Nichiren・Ikeda
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新時代の指導原理”王仏冥合”
青年部最高幹部会
1965.7.12 「会長講演集」第13巻
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2 この祭政一致と真っ向から戦ったのが、初代会長牧口先生、二代会長戸田先生でありました。
祭政一致は、原始的な素朴な形態であり、王仏冥合は、未来の新しい時代の理念であります。
ましてや政治に、理念、哲学が欠けている現代、政界が腐敗堕落しきっている今日、この王仏冥合の理念が要求されるのは道理のうえからとうぜんなことであると確信するものであります。学会の主張するところが、祭政一致であるという人にいいたい。かつての神道を中心とした軍国主義のごとく、宗教を看板とした議論を、わが学会が推薦した公明党の議員が、一度でも発言したことがあるか、議事録を見よといいたいのであります。
また、かつての国家神道においては、神官は国家より任命されました。だが、日蓮正宗、創価学会、公明党においては、そのような任免はあろうはずがありません。ましてや、国会議員の任免を、もったいなくも日蓮正宗の猊下がなさることは絶対にありません。この一事をもってしても、祭政一致とまったく違うことは、明確ではありませんか。
さらに、日蓮正宗の御僧侶は、ひとりとして政界に出た人はおりません。ひたすら清浄に正法を護持されております。学会員が政界に出るのは、在家の社会人でありますから、国民としてとうぜんの権利であります。もしそれを否定するならば、世の中で政界に出られるのは、政治以外になんらの職業もなく、信仰ももたない、化け物のごとき人間のみとなってしまうではありませんか。
政治が、政治のための政治となってしまったならば、恐ろしいことであります。
名聞名利の政治のみ多くなり、権力の座を保持することにのみ終始して、民衆から遊離してしまうことは必定であり、これひとえに政治の根底に理念なきためであります。
また宗教が宗教のための宗教に終わってしまったならば、その宗教はなんの力も、利益もない、無用の長物と化するのであります。
すなわち、最高の宗教の理念が、社会のあらゆる面に反映され、政治の源泉となり、社会革命、文化革命等のいっさいの源泉になっていくのがとうぜんであり、それが宗教本来の使命でなければなりません。
したがって、王仏冥合のみが、もっとも完ぺきなる、もっとも生き生きと活動していくべき、最高のありかたであることを断言するものであります。
釈尊在世において、全インド中、もっとも釈尊に縁深き仏国と称せられた舎衛国に「舎衛の三億」という原理があります。
すなわち、その民衆の三分の一は仏を見、仏の説法を聞いて信仰しました。次の三分の一は仏を見たが法は聞かなかった。残りの三分の一は仏を見たことも、法を聞いたこともなかったといわれております。
いま、われわれの化儀の広宣流布、王仏冥合の実践をば、その方程式にあてはめてみるならば、学会員が日本の総人口の三分の一となり、さらに、信仰はしないが、公明党の支持である人たちが、次の三分の一となり、あとの三分の一は反対であったとしても、事実上の広宣流布なのであります。
王仏冥合の実現は、この舎衛の三億を築けばよいのであります。今回の参院選の全得票数は五百十万票で、学会の世帯数とほぼ同数です。
公明党のこんごの活躍によって、まだまだ多くの大衆の支持を得られるのは、この原理にあてはめて明らかなところであります。したがって、こんごとも、おおいに働いてもらおうではありませんか。
その土台の上に立って活躍するのが、諸君らであることを、よくよく自覚していただきたい。未来は洋々として開けているのです。
さらに、なんといっても、いっさいの基盤となり、中核となるのは、この三分の一の学会員です。いよいよ信心を確立し、組織を強化して、団結を固め、いままで以上に、力強い折伏戦を展開して、全民衆を救い切っていこうではありませんか。
また、この「舎衛の三億」は、仏法は信教の自由を認めている厳然たる証拠であります。
また釈尊滅後、百年に出現して、全インドに仏法を流布したアソカ大王も同じです。
アソカ大王は、篤く仏法に帰依し、外護の任にあたって、おおいに仏法を流布しました。
しかし、大王は法律をもって、他の宗教を禁止することはしませんでした。国内には他の宗教を信ずる者もいたのです。
だが、全インドは、仏法によって平和と繁栄がもたらされ、未曾有の文化を興隆して王仏冥合の先例となったのであります。
3 さらに、ここで公明党の性格について、はっきりしておきたいことがあります。
いろいろな席でこれまでにも申し上げましたが、あくまでも公明党は宗教政党であります。その例として、現代のヨーロッパでも、西ドイツのキリスト教民主同盟などがあげられます。しかし、これらの政党は、たんに愛とか、福音とかいう抽象的なものしか政治に反映させることはできません。これに対し日蓮大聖人の仏法は、大生命哲学を根幹として、政治、経済、科学、芸術、教育等、あらゆる面についての原理が含まれております。
「無量義は一法より生ず」「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」の経文に明らかなごとく、いっさいを指導しきっていくべき原理は、仏法の骨髄たる妙法以外にありません。それをもった公明党のみが、真実にして、唯一の宗教政党なりと主張するものであります。これこそ、二十世紀の世界が要望する新政党であり、最高に革新的な政党を意味するものであります。
ゆえに、創価学会を離れて公明党はありえません。もしあるとすれば、既成政党となんら変わることなく、政治のための政治に堕することは必然であります。
されば、永久に創価学会と公明党は、一体不二の関係で進んでいこうではありませんか。いまや、学会の世帯数は五百万世帯をはるかに越えております。
次に、重ねて信教の自由について論ずるならば、われわれはあくまで憲法第二十条の「信教の自由」を堅持する立場を明らかにしておきたいと思う。
すなわち、憲法第二十条第一項には「信教の自由は何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」と規定されている。
これに対し、邪智謗法の輩は、学会の進出を恐れ、自由を侵害するのではないかという風評を流しております。
まととに愚かな盲評であります。信教の自由について、ある憲法学者は、次のようにいっております。
「それは、まず内心における宗教上の信仰の自由を意味する。これは、思想および良心の自由(同第十九条)の一部とも考えられる。ある特定の宗教を信ずる自由、その信仰を変える自由、および、すべて宗教を信じない自由がこれに含まれるであろう」また「宗教上の信仰を外部に発表する自由」であり「宗教を宣伝する自由」であり「宗教行為の自由」を意味するといっているのであります。
しかるに、学会の折伏をば、信仰の強制であるかのごとく思い、憲法違反の疑いがあるなどというのは、大いなる偏見であります。
宗教上の信仰を外部に発表し、あるいは、宗教を宣伝する自由とは、折伏の自由を規定したものでなくて、なんでありましょうか。
いわんや、日蓮正宗、創価学会の歴史は、弾圧と迫害の連続でありました。信教の自由の実現を、だれよりも強く望んだのは、日蓮正宗であり、創価学会であります。
政治権力の介入をうけぬ、自由の立ち場になって、初めて大折伏を青天白日のもとに展開し、今日の学会があるという、この厳然たる事実こそ、日蓮正宗、創価学会が最高唯一の正しき宗教であることの、なによりの証拠なりと訴えるものであります。
4 次に「国から特権を受け」うんぬんの項についても、創価学会は、今日までなんらの特権をうけたこともないし、将来ともにその必要を認めない。国から特権をうけた宗教が、いかに堕落し、力なき宗教であったかは、歴史がよく物語るところであります。
宗教の勝劣は、あくまで宗教の広場において決せられるべきであり、最高の宗教に、その時代の民衆が帰依するのが、正しいありかたであることはいうまでもありません。
日蓮大聖人の仏法は、永遠に全民衆を救い切る大宗教であることをここに断言しておきます。
いわんや国教化など、なんの必要があるだろうかといいたい。
さらに、かつて社会党の河上委員長は「宗教団体が政治活動に介入するのは、憲法違反の疑いがある」と批判しました。とんでもない見当はずれであり、躍進する公明党に対する怨嫉以外のなにものでもありません。
もし、各種団体の政治活動がいけないというならば、総評の社会党支持、遺族会や日本医師会の自民党支持も憲法違反であります。それが宗教団体に限るというならば、憲法の何条に該当するか、明らかにすべきであります。
仮に第二十条の「政治権力の行使をしてはならない」の項であれば、ここでいう「政治上の権力」とは、立法権、課税権、裁判権など、現在、国および地方公共団体がもっている統治権をさしていることは、すでにゆるぎない定説となっているのであります。
したがって、創価学会が、いつこれらの権力を行使したかと反問したい。
それを宗教団体が、政治活動はできないと読むならば、それこそ憲法違反と思うのであります。
まして、創価学会が公明党を結成して、政治活動を行なうことは、時代の先端を行く正しいありかたであって、もっとも理想的な民主主義の実践であると断言するものであります。
いずれにしても、われわれは、大仏法を奉じ、前代未聞の王仏冥合の大改革を成し遂げていくのですから、仏法哲理を深く身につけ、確信をもって、明るく、楽しい前進をしきっていこうではありませんか。