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日蓮大聖人・池田大作

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如来寿量品(第十六章) 「死後の生命」…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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9  「断見」でも「常見」でもない
 斉藤 こういう「断見」が、多くの現代人の生死観だと思います。これを、かりに「断滅論」と名づけておきたいと思います。一方、現代においては、霊魂不滅論も、いろいろ形を変えて流行しています。
 しかし、肉体とは別に、不変の「魂」のようなものがあって、それがずっと続いていくという考えは、「常見」といって、これも仏法では否定します。
 池田 そう。フワフワと飛んでいく霊魂のような″実体″があるわけではない。あくまでも色心不二です。また死後の生命は「空」として、宇宙に溶け込み、宇宙と一体になっていく。
 「常見」も「断見」も、誤りなのです。どちらも一面の真理を含みながら、やはり偏った見方です。それでは、寿量品で説く「永遠の生命」とは何なのか。それを次に考えてみよう。
 日蓮大聖人は「但専ら本門寿量の一品に限りて出離生死の要法なり」と仰せだ。(〈あらゆる諸経典のなかで〉ただ本門寿量品の一品のみが、生死の迷苦を乗り越えるための要法なのである)
 正しい生死観を確立できるか否か。それによって、死の意味は変わる。生の意味も変わる。
 ゲーテは「来世を信じないものは、みなこの世でも死んでいる」と言っています。(エッカーマン『ゲーテとの対話』山下肇訳、岩波文庫)
 生き生きと「永遠の希望」をもって生きるために、今、仏法を学んでいるのです。やがてくる死を、堂々たる「人生の完成」の時とするか。それとも、みじめな「人生の崩壊」の時とするのか。
 それはひとえに、この一生を、この「今」をどう生きたのかで決まってしまうのです。その意味でも、まさに「臨終」は、「只今」にあるのです。

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