Nichiren・Ikeda
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49 開墾(49)
田所キクは、ドミニカのメンバーのためにと、その後も機関紙誌など、学会の出版物を送り続けた。
ドミニカには幹部がいなかっただけに、メンバーは全く面識がないにもかかわらず、何かあると、彼女に手紙で相談するようになっていった。
田所は、問題によっては学会本部に問い合わせるなどして、その一つ一つに誠実に、一生懸命に対応し、励ましの便りを書いた。
彼女が出す手紙は、月に十通を超えることもあった。しかも、季節ごとに、桜や桃などの押し花が同封されていた。少しでも、皆の心が和んでくれればとの、配慮からであった。
その便りは、メンバーの大きな心の支えとなった。
皆は、田所に、″ドミニカ広布のお母さん″という思いをいだくようになっていった。
人に言われて始めたことではない。報酬や見返りを求めての行為でもない。同志を思い、世界の広宣流布を願うがゆえに、自ら始めた献身であった。
こうした励ましの連帯の絆が、地下茎のように張り巡らされ、友と友の心を結んでいたからこそ、世界広布の揺るぎない基盤が、築かれていったのである。
ともあれ、この支部結成によって、カリブの宝石・ドミニカに旭日が昇り、希望の行進が始まったのだ。
同志が念願してきた、山本伸一のドミニカ共和国の訪問が実現するのは、それから二十一年後の一九八七年(昭和六十二年)のことである。
これは、彼の海外訪問の四十カ国目という、記念すべき訪問となった。
この折、伸一はホアキン・バラゲール大統領と会見し、さらに、「クリストバル・コロン大十字勲章」を受章したほか、サントドミンゴ自治大学から、名誉教授の称号が贈られた。
それは、伸一とメンバーが、ドミニカ社会で大きな信頼を勝ち取った、最高の証であった。
この六六年(同四十一年)から、中南米各国の広宣流布の、本格的な開墾が始まったといってよい。
だが、その作業は、石だらけの大地を耕し、畑を作り上げるような、苦闘の連続であった。
徒労に思え、空しさを感ずることもあったにちがいない。幾度となく、悔し涙を流したことであろう。
しかし、どの国も、どの友も、見事に勝ち抜いてくれた。
今、創価の勝利の旗は、あの地、この地に、誇らかに翻り、栄光の虹かかる、二十一世紀の開幕の瞬間を待っている。