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日蓮大聖人・池田大作

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如来寿量品(第十六章) 本門の心──永…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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13  「因果一念の宗」の宇宙大のスケール
 池田 譬えて言えば、文上の「久成の釈尊」は、たわわに実った果物のような姿です。その果実の姿はすばらしいが、それをもたらした種子は経文の表には見えない。隠されているわけです。果実の中の種子を示すのが文底の仏法です。
 この点は、今後もさまざまな角度から論じることになると思うが、先ほどの「因果」論から言えば、大聖人は、御自身の本因妙の仏法を「因果一念の宗」と仰せです。
 須田 「因果異性の宗」(方便権教)、「因果同性の宗」(法華経迹門)、「因果並常の宗」(法華経本門)に対する「因果一念の宗」ですね。
 池田 問題は「並常の宗」と「一念の宗」の違いです。
 文上の本門では、釈尊の一身に仏界(果)と九界(因)がともに永遠に具わっている(並常)と言っているだけで、そうならしめた「本因」は説かれていない。
 その本因とは「因果倶時不思議の一法」です。釈尊が師とした、この本因を、直ちに、そのまま説くのが「本因妙の教主」です。日蓮大聖人は、「其の教主は某なり」と宣言されています。
 遠藤 「百六箇抄」の「我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり、其の教主は某なり」のところですね。
 池田 この「本因妙の妙法」こそ、法華経の寿量品の文の底に秘し沈められた「三世諸仏の本尊」であり、「真の一念三千」なのです。この「一法」こそ「本因」であり、同時に「本果」でもある。「仏因」と「仏果」が同時です。
 仏果──仏になるといっても、仏因──信心がだれよりも強い人になるという以外にないのです。信心──仏因が即、そのまま仏果なのです。信心そのものが仏界なのです。信心の一念に、仏因も仏果も具足しているのです。
 斉藤 それが「因果一念の宗」ということですね。
 池田 衆生の側から見た「因果一念の宗」の意味と言えるでしょう。
 その根底は、全宇宙をわが色心とする「無始の本仏」の一念に、本因本果が具わり、十界の三千諸法が具わっているということです。その意味で、文底の「一念三千」というのは、全宇宙的なスケールになってくる。
 迹門の一念三千は九界の凡夫の一念に具する三千を示そうとし、本門の一念三千は釈尊という仏個人の一念に具する三千を示そうとしている、とも言える。どちらも「個性」の上の一念三千です。
 それに対して、そういう凡夫も仏も、十界のありとあらゆる衆生を、打って一丸として、一個の大生命体の顕現であり、その本仏の一念に具される三千諸法であると見るのが、文底の一念三千です。三世諸仏を仏たらしめた真の「事の一念三千」とは、この文底の一念三千なのです。
 須田 目がくらみそうなスケールですね。
14  本因妙とは「太陽」の仏法
 池田 譬えていえば、文底の仏法は「太陽」です。本門の説法は、太陽の光を反射して輝く「月」です。
 迹門の説法は、池に映ってほのかに光っている月かもしれない。
 斉藤 日蓮大聖人が御自身の本因妙の仏法を「太陽」に譬え、釈尊の仏法を「月」に譬えられたのは、法門の上からも深い意味が考えられるわけですね。
 池田 三世の諸仏は、一仏も残らず、皆、この太陽を己心に昇らせて成仏したのです。私どもは、「月」とか「星」を見て「太陽」の光を思いめぐらすのではなく、日々、妙法を唱えて、この太陽を直ちに己心に昇らせている。
 須田 歴劫修行ではなく、この今世で、一生成仏できるということですね。
 池田 そう。ゆえに日蓮大聖人は、妙法を唱える人は「やすやすと仏になるべし」、「釈迦同等の仏にやすやすとならん事疑無きなり」、「釈尊程の仏にやすやすと成り候なり」と、繰り返し仰せなのです。
 これこそ本当の「仏教の人間化」です。
 何とすばらしい仏法であろうか。
 何とすばらしい私どもの人生だろうか。
 何とすばらしい宝を、大聖人は人類に与えてくださったことだろうか。

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