、それによってコストを下げ、需要をふやしていくということを考え行ないます。
 同じように、政治なり行政でも、生産性を高めて、より低い税率でも、より盛んな国家活動、国民活動を行なうための創意工夫が活発であってもいいと思うのですが、必ずしもそうはいっていないようにも思われます。これはどこに原因があるとお考えでしょうか。
 池田 経済や政治・行政について、詳しい知識を持ち合わせていませんので、まず、ご質問の意味を正しく理解しているかどうか疑問です。
 経済・産業の世界であれば、生産性を高めるということは、たとえば、新しい技術の導入による省力化、能率化とか、労働の質の向上、製品における質の向上、歩留まり率の向上といったことになりましょう。政治や行政における″生産性の向上″とおっしゃる意味が、明確に理解できないのですが、二つの観点が考えられます。
 一つは政治・行政的な側面で、国家全体の活動を盛んにするための″生産性の向上″とは、いいかえれば、いかにして経済産業をよりいっそう振興するか、公共的事業の発展によって国を豊かにするかといった政策、施策ということです。
 この点について申し上げると、たしかに、国全体の産業、経済が豊かに発展していれば低い税率でも、国家の活動に要する十分な資金を得ることもできましょう。また、税率が低ければ、それだけ、経済界においても、活動の意欲が増大することも考えられます。したがって、いわゆる″政治・行政的″な側面から生産性を高めるには、国家の発展のためのすぐれた政治、行政が行なわれなければならないということになりましょう。
 しょせん、それは″生産性″という問題にかぎらない、政治、行政力全体の問題ではないでしょうか。流動する世界の経済・政治情勢を正しく把握することと、時代の動向を見通す先見性と、そのうえで、場当たり主義でない計画性、状況の変化に対する即応力といったものが、不可欠の要素として、望まれるところだと思います。
 第二点は、政治・行政の仕事の能率の向上という観点です。この点について申し上げると、一般企業というのは、仕事の能率をよくすれば、それはただちに業務成績、企業の利潤の増大となってあらわれてきますし、それによって一人ひとりの給与や賞与の増額というかたちであらわれてきますから、生産性向上への意欲は、あらゆる構成員にいきわたっていきます。
 ところが、政治・行政の分野においては、仕事の能率をよくしても、そのような経済的報酬というかたちでは出てきません。それは、政治・行政というものが利益追求の企業と根本的に違うからです。また、組織体内部の地位向上の仕組みや給与体系も、各人の努力の結果を基準にするのでなく、公務員試験の等級や学歴が大きな比重を占めているようです。
 こうしたいろいろな条件が重なって、とくに行政官庁にあっては、いわゆる役人根性という、仕事の能率化を妨げる傾向が醸成されてくるものと思われます。
 これを打ち破るのは、政治・行政というものが本来もっている性質に原因があるのですから、体制・機構的にどのように改めようとしても、おそらく不可能であろうと思われます。結局、政治・行政にたずさわる一人ひとりが、自分たちは経済的利益のために仕事をしているのでない、国家の繁栄・国民生活の向上のために働いているのだという大一乗的視野にたつことが大事であると思います。
 ただ、全体の仕事の向上によって、国家・社会の繁栄が推進され、その結果として政治・行政にたずさわる人びとにも、経済的恩恵がもたらされることは事実でしょう。
 また細かい点については、昇進や給与体系の基準に、各人の努力・成果が加味されるような改善の工夫をする余地はありましょう。しかし、基本的には、一人ひとりの職業意識の変革を図ることが、最も肝要であるといわざるをえません。
26  刑法改正の方向
 池田 現在、刑法改正案が作成されています。これを見ると、現行刑法より罪が重くなったのが約四十、新しく設けられた罪は三十余となっており、処罰の対象が拡大され、刑罰が強化されたことがわかります。内容からみても、全体として、国家権力を重視し、重い刑罰による強制を意図しているようです。
 刑法も時代の変遷とともに内容が改正されるのは当然であり、明治四十年に制定された現行刑法が、今日の社会情勢に対応しきれていないことも事実といえると思います。しかし、今回の刑法改正の方向は、国家中心主義へ傾きすぎているように思われます。この点についてご意見をうかがいたいと存じます。
 松下 刑法改正案の内容について十分研究していませんので、具体的なことは申し上げられませんが、おっしゃるように、刑法が今日の社会情勢に十分対応しきれていない面があるとすれば、そういう点は当然改正していく必要があると思います。
 どういう点で改正が必要かという専門的なことは私にはよくわかりませんが、ただ常識的に考えてみて、今日の日本の社会情勢は、いささか物情騒然といいますか、好ましからざる姿が多すぎるのではないでしょうか。たとえば大学の姿ひとつをとってみても、大学の構内で人殺しが行なわれているようなありさまです。それも隠れてコソコソやるのでなく、徒党を組み鉄パイプや角棒を持った大勢の人間によって、白昼公然となされているのです。あるいはまた、三億円を盗んだ犯人を捜すのに二億円以上の費用を使って、まだ捕まらないというような姿もあります。
 そういう例から考えてみましても、やや放縦に堕しているとはいえないでしょうか。やはり、なんらかのかたちで少し引きじめることも考える必要があると思います。
 罪を犯した人が罰せられるということ自体は、人情としては気の毒だという感じもありましょう。しかしそれ以上に大事なことは、善良な市民が自由に安心して暮らせるということではないでしょうか。今日の日本は民主主義で、いわば国民中心主義です。その善良な国民、市民を犯罪から守るためには、やはり国民主権を代行する国家権力が適正に働く必要があると思います。
 人間は一面弱いもので、なにをしても罰せられないとなれば、ついついよくないこともしかねません。ですから、国家権力が適正な法の力によって、なんらかの規制を行なうことはどうしても必要になってきます。砂糖は甘くておいしいといっても、甘いばかりではいけません。やはり、そこに塩のからさもあって調和が保たれるのだと思います。刑法はいわば、その塩の役目を果たすものでしょう。ですから、今までが甘きにすぎたとすれば、あるていど、からさを加味していくことも一面必要だと考えられます。
 個々の刑罰については、改正案で軽くなったもの、重くなったものいろいろあるようです。しかし、なかには軽くしてもまだ重すぎるもの、あるいは反対に重くしてもなお軽きに失するものもあるかもしれません。そういう点については、専門家の方々で十分ご検討いただきたいと思います。
 いずれにしても、私は、刑法の改正は、民主主義を守り、国民が自由に安全に生活、活動でき、社会全体の秩序も好ましい姿で保たれていくという方向で考えられるべきだと思います。そういう意味で役立つ改正であれば、個々の刑罰が軽くなるとか重くなるということは、二義的な問題だと考えます。
27  裁判と世論
 松下 今日、裁判というものは、いわゆる三権分立のもと、独立したかたちになっています。したがって、裁判官は憲法をはじめとするもろもろの法律を基準として、時の政府、時の風潮をこえて、公正無私に何が正しいかを判断しなくてはならないと思います。
 ところが、昨今の日本では、裁判に対する圧力的な世論が非常に強いように思われます。昔はそういった裁判所に対して圧力をかけるとか示威運動をすることはめったにありませんでした。今日は民主主義の時代ですから、そういうこともあって当然かもしれませんが、そのことが、本来、中正であるベき裁判官の心理になんらかの影響を与えはしないでしょうか。裁判官も人間である以上、そうした圧力によって多少動揺することも考えられますが、それでは裁判の公正が侵されるおそれもでてきます。
 裁判に対して世論が、なんらかの圧力をかけることについてどのようにお考えでしょうか。
 池田 裁判に対して世論が圧力をかけるのは好ましくないとのご意見のようですが、私はそのようには考えません。
 三権分立という制度は、裁判官が行政府、立法府から独立して、法律の指し示す根拠と自己の良心のみにもとづいて判断を下すことができるようにとの精神から生まれたものです。したがって、この二権分立による裁判所の独立というものは、他の行政府、立法府に対するものであって、国民から独立し、世論から遊離したものであるべきだということでは、全くありません。裁判所もまた、国民の信託にもとづくものであり、国民を代表し、国民のために裁判をする義務をもっています。というより、むしろ三権分立は、裁判所が国民の側にたてるための制度的保障です。
 ところで、ご質問には、裁判は裁判官に任せておけばよいのであって、民衆がとやかくいうべきではないというお考えが見受けられるようです。しかし、それは、政治は政府に、立法は国会に任せておいて、その結果に対して、ただ国民は黙って従っていればよいというのと同じになります。これは、もはや民主主義の根本精神に反します。
 司法制度といえども、それは、行政府、立法府と同じく、国民のものであり、その裁判の過程や結果について、国民がそれぞれ自身の意見をもち、厳しく評価するのは、むしろ当然の権利です。そして、この声を世論として盛り上げ、裁判に反映させようとするのは、国民として全く当然の行為です。したがって、アメリカなどにおいては、裁判にも民衆(の意思と判断)が参画できるように、陪審員制度をとっているわけです。
 裁判官は、この世論に真摯に耳を傾け、時代に対して、深い洞察をなしていかなければなりません。
 裁判所というのは、法の監視役として、ともすれば、時代性を超越したものとか、国家権威の象徴のように考えられがちであり、また、現実に、裁判所自体がそのような前近代的意識から抜けだせないでいるような面も多少なりとも見受けられます。しかし裁判にあたって、まず先立つものは″現実″そのものであり、裁判官にはその的確な把握がなによりも要請されるといえましょう。その事実に即して法を解釈し、適用するのが裁判官の任務であると私は考えています。この事実の認識と法律の解釈にあたって裁判官自身の識見が大きく問われることはいうまでもありません。そして現実社会は常に流動しています。それゆえ裁判官は、常に、現実社会の動き、世論、国民の意思というものに、十分な関心を払い、知悉していくことが大切といえましょう。
 このような世論を聞くことによって、本来、中正であるべき裁判官の心理が、なんらかの影響を受けることを懸念しておられるようですが、それも、いわれのないことと思われます。中正といっても、それは固定化され、時代的変化を離れてあるものでないことは、先にのべたとおりです。さらに、憲法等による裁判官への身分保障(最高裁判事の十年ごとの国民審査等)の現状をみるならば、裁判官自身が自己の良心に従って裁判できる立場は十分保障されています。しかも、この保障自体、裁判官が国民の声に従って裁判できるためのものといえるでしょう。
 総じて私は、国民はもっと裁判に関心をもち、大事な判決のあるごとに、大いに世論を巻きおこし、裁判に国民の意見を反映させていくべきであろうと考えます。
 ただし、世論を聞くといっても、一方的であってはなりませんし、世論だからといって明らかな正義を曲げることがあってはならないことは当然です。
28  靖国法案について
 池田 靖国法案が論議を呼んでいます。この法案には「三度と『英霊』を出さないようにするためにがんばることが、なによりの回向」(昭和四十九年四月十六日「朝日新聞」「声」欄)という遺族の声などもあり、戦前の軍国主義への巧妙なる回帰という反対者の意見も広く一般人に行き渡っているようです。
 私も靖国神社を国家管理にすることが英霊の供養という政府与党のいいぶんは事の本質を知らぬ形式論理の結論であると思います。英霊の供養は、「声」の投書でも訴えられているように、三度と不幸な戦争を起こさないということに尽きると思いますが、この法案に対してご意見をうかがいたいと思います。
 松下 この靖国法案については、賛成、反対、それぞれいろいろな意見があって、軽々に是非は論じられないように思います。ですから私は、これはお互い国民一人ひとりがほんとうに素直に考えて結論を出すことが、大切ではないかと思うのです。
 考え方はいろいろありましょうが、私は、問題は結局、国のために殉じた人びと、そのなかにはやはり純真な青年たちが多いと思うのですが、そうした人びとの英霊をいかに祭るかということではないかと思います。
 この点について、国民一人ひとりが胸に手を当てて考えてみてはどうでしょうか。つまり、かりに自分自身が国のために殉じたという身になったら、果たしてどう考えるだろうかということです。祭ってもらったほうがうれしいと思うか、祭ってくれないほうがいいと思うか、そのどちらかということを、純粋に死んでいった人の身になり、その心情を察して考えてみることが大切なのではないでしょうか。
 いいかえれば、死んでいった人たちの声なき声に聞いてみるということです。素直な心になってその人たちに聞いてみるのです。その声が、祭ってくれたほうがいいというか、あるいは二度と戦争を起こさないのであれば別に祭ってくれなくてもいいというか、それは聞いてみなければわかりませんが、いずれにしても、祭られる人たちの声なき声を聞くことが一番大事だと思います。
 ただ問題は、その声なき声をどのようにして聞くかです。科学的には聞けませんから、精神的に聞くしかないでしょう。これはむずかしいことですが、そうするほかはないと思います。一度、全国民が、真夜中に心を静めてその声を聞いてみてはどうでしょうか。そのとき自分の胸にひびいてきた声を聞けば、結論はおのずと出てくるのではないかと思います。
29  国難に殉じた人をいかに祭るか
 松下 どこの国でも、その建国以来、戦争その他の国難にさいしてこれに殉じた人が多かれ少なかれあると思います。そして、いずれの国においても、なんらかの施設を設けて、そうした国難に殉じた人びとを祭っています。ですから、たとえば他国の元首がその国を訪問したさいにそういう場所に詣で、花束を捧げてその人びとの霊を慰めるといったことが一つの慣習になっているように思われます。
 日本は二千年になんなんとする長い歴史をもっていますから、その間、国難に殉じた人は非常に数多いと思います。しかし今日、その人びとを祭り、外国の元首が来日されたさいに、花束を捧げ霊を慰めていただくための場所が、はっきりと定められていないようです。
 こうしたことは、国家の尊厳にもかかわってくることであり、そのような場所があってもいいのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。ご高見を賜わらば幸いです。
 池田 戦争その他の国難に殉じた人びとを祭る施設を設けるというのは、靖国神社を国家管理とするということを言外にいわれているのか、それとも新たにつくるといわれているのか、そのへんがはっきりいたしませんが、もし靖国神社を国家管理化する腹案をもっていわれているのならば賛成しかねます。
 それはすでにご存じのとおり、第二次世界大戦後、日本国憲法第二十条の精神にのっとって靖国神社は国家の管理をはなれて単立宗教法人となっているからです。したがって、現憲法のもとに靖国神社を国家管理にするのは明らかに憲法違反です。そして、私は現憲法にうたわれている「信教の自由」は、国民の精神的自由の最も中核となるものであり、この精神は今後とも守りつづけていかねばならない条項であると思っています。
 現在、政府・与党は靖国神社法案を国会で議決しようとしておりますが、この件についても私は何回か見解を発表しているとおり反対です。
 また、新たにつくるという考え方だとすれば、私は、それ自体に大きな問題があると思います。というのは、なぜこの時代に、国家のために、戦争によって殉じた人びとを国家の力によって祭るのか、という疑問が出てきます。それは、考えようによれば、国家のために生命を棒げることを奨励し、戦争を賛嘆することにならないでしょうか。
 このご質問のなかで、「外国の元首が来日されたさいに、花束を捧げ霊をなぐさめる場所が定められていないことは、国家の尊厳にかかわる」というご意見がありますが、あまり、こだわる必要はないと思います。
 その理由は、いくつかの点からいえますが、まず、日本国憲法の根底にあり、現代民主主義の精神ともいうべきものは、生命の尊厳を認めるところから出発しております。太平洋戦争などは、国家を尊厳なるものとして、人間生命をその犠牲にする考え方の象徴であったわけです。私は真に尊厳なものは一人ひとりの人間の生命であって国家ではないのだということを明確にするとともに、それはどういうことなのかを全人類が再認識することこそ先決であると考えております。
 この意味から、日本国憲法の戦争放棄の宣言は、生命の尊厳への崇高なる精神と普遍的な真理を条文化したものであり、理想的なものといえます。したがって日本国民が、あらゆる障害を乗り越えて厳守していってこそ、世界の国々の模範となっていけるのではないでしょうか。日本を訪れる元首も、この日本人の″法″に対する忠誠心、持続性を知って、それを正しく評価されるものと思います。いわれるように″国家の尊厳″にかかわるとは私には思えないのです。
 次に、祭られている英霊についても、国家の元首が花束を捧げたという行為によって供養され鎮められるものではありません。英霊に対する真の供養は、三度と再び、悲惨な戦争を繰り返さないという固い決意を実行に移していくことによってなされていくものと考えます。そして、そのためのあらゆる努力を惜しまず、また戦争につながるようなあらゆる動き、原因というものを取り除いていくことが、国難に殉じた人びとへの真心の供養といえるのではないでしょうか。
 とくに神道が国家宗教として国民の思想統一の号令に用いられ、戦争へ突入するために精神的準備に利用された思い出は、忘れようとしても忘れることのできない悲しい現実であり、それが再び国家の名において、英霊を鎮めるという理由で復活することには強く反対する必要があると思います。

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