Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第11巻 「開墾」 開墾

小説「新・人間革命」

前後
48  開墾(48)
 体験発表などのあと、清原かつを中心に、質問会が行われた。
 最後に、清原は訴えた。
 「皆さんの手で、皆さんの力で、ドミニカを幸せの楽園にしてください。
 そして、『先生、ドミニカの広布を見てください』と、胸を張って言える、見事なる歴史を残して、山本先生に来ていただこうではありませんか!」
 この呼びかけに、大拍手がわき起こった。
 支部結成大会の終了後、一人の婦人が駆け寄ってきて、清原の手を握り締めて言った。
 「今のお話で、ドミニカの目標ができました。
 何年、何十年かかったとしても、私たちは、必ず、このドミニカに、山本先生をお呼びいたします」
 それから、参加者全員で記念撮影をした。
 清原は、ドミニカのメンバーと語り合って、その信心の純粋さに、驚きを隠せなかった。愚痴や文句や怨嫉めいた話は、全くないのである。
 日本から幹部が来て、指導しているわけでもないのに、なぜ、皆がこれほど強い、すっきりとした信仰に立っているのか、彼女は疑問だった。
 しかし、話をしているうちに、その陰には、側面からメンバーを支え、励まし続けてきた、日本に住む一人の婦人がいることがわかった。東京・新宿区で班長をしている、田所キクという人である。
 彼女は、ドミニカには来たこともなければ、特にドミニカと深い関係があったわけではなかった。
 ただ、中尾寛一の弟が田所と同じ組織で、何かと世話になっていたことから、中尾が彼女の家に、あいさつに行ったことがあった。
 田所は、その後、中尾がドミニカに移住したと聞いて、新天地での活躍を祈ってきた。
 一九六四年(昭和三十九年)、彼女のもとに、中尾から手紙が届いた。
 そこには、村木広人と二人で活動を開始し、新メンバーも、次々と誕生していることが記されていた。
 田所は、世界広布のために戦う同志を、なんとしても応援したいと思った。
 そして、すぐに返事を書き、数珠や勤行要典、また、聖教新聞や大白蓮華など、学会の出版物を梱包して送った。
 現地のメンバーにとっては、それは、宝のような贈り物であった。
 大白蓮華や聖教新聞は、皆で回し読みした。御書の御文をはじめ、山本会長の指導など、大切だと思えるところは、皆、ノートに書き写していった。
49  開墾(49)
 田所キクは、ドミニカのメンバーのためにと、その後も機関紙誌など、学会の出版物を送り続けた。
 ドミニカには幹部がいなかっただけに、メンバーは全く面識がないにもかかわらず、何かあると、彼女に手紙で相談するようになっていった。
 田所は、問題によっては学会本部に問い合わせるなどして、その一つ一つに誠実に、一生懸命に対応し、励ましの便りを書いた。
 彼女が出す手紙は、月に十通を超えることもあった。しかも、季節ごとに、桜や桃などの押し花が同封されていた。少しでも、皆の心が和んでくれればとの、配慮からであった。
 その便りは、メンバーの大きな心の支えとなった。
 皆は、田所に、″ドミニカ広布のお母さん″という思いをいだくようになっていった。
 人に言われて始めたことではない。報酬や見返りを求めての行為でもない。同志を思い、世界の広宣流布を願うがゆえに、自ら始めた献身であった。
 こうした励ましの連帯の絆が、地下茎のように張り巡らされ、友と友の心を結んでいたからこそ、世界広布の揺るぎない基盤が、築かれていったのである。
 ともあれ、この支部結成によって、カリブの宝石・ドミニカに旭日が昇り、希望の行進が始まったのだ。
 同志が念願してきた、山本伸一のドミニカ共和国の訪問が実現するのは、それから二十一年後の一九八七年(昭和六十二年)のことである。
 これは、彼の海外訪問の四十カ国目という、記念すべき訪問となった。
 この折、伸一はホアキン・バラゲール大統領と会見し、さらに、「クリストバル・コロン大十字勲章」を受章したほか、サントドミンゴ自治大学から、名誉教授の称号が贈られた。
 それは、伸一とメンバーが、ドミニカ社会で大きな信頼を勝ち取った、最高の証であった。
 この六六年(同四十一年)から、中南米各国の広宣流布の、本格的な開墾が始まったといってよい。
 だが、その作業は、石だらけの大地を耕し、畑を作り上げるような、苦闘の連続であった。
 徒労に思え、空しさを感ずることもあったにちがいない。幾度となく、悔し涙を流したことであろう。
 しかし、どの国も、どの友も、見事に勝ち抜いてくれた。
 今、創価の勝利の旗は、あの地、この地に、誇らかに翻り、栄光の虹かかる、二十一世紀の開幕の瞬間を待っている。

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