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日蓮大聖人・池田大作

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第4章 父と母妻と夫  

「21世紀への母と子を語る」(池田大作全集第62巻)

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1  使命を自覚すれば力がわいてくる
 平川 今、全国各地で、池田先生の平和行動を紹介するテレビ番組(『人間・池田大作』)が放映されていて、反響を呼んでいます。
 藤野 私も拝見しました。
 先生が、中国の周恩来首相や、旧ソ連のコスイギン首相、ゴルバチョフ大統領など、世界の指導者と対話して、平和の道を開いてこられた歴史に、あらためて感動しました。
 とくに、先生と奥様が、ごいっしょにインタビューに答えられている姿が、とてもさわやかで印象的でした。
 池田 的確な質問をされるインタビュアーの方のおかげでしょう。いつもと同じように、ありのままにお話しいたしました。
 平川 番組の中で、アメリカSGIの草創期を開拓されてきたご婦人が、先生のアメリカ初訪問(一九六〇年)の様子を語っていました。
 当時は、アメリカ人の男性と結婚し、日本からアメリカにやってきた方が多かったようですね。皆さん、慣れない異国での生活に疲れ、未来への希望を失いかけておられました。
 そのような方々に、池田先生は、ごく身近な、そしてとても大切な三つのアドバイスをされました。「英語を覚えること」「運転免許を取ること」「市民権を得ること」の三つです。
 今はとても幸福そうな、一人のメンバーが当時を振り返って話されました。
 「とうてい無理だと思いました。英語の習得には、ものすごく時間がかかります。また、英語が話せないのに、どうやって運転免許を取ることができるでしょう。
 ましてやアメリカの市民になんて、なりたくありませんでした。とにかく、日本に帰りたかった……。
 本当に大きな目標でした。けれども先生は、アメリカ人として生きていくための『希望』を与えてくれました。
 この三つの目標のおかげで、私たちは、この土地で、幸せに暮らし、アメリカ社会に溶け込めるようになったのです」
 藤野 とても印象的なシーンでした。言葉を詰まらせ、涙をためながら、一語一語、話される姿を見て、私も涙があふれてきました。
 これが創価学会なんだな、としみじみ思いました。池田先生に励まされて、涙を振り払って立ち上がり、生き抜いてこられた方々のすばらしい人生に胸を打たれました。
 池田 みんな、見事に勝利したね。本当に、よく頑張った。立派なアメリカ市民として社会に貢献し、“アメリカ広布の母”となりました。
 言葉が通じない。習慣も違う。頼れる親や、親類、友人もいない――そうした困難のなかで、「日本に帰りたい」「この苦しみから逃げ出したい」と思ったのも、無理のないことでしょう。
 しかし、妙法をたもった女性に、感傷はいらないのです。勇気です。臆病であっては、何もできない。
 一人ひとり、使命があって、アメリカという天地にやってきたのです。仏法に意味のないことはありません。
 「愚痴」を「決意」に、「悲哀」を「歓喜」に、「絶望」を「希望」に変えていくのが仏法です。
 「なぜ私は、こんなところにいるんだろう?」
 「なぜ、こんなに苦しまなければいけないんだろう?」――そうやって、いくら嘆いても、何も変わらない。
 「ここで自分は人間革命してみせる!」「私は使命があって、ここにいるんだ!」と、前向きに「使命」を自覚すれば、力がわいてくる。光が見えてくるのです。
 藤野 先生は、小説『新・人間革命』第一巻の「新世界」の章に、当時の模様を綴ってくださいましたが、ちょうどそれが「聖教新聞」に連載されていた頃、私は、その舞台となったサンフランシスコに行きました。登場人物の方にも会いました。
 皆さん、口をそろえて、「池田先生は小説にああやって書かれているけど、本当の先生の戦いは、もっともっと、すごかったですよ。小説に書かれている、一〇倍、二〇倍でしたよ」と、言っておられました。
 平川 心細い環境で生活していた皆さんにとって、先生の励ましや、同志がいるということは、本当に心強かったでしょうね。
2  ”孤独な育児”で悩むケースが増加
 藤野 今の日本では、そういう支え合いがなくなってきています。親元を離れ、結婚し、新しい環境で生活を始めた若いお母さんたちにしても、“孤独な育児”で悩むケースがふえています。
 地域の方々との付き合いもなく、相談したり、悩みを語り合ったりできる友だちがいない。また、頼みの夫に相談しても真剣に応じてくれない――そんななかで、“一人ぼっち”で苦しんでいる方も多いのです。
 平川 そんな孤独が、お母さんを心理的に追いつめてしまい、ストレスを子どもにぶつけてしまうこともあるようですね。
 最近、子どもを虐待する痛ましい事件が多発しているように感じられてなりません。子どもを命がけで守るべき母親が、子どもを虐待してしまう。母子の関係に、何か大きなひずみが生じているのではないでしょうか。
 先日、新聞で報道されていましたが、全国の児童相談所に寄せられた児童虐待の相談件数が、一九九〇年から九七年までの間に、ほぼ五倍に膨れ上がり、年間で五〇〇〇件を超えるまでになりました。
 事件になったり、相談に来られる方は全体のごく一部で、実際にはもっとたくさんの児童虐待が起こっていると思われます。
 お母さん自身、「いけない」とは分かっていながら、気がつくと、子どもをひどい目にあわせているということもあるようです。
 池田 子どもにとっても、親にとっても、深刻な問題だね。
 平川 こんなケースもあるそうです。
 ある母親は、子ども時代、自分の母親に抱かれた記憶も、優しい言葉をかけられた記憶もなかったそうです。そして大人になり、結婚し、出産します。
 いざ子どもを産むと、彼女は自分自身に驚きました。「子どもに、どう接していいか分からない」自分に気づいたのです。
 子どもに泣かれるとパニックになり、虐待を繰り返したそうです。
 藤野 やはり、親自身が、子どもの頃、どう育てられたかに関係があるんでしょうね。
 池田 その影響は、大いにあるでしょう。だからこそ、その“連鎖”を自分のところで断ち切らなくてはいけない。
 ただし、子どもの頃に虐待された人が、親になって必ずわが子を虐待するなどと、単純に論じられる問題ではありません。さまざまな角度から分析し、考えていく必要があると思います。
 子ども時代に受けた心の傷は、簡単には消えないものですが、その傷を癒すのも、人間のいたわりであり、愛情です。
 しかし今は、愛情にあふれた「癒しの場」がなくなってきている。家族でも、学校でも、地域社会でも、愛情が不足している。
 希薄化した人間関係や、今起きているさまざまな問題も、「愛情欠乏症候群」と言っていいのではないでしょうか。
3  人に尽くした分だけ自分も守られる
 平川 温かな学会家族の世界は、本当にありがたいと思います。
 池田 創価学会のリーダーは、「愛情」がなくてはならない。
 どれだけ人を励ましたか、どれだけ友の嘆きに耳を傾けたか、どれだけ人に希望を与えたか、それこそが、私たちの勲章です。学会の運動は、一人ひとりに人間愛の種を植えていく蘇生運動です。
 人に尽くした分だけ、自分もまた守られていく。日蓮大聖人の御書に「諸天善神等・男女と顕れて法華経の行者を供養す可し」とあります。つまり、諸天といっても、身近な人々が支え、守ってくれるということなのです。
4  “この子が笑う顔をみて勇気がわいた”
 藤野 白樺会と白樺グループ(創価学会の看護婦のグループ)の看護体験集『生命みつめて』(第三文明社)の中に、こんなエピソードがありました。
 わずか六カ月半で、五七六グラムの未熟児として生まれたMくんが、白樺グループの藤井理佳さんが勤務していた小児科・未熟児室にやってきました。
 藤井さんの心配は、入院が長引くにつれ、お母さんの足が赤ちゃんから遠のいていったことです。
 ある時、やっと面会に来てくれたお母さんに、タオルにくるまれた赤ちゃんを抱いてもらうと、「こんなに小さいんじゃ、怖いわ」と不安を口にし、「もう、保育器に戻してあげてください」と手を離しました。
 平川 未熟児の場合は、長い間、離ればなれになるので、わが子に対して自然な愛情がわかなくなることがあるそうですね。
 そのお母さんも、赤ちゃんに対して申し訳ないという思いや、これからの心配や不安など、複雑な気持ちで、いっぱいだったのではないでしょうか。
 藤野 藤井さんは「今のままではMくんも、お母さんもかわいそうだ」と、真剣に祈りました。スタッフとも検討を重ね、毎日、ノートにMくんの様子を書き、面会日に来られた時、お母さんに見てもらうようにしました。
 次第に、お母さんが面会に来る回数もふえてきます。
 藤井さんは、そのたびに、「お母さんが笑顔で話しかけてあげることが、一番うれしいんですよ」と声をかけ続けました。
 そうしたある日、お母さんが、保育器のガラス越しに、赤ちゃんに向かって“いないいないバアー”をしたのです。赤ちゃんは声を立てて、うれしそうに笑っています。すると、お母さんの目から、大粒の涙があふれ出しました。お母さんは、目を真っ赤にして、涙を流しながら、何度も何度もあやしていました。
 そして、生後八カ月でとうとう退院。Mくんを腕に抱きながら、お母さんは言いました。
 「こんなに小さく生まれてきたこの子を見るたびに、不安で、面会にも怖くてこれなかったんです。でも、藤井さんたちが、いつも、様子を教えてくれて、また、あの日、この子が笑う顔を見て、いっしょに頑張っていこうと勇気がわいてきました」と。
 池田 白樺の友の真心が、閉じかけたお母さんの心を優しく開いていったんだね。
 親と子には、不思議な縁がある。目に見えない、深い生命のつながりがあるのです。「産みの苦しみ」という言葉がありますが、親となるためにも、乗り越えなければならない苦しみがある。
 最初から立派なお母さんなどいません。実際の子どもとの触れ合い、心の交流を通じて、愛情は深く育まれていくものです。
 だから、焦ったりせずに、じっくりと時間をかけて子どもを見つめ、かかわっていけばよい。あまり神経質になって、周りと比べたりする必要はありません。
 藤野 若いお母さんが子どもを育てていくうえで、いろんな不安や心配ごとにぶつかります。
 もちろん周囲の支援は必要ですが、何といっても夫の理解と支えほど心強いものはないのではないでしょうか。夫婦の支え合いは、とても大事ですね。
5  夫婦のあり方が子どもの成長にも影響 
 池田 夫婦の関係は、家族の人間関係の基本です。軸であり、柱です。
 夫婦のあり方が、子どもの成長にも大きな影響を及ぼします。
 平川 私は、先ほどのテレビ番組の中で、池田先生の奥様がインタビューで語っておられたお話に感動しました。
 先生が第三代会長に就任された日、奥様が「今日は、池田家のお葬式です」と言われた心境について、「子どものことも、家族のことも、全部、私がやりますから。あなたは、重要な会長職に専念してください」との気持ちだったと。
 以来、常にごいっしょに歩んでこられたご苦労を思うと、胸がいっぱいになりました。
 池田 創価学会の会長というものが、どれほどの重い責任を担うことか、戸田先生の姿を見ていた妻は、よく分かっていたと思います。
 そして私もまた、戸田先生の後を継いで、全生命を学会に捧げようと決意していました。皆の幸福のためなら、喜んで犠牲になろうと心に決めていました。また、事実のうえで、そのようにしてまいりました。
 妻は、同じ思いを分かち合ってくれました。戸田先生の弟子として、広宣流布の同志として、ともに生き抜いてきた私たちには、悔いはありません。
 藤野 池田先生と奥様の、半世紀にもわたる激闘に心から感謝いたします。
 わが家は、夫も私も外出の機会が多く、帰る時間がまちまちでした。それで、「夫婦らくがき帳」をつくりました。
 そこに伝言や、お互いの近況、時にはグチや文句も書かせてもらいました。(笑い)
 夫は長男なのですが、かつて、寝たきりの義母の介護で悩んでいた時、「娘は、絶対に、長男のところに嫁にやらない!」と(笑い)、私が書けば、夫は、「もっと、境涯を高めるように」と書いてありました。(笑い)
 池田 夫婦が忙しい場合、お互いにコミュニケーションを図っていくために「工夫」や「知恵」は必要だね。
 信仰者とは、特別な人間になることではない。立派な社会人として働き、「よき父」「よき夫」として、「よき母」「よき妻」として、誠実に生き抜いていくことです。
 現実の生活、家庭という足下をおろそかにして、いくら立派な理想論を振りかざしても、なんの説得力もない。
 夫婦は、お互いに相手を理解していこうという努力が大切でしょう。そのためには、日頃のちょっとした心遣いが大事だね。
 平川 以前、池田先生が埼玉で、夏目漱石の小説『道草』をとおして、夫婦の心の機微について教えてくださったことがあります。
 夏目漱石の自伝的作品と言われる小説ですが、漱石の分身とも言える「健三」と、その妻の「お住」が登場します。
 ある時、健三が、少しでも家計の足しにしようと、今で言うアルバイトをしていました。そして、稼いだ給金が入った封筒を、畳の上に放り出します。お住は、別段、うれしい顔もせずにそれを受け取りました。
 漱石は、二人の心理を次のように書いています。
 お住は「若し夫が優しい言葉に添えて、それを渡してくれたなら、きっと嬉しい顔をすることが出来たろうにと思った」。
 一方、健三は「若し細君が嬉しそうにそれを受取ってくれたら優しい言葉も掛けられたろうにと考えた」。
 藤野 お住と健三の気持ちが、私にも、本当によく分かります。(笑い)
 私も、ちょっとした一言なのに、その一言が言えないということが、よくあります。
 平川 本当にそうですよね。私も、そのことで、池田先生から指導していただきました。
 “帰りが遅くなったときなど、「遅くなってごめんね」と優しく一言言えば、ご主人とお子さんは、抱き合って喜ぶんだよ。外では、強くてもいいけど、家では優しくね”と。(笑い)
 池田 そうだったね。(笑い)
 どこの家も同じかもしれない。
 家の玄関の前までは、一言、優しい言葉をかけてあげようと思っている。
 でも、いざ、家の中に入り、子どもの顔を見ると、口をついて出てくる言葉は「こんなに散らかして!」「宿題は!」。(笑い)
 お母さんは、ふだんは囗うるさくてもいいけれど、子どもの成長にとって節目と思われる時は、子どもに優しくしてあげるのです。そういう思い出は、子どもも決して忘れないものです。
 平川 よく分かりました。
 息子たちが小さいうちは、できるだけ淋しい思いをさせないようにと、必ず、「今日は、○○に行って来ます」などとメモを残して、出かけるようにしていました。
 藤野 わが家でも、娘たちに留守番を頼むことが多かったですね。家には、寝たきりの“ミセス・ベッド”のおばあちゃんがいますし、二人は大変だったと思います。
 感謝してはいるのですが、つい当たり前のようになってしまって……。
 ある時、娘から「お母さんは、『じゃあ、頼むね』と言って、家を出たら別世界だろうけど、私は、おばあちゃんのことや、火事に気をつけたり、お客さんが来たらどうしようかとか、いろいろ責任を感じてたのよ。そういうことを、お母さんは全然、分かっていない!」と言われて、すごく反省したことがあります。
6  周総理夫妻の八つの取り決め
 池田 娘さんは、大きな心ですべてを受け止め、ずっと我慢していたのだろうね。それが、ちょっとしたきっかけで表に出てくることがある。
 人の心というのは、思っている以上に繊細なものです。微妙な心の動きが、すべてを大きく変えていく。
 その「心」に、どう気づき、思いやり、いい方向へ、皆が幸福になる方向へと持っていくか。現実生活のなかで、そういう知恵を発揮していくのが仏法の人間学です。
 夫婦であれ、親子であれ、たとえ、ささいなことでも、「ありがとう」とか、「ごめんなさい」とか、言葉に出して表現していくのです。
 小さなことのようだが、そうした小事の積み重ねが、大きなことにつながっていく。「小事」が「大事」です。
 また、こちら側の考えを一方的に押しつけるのではなく、相手の立場や考えをよく理解したうえでの言葉遣いや振る舞いを心がけることです。
 ところで、「模範夫婦」といえば、お隣の中国の周恩来総理と鄧穎超夫人のお二人を思い出します。
 藤野 たしか今年(一九九九年)は、創価大学に「周夫婦桜」が植樹されてから、二〇周年とうかがいました。
 池田 そうです。
 中国だけでなく、国際的にも尊敬を集め、「模範夫婦」と謳われたお二人です。
 ともに、革命の同志として、中国人民のために尊い生涯を捧げられた。
 そんなお二人ですから、若い人たちから結婚生活についてのアドバイスを求められることも多かったという。
 のちに、自分たちの経験をもとに「八互原則」――つまり「八つの互いの取り決め」というのをつくられ、若い人たちに教えたそうです。
 西園寺一晃氏が著書の中で紹介されています。(『鄧穎超 妻として同志として』潮出版社)
 平川 どういったものですか。
 池田 まず第一に「互愛」――互いに愛し合うこと。これが基本です。
 第二に「互敬」――互いに尊敬し合うこと。新婚の頃は守られても、時間がたつにつれ、なかなかできなくなる。とくに人前では注意しなくてはいけないとされていた。
 第三に「互勉」――互いに励まし合うことです。
 第四に「互慰」――互いに慰め合うこと。つらいこと、不愉快なことがあった時は、相手の気持ちを理解し、温かく接する。こういう時は相手を責めたり、感情を傷つけたりしてはいけないと言われている。
 第五に「互譲」――互いに譲り合うことです。意見の相違や感情的な対立があっても、譲り合う気持ちがあれば、解決は早い。長引けば、感情的なしこりが残ってしまう。
 第六番目は、「互諒」――互いに諒解し合うことです。どちらかが誤りを犯しても、それを責めるのでなく、諒解し、許し合うことです。
 第七は「互助」――互いに助け合うこと。
 そして第八は「互学」――謙虚になって、互いに学び合うことです。
 鄧穎超さんは、これらのうちで「互譲」と「互諒」が最も難しい、と言われていたそうです。
7  欠点を責めず、長所を認め、讃え合う
 藤野 一つひとつが「なるほど」ということばかりですね。
 とくに「互譲」「互諒」――「譲り合う」ことと、「許し合う」ことが難しいというのは、実感としてよく分かります。
 ささいなことでけんかになり、お互いに「我」を張っているうちに、いつのまにか根深いしこりになってしまう、ということがありますね。どちらかが譲れば、そんな大きな問題にならないのに……。
 平川 「自分は悪くない! 悪いのはあっちのほうだ!」と思っているんですよね。(笑い)
 向こうが先に「ごめんね。自分が悪かったよ」と言ってくれれば、「私も悪かったわ」と、素直に言えるのですが。
 池田 お互いに、そう思っていてはしょうがないね。(笑い)
 周総理夫妻の「八互原則」でいえば、先に譲り、許したほうが境涯が高いのです。
 相手が、怒っていても、「これだけ元気なら、当分、倒れないな」(笑い)というぐらいの大らかな気持ちで、賢明に家庭を操縦していくのです。
 人間、だれしも欠点はある。その欠点をあげつらって、責め合っていたのでは、お互いにいやになってしまう。
 たとえ、それが「正しい」としても、いや、「正しい」からこそ、耐え難い批判というのもあるのです。家庭においては、とくにそうです。
 少しくらいの欠点や誤りは、大きな心でつつみこんで、長所を認め、讃え合っていくという、心豊かな励まし合いの家庭を築いていってほしい。
 父と母が、いつもいがみ合い、争っているようでは、子どもの心に暗い影を落としてしまう。また、どちらかのいないところで、子どもに片方の親の悪口を言うようなことも、あってはならない。
 藤野 わが家では、夫と、娘二人の仲がとてもいいんです。
 娘たちは、もう二十歳をすぎましたが、夫はいまだに帰ってくると、おみやげを娘たちに渡しています。ボールペンやケーキ、時には小さなブローチなど、それほど大したものではないのですが、それでももらうと、とても喜んでいます。
 娘たちは、「お父さんのような人と結婚したい」と言うので、私が「お父さんみたいな人は、二人といないわよ」と言うと、夫は、なんとも言えず、うれしそうな顔でした。(笑い)
8  夫の活躍も妻の力によって決まる
 池田 微笑ましいね。明るい家庭をつくっていくうえで、やはり重要なのは、女性の役割だと思う。
 日蓮大聖人の有名な御文だが、「のはしる事は弓のちから・くものゆくことはりうのちから、をとこのしわざはのちからなり」という一節があります。
 つまり、矢が走るのは、弓の力であり、雲がゆくのは、竜の力である 同じように、夫の活躍も妻の力によって決まる――ということです。
 当時の社会の文化、習慣をふまえての御言葉ですが、夫婦の一つの理想的なあり方を、言い当てておられます。
 平川 富木常忍の妻である尼御前に宛てたお手紙だったでしょうか。
 池田 そう。当時、尼御前は病気でした。彼女は、常忍の母をずっと看病し続けてきた。今で言えば、「介護」です。常忍のお母さんは、寿命を全うして亡くなるが、こんどは、尼御前が病気になってしまう。その原因は、介護疲れもあったかもしれない。
 大聖人は、ただちに筆を執られ、尼御前への激励のお手紙を富木常忍に託す――。
 先ほどの言葉の後、「今、富木殿が、こうしてここに来ているのは、尼御前のお力ですよ。富木殿にお会いしていると、尼御前にお会いしているようですよ」と、真心こもる言葉を続けておられる。
 さらに、「“このたび母上が亡くなったことは悲しい。しかし、その臨終の姿がよかったことと、尼御前が手厚く看病してくれたことのうれしさは、いつの世までも忘れられない”と、富木殿が大変に喜んでおりました」と、常忍に代わって、尼御前に感謝し、讃えておられるのです。
 男であり、武士であった富木常忍が、なかなか感謝の心を奥さんに言えないでいるのを、大聖人が代わりに言ってあげたのかもしれない。
9  子どもたちが未来の事業を引き継ぐ
 藤野 尼御前は、本当にうれしかったでしょうね。
 以前、私も、実母が手術することになった時、池田先生に報告のお手紙を出しました。すると、すぐさま先生から伝言をいただきました。
 「二人のお母さんの面倒を見たのだから、あなたは生々世々、子どもに守られます。
 太陽のような気持ちで、暗くならずに頑張りなさい」と。
 義母の介護や、さまざまな苦労もありましたが、「先生は、すべて分かってくださっている!」と思うと、心から安心し、力がわいてきました。
 池田 それは、よかった。皆さんのように、子育てや介護に奮闘しながら、社会のため、人々のために働いている方々の力になれれば、これほどうれしいことはありません。
 平川 若いお母さん方も、本当に忙しいなか、頑張っています。ただ、なかには、「時々、育児が煩わしく感じることがあります」と、正直に胸の内を語ってくださる方もいます。
 一般的にも、「自分らしく自由に生きたいので、子どもは、ほしくない」と考えている女性もふえているようですが。
 池田 なるほど。そういう傾向はあるだろうね。これからの時代は、男女共同参画社会を目指すというが、子育てを支援する社会的な態勢も整えていかねばならないでしょう。
 鄧穎超さんは、ある時、「活動と育児の両立」に悩む女性から相談を受けた。
 当時は、中国建国の真っただ中であり、女性も、男性と同じく新しい社会の建設に汗を流していた。
 若い母親は、鄧女史のところへ来て、悩みをうち明ける。
 「子供なんか産むんじゃなかった」「子供の世話は大変なんです。時には病気になったり、ケガをしたり。子供の世話のことで夫婦ゲンカも絶えません。どうしたらいいかわからなくなってしまったのです」(前掲『鄧穎超』以下同じ)
 平川 その女性の悩みは、よく分かります。
 子どもがいると、思わぬ苦労をすることがあります。私も、こんなことがありました。
 私が講師になって、御書の勉強会をしていました。
 「さあ、いよいよ大事なところ……」と思ったら、突然、向こうのほうで、泣いて騒ぎ出した子どもがいます。
 近くにいる人が、困った表情で「この子のお母さん、だーれー?」。
 私の子どもでした。(笑い)すっかり寝かせつけたと思ったのに、起きてしまったんですね。
 おかげで御書講義も、中断せざるをえなくなりました。
 これなどまだ序の口で、私のほうが泣き出したいような場面も多々ありました。
 池田 それは大変だったね。でも、いいところで中断したから、かえって皆、続きが楽しみになったかもしれないよ。(笑い)
 鄧女史の話ですが、若いお母さんの悩みに、じっくりと耳を傾けた女史は、さとすように、優しく、こう語りかけた。
 「あなたの困難はよくわかるわ。でもね、まず精神的に負けてはだめよ」
 「特に母親の負担は大きいのよね。大変だけど、だからこそ女性は強い、すばらしいと思うわ」
 「私たちのこの偉大な事業は次の世代、その次の世代へと引き継いでゆかなくてはならないわ。
 そのためには次の世代を担う若い人たち、そしてその次を担う子供たちが立派に育たなければならないのよ。
 子供は宝よ。あなたの宝でもあるし、私の宝でもあるの」
 「要するに、子供の世話、教育などは前向きに考えるべきよ。負担ではなく、光栄な任務なの。
 この子たちが成長し、立派になり、私たちの未来の事業を引き継いでくれる。考えただけでわくわくするでしょう。後継者を育てない革命は途中で必ず挫折してしまうわ」
 藤野 池田先生が、いつも私たちに、おっしゃってくださるのと、まったく同じですね。
10  親の懸命な姿そのものが最高の“遺産”
 平川 思えば私は、小学生の時に父を亡くし、母も病弱だったので、鼓笛隊をはじめ、学会家族のおかげで、育てていただいたと思っています。
 家族にとっても心の支えだった祖母が亡くなったのは、私が高校二年生の時でした。
 祖母はこう遺言して、亡くなっていきました。
 「よっちゃんに、何も残してあげられなくて、ごめんね。だけど信心だけは残していくよ。何があっても、創価学会と池田先生についていきなさい。そうすれば、必ず、幸せになれるよ」
 「学会と共に。先生と共に」――これが私にとって、つらい人生を生き抜く希望の光でした。いつも、この心で、生き抜いてきました。
 おかげさまで、昔は笑わない、少し暗い子でしたが、今は「いつも笑ってばかり」の幸せな境涯になりました。(笑い)
 池田 立派なおばあさんだね。
 牧口先生が、「生涯で最も感銘を受けた」という言葉がある。
 それは、ノーベルの「遺産は相続することが出来るが、幸福は相続する事は出来ぬ」という言葉でした。
 牧口先生は、これは、「幸福と財産の不一致を喝破」したものであると意義づけられました(『創価教育学体系』第一巻「教育目的論」)。
 いくら財産を残しても、それで子どもが幸福になるとは限らない。かえって、不幸にしてしまう場合だってある。
 親が信念を貫き、懸命に生き抜いた姿そのものが、最高の“遺産”です。
 私どもでいえば、わが子に信心を教え、広布の立派な後継者に、そして社会に貢献しゆく力ある人材に育てていくことが、永遠に尽きることのない、不滅の財宝を遺してあげることになるのです。

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