Nichiren・Ikeda
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47 開墾(47)
三月十五日の朝、サンパウロを発った清原かつ、岡田一哲の二人は、その日は、カリブ海にあるプエルトリコ島のサンフアンに泊まり、翌十六日の朝、ドミニカ共和国の首都のサントドミンゴに到着した。
日本の幹部がドミニカを訪問するのは、これが初めてであった。
空港には、交通の便の悪いなか、百キロ以上も先の移住地から、十四、五人もの人が、求道に目を輝かせながら集って来た。
清原たちは、中心になってきた村木広人や中尾寛一らの代表と、宿舎となるホテルで、組織をどうするかについて検討した。
清原と岡田がサンパウロを発つ前日、山本伸一は言った。
「もし、ドミニカの皆さんが賛成ならば、支部を結成してはどうだろうか。
皆、苦労に苦労を重ねて頑張ってきた。一番苦労してきた人が、一番幸福になる権利がある。支部の結成は、そのための船出だよ」
岡田が、この話を伝えると、村木たちは「先生は、私たちのことを心配してくださっているのですね」と言って目を潤ませた。
支部の結成は、ドミニカのメンバーの念願であり、皆、大賛成であった。
早速、支部結成の検討に入り、支部名はドミニカ支部とし、支部長には、村木より年長で入会も古い中尾が、支部の婦人部長には、村木の妻の磯子が就くことになった。
また、日本人の移住地を中心に、ヒーマ、コンスタンサ、ダハボンの三地区が誕生することになり、村木はヒーマ地区の地区部長に決まった。
さらに、男女青年部の組織もつくられ、それぞれ中心者も決定した。
それから清原たちは、ドミニカ支部の支部結成大会となった指導会に出席するため、サントドミンゴから、コンスタンサの移住地に向かった。
車は、もうもうと砂煙をあげながら、でこぼこ道を四時間ほど走り、ようやくコンスタンサ移住地に到着した。
この移住地の集会所が結成大会の会場だが、そこは集会所というより、食糧倉庫を思わせた。
だが、集って来たメンバーの顔は、生き生きと輝いていた。
ドミニカ支部の結成大会には、六、七十人の人たちが参加した。
最初に岡田一哲から、支部を結成することが発表され、人事が紹介されると、皆の喜びが爆発した。
″ドミニカの新時代が来た。支部が結成されたということは、広宣流布の泉が湧いたということなんだ″
誰もがそう思った。
48 開墾(48)
体験発表などのあと、清原かつを中心に、質問会が行われた。
最後に、清原は訴えた。
「皆さんの手で、皆さんの力で、ドミニカを幸せの楽園にしてください。
そして、『先生、ドミニカの広布を見てください』と、胸を張って言える、見事なる歴史を残して、山本先生に来ていただこうではありませんか!」
この呼びかけに、大拍手がわき起こった。
支部結成大会の終了後、一人の婦人が駆け寄ってきて、清原の手を握り締めて言った。
「今のお話で、ドミニカの目標ができました。
何年、何十年かかったとしても、私たちは、必ず、このドミニカに、山本先生をお呼びいたします」
それから、参加者全員で記念撮影をした。
清原は、ドミニカのメンバーと語り合って、その信心の純粋さに、驚きを隠せなかった。愚痴や文句や怨嫉めいた話は、全くないのである。
日本から幹部が来て、指導しているわけでもないのに、なぜ、皆がこれほど強い、すっきりとした信仰に立っているのか、彼女は疑問だった。
しかし、話をしているうちに、その陰には、側面からメンバーを支え、励まし続けてきた、日本に住む一人の婦人がいることがわかった。東京・新宿区で班長をしている、田所キクという人である。
彼女は、ドミニカには来たこともなければ、特にドミニカと深い関係があったわけではなかった。
ただ、中尾寛一の弟が田所と同じ組織で、何かと世話になっていたことから、中尾が彼女の家に、あいさつに行ったことがあった。
田所は、その後、中尾がドミニカに移住したと聞いて、新天地での活躍を祈ってきた。
一九六四年(昭和三十九年)、彼女のもとに、中尾から手紙が届いた。
そこには、村木広人と二人で活動を開始し、新メンバーも、次々と誕生していることが記されていた。
田所は、世界広布のために戦う同志を、なんとしても応援したいと思った。
そして、すぐに返事を書き、数珠や勤行要典、また、聖教新聞や大白蓮華など、学会の出版物を梱包して送った。
現地のメンバーにとっては、それは、宝のような贈り物であった。
大白蓮華や聖教新聞は、皆で回し読みした。御書の御文をはじめ、山本会長の指導など、大切だと思えるところは、皆、ノートに書き写していった。
49 開墾(49)
田所キクは、ドミニカのメンバーのためにと、その後も機関紙誌など、学会の出版物を送り続けた。
ドミニカには幹部がいなかっただけに、メンバーは全く面識がないにもかかわらず、何かあると、彼女に手紙で相談するようになっていった。
田所は、問題によっては学会本部に問い合わせるなどして、その一つ一つに誠実に、一生懸命に対応し、励ましの便りを書いた。
彼女が出す手紙は、月に十通を超えることもあった。しかも、季節ごとに、桜や桃などの押し花が同封されていた。少しでも、皆の心が和んでくれればとの、配慮からであった。
その便りは、メンバーの大きな心の支えとなった。
皆は、田所に、″ドミニカ広布のお母さん″という思いをいだくようになっていった。
人に言われて始めたことではない。報酬や見返りを求めての行為でもない。同志を思い、世界の広宣流布を願うがゆえに、自ら始めた献身であった。
こうした励ましの連帯の絆が、地下茎のように張り巡らされ、友と友の心を結んでいたからこそ、世界広布の揺るぎない基盤が、築かれていったのである。
ともあれ、この支部結成によって、カリブの宝石・ドミニカに旭日が昇り、希望の行進が始まったのだ。
同志が念願してきた、山本伸一のドミニカ共和国の訪問が実現するのは、それから二十一年後の一九八七年(昭和六十二年)のことである。
これは、彼の海外訪問の四十カ国目という、記念すべき訪問となった。
この折、伸一はホアキン・バラゲール大統領と会見し、さらに、「クリストバル・コロン大十字勲章」を受章したほか、サントドミンゴ自治大学から、名誉教授の称号が贈られた。
それは、伸一とメンバーが、ドミニカ社会で大きな信頼を勝ち取った、最高の証であった。
この六六年(同四十一年)から、中南米各国の広宣流布の、本格的な開墾が始まったといってよい。
だが、その作業は、石だらけの大地を耕し、畑を作り上げるような、苦闘の連続であった。
徒労に思え、空しさを感ずることもあったにちがいない。幾度となく、悔し涙を流したことであろう。
しかし、どの国も、どの友も、見事に勝ち抜いてくれた。
今、創価の勝利の旗は、あの地、この地に、誇らかに翻り、栄光の虹かかる、二十一世紀の開幕の瞬間を待っている。