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日蓮大聖人・池田大作

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如来寿量品(第十六章) 「死後の生命」…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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8  「脳」は「心」が働く場
 池田 心と身体、なかんずく心と脳が密接な関係にあることは明らかです。しかし、だからといって心の存在が脳の中に限定されると言えるのかどうか。イギリスの生物学者(ルパート・シェルドレイク)が、分かりやすい譬えを説いていた。(Nature*As*Alive:*Morphic*Re.*sonance*And*Collective*Memory)
 記憶と脳の関係を、テレビの「画像や音」と「受信機」に譬えるのです。たとえば、テレビで印象に残るシーンを見たとしよう。その画面を翌日、テレビの中に探しても決して見つかりはしない。テレビは、電波を受信するだけです。「受信機がなくては画像は映らない」が、テレビの中に画像そのものがあるわけではない。
 斉藤 心は「脳を媒介にして働く」としても、脳そのものではないという譬えですね。
 池田
 「而二不二(二にして、二でない)」が実相です。心という「心法」と、脳内現象という「色法」は、別のものでありながら(二にして)、しかも一体で活動する(不二)というのが仏法の見方です。いわば、脳は心の働きが顕在化する「場」であり、「心の座」とも言えるのではないだろうか。
 遠藤 テレビのどこかが壊れたら、画像はちゃんと映りません。脳もどこかが破壊されれば、精神現象に異常が生じます。
 またテレビが完全に壊れたら、画像は映りません。死によって脳細胞が破壊されたら、心理的・精神的現象も発現の場を失います。しかし、あくまで発現する「場」がなくなっただけで、心の働きそのものは存続していくと考えられます。
 須田 科学の進歩を疑わない人々は、脳の研究がこれからどんどん進むことによって、今は説明ができないことでも、やがては「一切の精神の働きは、脳の神経活動として説明できるようになる」、と考えているようです。しかし、どんなに精密に脳細胞を調査しても、「心」そのものは、とらえられないのではないでしょうか。
 池田 たとえば、頭の中に、ベートーヴェンの「歓喜の歌」のメロディーを思い浮かべたとする。脳には、何らかの現象が現れるでしょう。しかし、その現象をいくら調べても、そこに「歓喜の歌」のメロディーを発見できるわけではないでしょう。
 須田 それでも、多くの科学者は、いつかはそれが可能だと信じている──まさに″信じている″のですが、これが近代科学の性格なんですね。よく「要素還元主義」と呼ばれますが、何でも細かく部分に分けて調べれば、本質が突きとめられると考えるのです。
 しかし、たとえば、人間の「身体」をどんなに細かく分析し尽くしても、それだけで人間の生命が解明できるわけではありません。すべての臓器を持ち寄っても、それを集めて「人間」が生まれるわけではないのです。
 遠藤 ある学者は批判しています。「音楽を理解するのに、オーケストラのそれぞれの楽器の組成の分析をやるだけでよいなどということがあり得ようか」と。(E・シャルガフ著『ヘラクレイトスの火』村上陽一郎訳、岩波書店)
9  「断見」でも「常見」でもない
 斉藤 こういう「断見」が、多くの現代人の生死観だと思います。これを、かりに「断滅論」と名づけておきたいと思います。一方、現代においては、霊魂不滅論も、いろいろ形を変えて流行しています。
 しかし、肉体とは別に、不変の「魂」のようなものがあって、それがずっと続いていくという考えは、「常見」といって、これも仏法では否定します。
 池田 そう。フワフワと飛んでいく霊魂のような″実体″があるわけではない。あくまでも色心不二です。また死後の生命は「空」として、宇宙に溶け込み、宇宙と一体になっていく。
 「常見」も「断見」も、誤りなのです。どちらも一面の真理を含みながら、やはり偏った見方です。それでは、寿量品で説く「永遠の生命」とは何なのか。それを次に考えてみよう。
 日蓮大聖人は「但専ら本門寿量の一品に限りて出離生死の要法なり」と仰せだ。(〈あらゆる諸経典のなかで〉ただ本門寿量品の一品のみが、生死の迷苦を乗り越えるための要法なのである)
 正しい生死観を確立できるか否か。それによって、死の意味は変わる。生の意味も変わる。
 ゲーテは「来世を信じないものは、みなこの世でも死んでいる」と言っています。(エッカーマン『ゲーテとの対話』山下肇訳、岩波文庫)
 生き生きと「永遠の希望」をもって生きるために、今、仏法を学んでいるのです。やがてくる死を、堂々たる「人生の完成」の時とするか。それとも、みじめな「人生の崩壊」の時とするのか。
 それはひとえに、この一生を、この「今」をどう生きたのかで決まってしまうのです。その意味でも、まさに「臨終」は、「只今」にあるのです。

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