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日蓮大聖人・池田大作

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如来寿量品(第十六章) 本門の心──永…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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12  「絶対的幸福」の境涯を顕本
 須田 寿量品というのは、そういう「生き方の転換」を教えているのですね。
 池田 そうです。「境涯の革命」と言ってもいい。戸田先生は、教えてくださった。(以下、『戸田城聖全集』4)
 「われわれが、金をもうけたい、りっぱな家にはいりたい、じょうぶでありたいと願うことは、あたりまえのことです。それをかなえてくれる宗教こそ、真実の宗教なのです」
 「しかし、ただわれわれは、それだけを願っておりながら、将来は絶対的幸福境涯に入るのです。絶対的幸福などということは、あなたがたは願ってはいない。願っていないのに、あなた方はそうならなければならない。まことにいやでしょうけれども」(笑い)
 「絶対的幸福というのは、どこにいても、生きがいを感ずる境涯、どこにいても、生きている自体が楽しい、そういう境涯があるのです──腹の立つことがあっても、愉快に腹がたつ、そういう境涯ができたら、うれしくありませんか」と。
 「相対的幸福」だけを願っているのは「始成」論です。これだけでは根なし草なのです。はかない。すぐに消えてしまう。「絶対的幸福」が「久成」の境涯です。そのためには、利己主義ではなく、広宣流布に勇んで戦うことです。それが本門の信心です。不惜身命によって、小我の無明を叩き破るのです。そうした分だけ、大我の生命がわく。
 遠藤 「腹が立っても、愉快に腹が立つ」(笑い)というのは、すごい境涯ですね。
 池田 これが本当の「九界即仏界」です。腹が立つのは修羅界。愉快なのは仏界。
 また仏界即九界で、仏界を得たといっても、永遠に悩みはある。人生には、いろんなことがある。それをサーフィン(波のり)を楽しむように楽しんでいくのです。いろんなことがあるから人生は面白いのです。
 さあ、ここで大事なのは「自覚」です。「十界本有」であるから、十界のいずこにいようとも、久遠の妙法を信じれば、直ちに仏界が湧く。「信心」の自覚を忘れなければ、たとえ修羅の世界にいようとも、そこは寂光土です。
 牧口先生は、極寒の牢獄でさえ「信仰を一心にするのが、この頃の仕事です。これさへして居れば、何の不安もない。心一つのおき所で、地獄に居ても安全です」(昭和十九年一月十七日の書簡)と言われた。
 反対に「信心」がなくなれば、形の上で、どんなに幹部であろうと、先輩であろうと、心が堕ちたら終わりです。
 真理探究の二乗界であれ、権力闘争の修羅界であれ、「信心」が輝いておればすべての振る舞いが、仏の智慧と合致してくる。
 「信心」がなくなれば、醜悪な利己主義しか残らない。これまでも、信心を失って堕ちていった人がいる。目先の欲にとらわれて──。
 それでは一体、なんのために毎日、寿量品を読んできたのか、ということになってしまう。未来に自分自身が苦しむことでしょう。本当に愚かです。
 斉藤 信仰が、人生が「根なし草」になってはならないということですね。それは「師弟」ということを忘れるなということだと思います。
 寿量品の真髄も、ここにあります。釈尊自身の「師」である「因果倶時不思議の一法」即「久遠元初の仏」を示さんとするのが寿量品の肝心ですから。ただ、経文には、その「一法」は示されていません。あくまで釈尊の本地は、五百塵点劫という、はるかな昔からの仏であるというにとどまっています。
 池田 だから「本果妙」なのです。久成の釈尊が、根源の一法を修行して、どうなったかという「結果」を説いたのが、文上の寿量品です。
 しかし、どうやって、その結果を得たのかという「本因」は明かされていない。言いかえれば、文上の法華経には「本尊」がないということです。絢爛たる説法が相次いで行われるのに、一体、結論として、法華経は何を本尊とせよと言っているのか、わからない。これが古来、多くの議論を呼び起こしてきたのです。
 ある意味で、本尊が説かれていないのは当然で、在世の衆生は、法華経に来て、皆、成仏してしまうわけです。その人には、もう本尊は何かわかっているわけです。しかし、滅後の衆生なかんずく末法の衆生は、そうではない。
 遠藤 そこに、「本因妙の仏法」が説かれなければならない、ゆえんがあったわけですね。
13  「因果一念の宗」の宇宙大のスケール
 池田 譬えて言えば、文上の「久成の釈尊」は、たわわに実った果物のような姿です。その果実の姿はすばらしいが、それをもたらした種子は経文の表には見えない。隠されているわけです。果実の中の種子を示すのが文底の仏法です。
 この点は、今後もさまざまな角度から論じることになると思うが、先ほどの「因果」論から言えば、大聖人は、御自身の本因妙の仏法を「因果一念の宗」と仰せです。
 須田 「因果異性の宗」(方便権教)、「因果同性の宗」(法華経迹門)、「因果並常の宗」(法華経本門)に対する「因果一念の宗」ですね。
 池田 問題は「並常の宗」と「一念の宗」の違いです。
 文上の本門では、釈尊の一身に仏界(果)と九界(因)がともに永遠に具わっている(並常)と言っているだけで、そうならしめた「本因」は説かれていない。
 その本因とは「因果倶時不思議の一法」です。釈尊が師とした、この本因を、直ちに、そのまま説くのが「本因妙の教主」です。日蓮大聖人は、「其の教主は某なり」と宣言されています。
 遠藤 「百六箇抄」の「我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり、其の教主は某なり」のところですね。
 池田 この「本因妙の妙法」こそ、法華経の寿量品の文の底に秘し沈められた「三世諸仏の本尊」であり、「真の一念三千」なのです。この「一法」こそ「本因」であり、同時に「本果」でもある。「仏因」と「仏果」が同時です。
 仏果──仏になるといっても、仏因──信心がだれよりも強い人になるという以外にないのです。信心──仏因が即、そのまま仏果なのです。信心そのものが仏界なのです。信心の一念に、仏因も仏果も具足しているのです。
 斉藤 それが「因果一念の宗」ということですね。
 池田 衆生の側から見た「因果一念の宗」の意味と言えるでしょう。
 その根底は、全宇宙をわが色心とする「無始の本仏」の一念に、本因本果が具わり、十界の三千諸法が具わっているということです。その意味で、文底の「一念三千」というのは、全宇宙的なスケールになってくる。
 迹門の一念三千は九界の凡夫の一念に具する三千を示そうとし、本門の一念三千は釈尊という仏個人の一念に具する三千を示そうとしている、とも言える。どちらも「個性」の上の一念三千です。
 それに対して、そういう凡夫も仏も、十界のありとあらゆる衆生を、打って一丸として、一個の大生命体の顕現であり、その本仏の一念に具される三千諸法であると見るのが、文底の一念三千です。三世諸仏を仏たらしめた真の「事の一念三千」とは、この文底の一念三千なのです。
 須田 目がくらみそうなスケールですね。
14  本因妙とは「太陽」の仏法
 池田 譬えていえば、文底の仏法は「太陽」です。本門の説法は、太陽の光を反射して輝く「月」です。
 迹門の説法は、池に映ってほのかに光っている月かもしれない。
 斉藤 日蓮大聖人が御自身の本因妙の仏法を「太陽」に譬え、釈尊の仏法を「月」に譬えられたのは、法門の上からも深い意味が考えられるわけですね。
 池田 三世の諸仏は、一仏も残らず、皆、この太陽を己心に昇らせて成仏したのです。私どもは、「月」とか「星」を見て「太陽」の光を思いめぐらすのではなく、日々、妙法を唱えて、この太陽を直ちに己心に昇らせている。
 須田 歴劫修行ではなく、この今世で、一生成仏できるということですね。
 池田 そう。ゆえに日蓮大聖人は、妙法を唱える人は「やすやすと仏になるべし」、「釈迦同等の仏にやすやすとならん事疑無きなり」、「釈尊程の仏にやすやすと成り候なり」と、繰り返し仰せなのです。
 これこそ本当の「仏教の人間化」です。
 何とすばらしい仏法であろうか。
 何とすばらしい私どもの人生だろうか。
 何とすばらしい宝を、大聖人は人類に与えてくださったことだろうか。

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