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日蓮大聖人・池田大作

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上田平和会館を初訪問 三世に輝く正法弘通の歴史

1986.8.11 「広布と人生を語る」第10巻

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1  私どもは、広布のために歴史をつくろうと、日々、活動している。その一人ひとりの活動は、微々たるものでしかないと思えるかもしれない。しかし、その功績と広布の活動の歴史は時とともに、かならず輝きを増していくものである。
 七百年前、日蓮大聖人は、末法の民衆の成仏のために、難を忍び大法を弘通された。そして、そのもとで富木常忍、四条金吾、南条時光らの門下も広布のために戦った。そうした門下の活躍は、いまや世界の多くの妙法の友の知るところである。それと同じように、皆さま方の信心と広布の活動は、各人の生命に深く功徳として刻まれていくとともに、後世になって、後輩や子孫によって”ああ、わが父、母は、かくも立派に広布のために活動したのか””このようなすばらしい歴史をつくってくれたのか”と、かならずやたたえられるようになるにちがいない。
 一般世間での功績は、時とともに消えていくことが多いものだ。しかし、仏法の世界にあっては、そのときは平凡にしてささいのようにみえても、時とともに深い歴史と輝きを増していくのである。これが仏法の不思議な方程式である。
2  この上田平和会館のそばを千曲川が流れている。千曲川といえば、私は若き日によく口ずさんだ、島崎藤村の詩「千曲川旅情のうた」を思い起こす。千曲川の名には、心をなごませる豊かな詩情がある。こうした詩情にひたることも、精神的にはひじょうに大事なことである。
 しかし、今はその千曲川の土手にも、車が騒音をたてながらひっきりなしに走っている。私は今日、この地に来て、豊かな旅情とともに、人々の生活のための激しい競争の響きとを感じている。これが現実である。旅情に憩うことも大切だが、激しい生存競争にある現実も忘れてはならない。
 信心にあっても、ただ信心の活動だけにいそしんでいればよいというものではない。厳しい現実社会のなかで生きぬいていくことをいいかげんにしてはならない。信心即生活、仏法即社会であり、現実の社会と生活に取り組んでいく努力を忘れることは、ほんとうの信心のあり方ではないからである。偉大な妙法の信心を生活のエネルギー源として、厳しい現実社会のなかで、信心即生活のみごとな実証を輝かせていく一人ひとりであっていただきたい。
3  厳寒の冬も暑い夏も、弘教と信心の活動に励んでこられた皆さま方のお力によって、いまや上田広布の盤石なる基盤が築かれた。そして上田の地には、あたかも千曲川の川面がキラキラと光るように、じつに多彩な広布の人材が輝いている。まさに、広布と信心の縮図ともいえる模範の地を築きあげられたといってよい。御本仏日蓮大聖人もかならずやお喜びになられ、またおほめくださっているものと確信してやまない。
 どうか本日お会いできない上田の同志の方々にも、くれぐれもよろしくお伝えいただきたい。
4  上田市は、私にとっては今回が初訪問であるが、昭和十一年二月に、牧口初代会長がこの地を訪れ、座談会に出席されている。本年は、それから満五十年を迎える。その意義からも、ここで上田の広布史を確認しておきたい。
 戦後の広布の一粒種として松沢繁雄・久代さんご夫妻が入信したのは昭和二十六年七月であった。昭和三十五年十一月、長野支部とともに、そのもとに上田地区が結成された。その折、妻の久代さんは、初代地区担当員に就任し、昭和四十六年に亡くなるまで、地域の先駆者として弘教に邁進されている。また、このとき初代地区部長であった故西沢永次さんは、のちに支部長、総支部長も歴任された。
 さらに昭和三十六年九月には、上田地区から分割し、上田南地区が発足。初代地区部長・担当員は小出栄重・乙女さんご夫妻であった。おふたりとも故人となられたが、現在、娘さんが支部婦人部長として活躍されていることは、うれしいかぎりである。
 そして同年、上田支部が誕生。以来、押金健吾・ツナさんご夫妻、松野信輔・薫さんご夫妻、宮尾和夫・息子さんご夫妻、斎藤君登・よし子さんご夫妻、柳沢寛さんをはじめ多くの功労者の健闘により、今日の発展が築かれてきたわけである。
5  牧口初代会長の不滅の足跡
 牧口先生の長野県での弘教は、昭和十一年二月八日から約一週間行われた。上諏訪町、伊那町、松本市、長野市、上田市の五か所で座談会を開催、十七人が入信したと記録にある。当時、先生は六十四歳。三人の青年会員を伴われての広布の旅路であった。また、その途次、伊那町では、信盛寺に細井尊師(のちの総本山第六十六世日達上人)を訪ねておられる。
 牧口先生が長野の地に、広布の不滅の歴史をしるされた昭和十一年二月といえば、かの「二・二六事件」が勃発した時である。雪の東京には戒厳令が敷かれ、こののち軍部の横暴は抑えようもなく、わが国は全面的な日中戦争へと突入していった。そして五年後の昭和十六年、太平洋戦争が始まり、本格的な暗黒時代に入っていくわけである。
 こうした時流のさなか、昭和十八年七月、創価学会への弾圧が行われ、”治安維持法違反”ならびに”神社に対する不敬罪”により、牧口会長、戸田理事長以下、幹部二十一人が逮捕され、組織は崩壊した。ときに牧口会長七十二歳、戸田理事長四十三歳であった。
 そして約一年半たった昭和十九年十一月十八日、牧口先生は獄死され、戸田先生は翌二十年七月三日に、豊多摩刑務所を出獄されている。
6  私が深い感銘を受けたのは、獄中にあった牧口先生が、取り調べの検事や看守に対しても折伏されていたという事実である。これは容易にできることではない。信仰者の、ひとつの真髄の姿がそこにあったといえよう。
 国家権力の弾圧に屈することなく、勇気ある弘教を死を賭して貫かれた牧口先生――。今日の創価学会の大発展の姿も、因果倶時の法理からすれば、この初代会長の不惜身命の弘教による大功徳であるとみることができると、私には思えてならない。
7  牧口先生は、獄中書簡のなかで「独房で、思索が出来て、却ってよい。(中略)お互に信仰が第一です。災難と云ふても、大聖人様の九牛の一毛です、とあきらめて益々信仰を強める事です。広大無辺の大利益に暮す吾々に、欺くの如き事は決してうらめません。経文や御書にある通り必ず『毒変じて薬となる』ことは今までの経験からも後で解ります」と述べられている。
 なんと強き、信心の大確信であることか。まことに偉大なる境涯であられたのであり、その透徹した信心に深く感動せざるをえない。
 のちに戸田先生は、牧口先生の三回忌法要のさい「あなたの慈悲の広大無辺は、わたくしを牢獄まで連れて行ってくださいました」と話されている。なんと強き、師弟の契りであることか。人生における師弟の究極のあり方が、ここにあると申し上げておきたい。
8  悲劇を生んだ”満州開拓”
 長野県の現代史は”満州開拓”を抜きには語れないといわれる。というのも、”満州開拓移住””満蒙開拓青少年義勇軍”に、日本でいちばん多くの人たちを送り出したのが長野県であったからだ。したがって、その犠牲者も、他のどの県よりも多かった。この厳粛なる歴史を、近く、長野の婦人部が反戦出版に”悲劇の手記”としてまとめることになっていると聞く。
 当時は深刻な”世界恐慌”のあおりを受けて、県下の貧しい農民の生活は完全に破壊されていた。そこで農村の過剰人口を解消し、農民の負債を整理させるためにも”満州移住”が大いに奨励されたわけである。
 人々は”国家”に尽くし、一家を幸福にできるとの思いで、異国の山河へと旅立ったにちがいない。この美しい山紫水明の故郷を去る心境はいかばかりであったか。
 しかし、満州も安住の地ではなかった。そこに住んでいた中国人やモンゴル人等にとっては、日本からの移住者によって自らの耕地や家屋をきわめて安く買収され、怨嗟の念は極限まで高まっていったのである。「王道楽土」「五族協和」といった満州帝国のモットーは、実態とは遠くかけ離れたものであった。
9  また、記録からわかることだが、移住した日本人にとっても、満州”移民”とはじつは”棄民”にはかならなかった。自然環境は厳しく、病人や脱落者が相次いでも、政府は何の手だても施さなかった。そればかりでなく、戦況の悪化とともに多数の男性を召集し、主要な働き手を開拓農家から奪ったのである。
 そして、ソ連の参戦――開拓団員らの絶望的な逃走が始まる。このとき、民を防衛するはずの関東軍はまったく用をなさなかった。逃亡の途中、戦闘や病気、極度の飢えや疲労で、数多くの無季の民が亡くなったことは、歴史上、あまりに有名である。
 このことから結論としていえるのは、武力というものは、いざというときに、けっして民衆を守りはしないということである。あの悲惨な沖縄戦でも、そのことを実証している。
 長野から満州への全送出団員は約三万八百人。そのうち死者は半数の一万五千百余人にものぼる。消えがたい悲劇と屈辱の歴史を刻んでしまったといえよう。また長野県は、終戦二日前の八月十三日に、アメリカの艦上攻撃機グラマンの空襲を受け、長野駅などで死者を出している。さきほどの勤行のさいにも、全犠牲者の追善を深く祈らせていただいた。
10  庶民のための言論たれ
 この長野に、かつて一人の信念の言論人がいた。「信濃毎日新聞」の主筆であった有名な桐生悠々である。彼は”戦争とジャーナリズム”を論じるさいに、しばしば取り上げられる人物でもある。
 彼は信州の風土について、こう述べている。
 「(元来)信州は言論の国であった。信州人は人の知る如く、理智に富んだ、極めて聡明な民だから、この民の棲んでいる信州が言論の国であるに不思議はない。従って信州は私たち言論者即ち論説記者に取っては、殆ど理想的の国であった」(自伝)と。
 この指摘のとおり、信州・長野は、聡明で自立心の強い県民性のようである。芯が強く、根性がある。どこかイギリス人的なものを思わせる性格でもあるようだ。この風土にあって「言論の国」と呼ばれる正義のペンの歴史を刻んできたわけである。
11  昭和八年のこと、八月九日から三日間、東京を中心に関東地方で防空大演習が行われた。そのただなかの八月十一日、桐生主筆は「関東防空大演習を嗤う」という社説を書いたのである。
 その趣旨は、要するに”敵機が日本上空に出現する前にこそ撃退すべきである。その一点を看過し、まして空襲にそなえて防空演習をしても、意味がない”という、当時においてもしごくもっともな正論であった。
 しかし、この社説が軍部権力の怒りをかい、桐生は退社を余儀なくされたのである。是は是とし、非は非として主張する自由すらも弾圧したわけである。まことに、傲れる権力ほど怖いものはない。
 退職後、彼は名古屋に移り、月刊個人誌『他山の石』を発刊する。ここでも権力への容赦なきベンゆえに、発禁に次ぐ発禁となる。しかし、彼は死ぬまで軍部批判の筆を折らなかった。こうして彼は、当時は迫害され国賊扱いされたが、今では”抵抗の新聞人”の鑑として、歴史に名を輝かせている。
12  彼は当時の世界を「畜生道の地球」と表現しているが、それは現代も少しも変わっていないといってよいであろう。この言葉にも表れている鋭い識見と、権力との戦いを辞さない勇気は、今も多くの人々に感銘を与えずにおかない。彼は”誰のために”また”何のために”書くのかというジャーナリズムの根本命題に対する答えを、生涯の行動のうえに示したのである。
 ジャーナリズムは、”誰のためにあるのか”――あくまで民衆のためである。”何のために書くのか”蓼庶民の味方となるためである。この言論の原点を忘れたジャーナリズムは、必然的に堕落せざるをえない。
 権力を恐れ、その恵を本気で糾明することもなく、迎合につとめるジャーナリズムは、ますます権力の横暴を肥大させ、そのためにいよいよ権力を恐れるようになる。この悪循環の構図が日本の将来を危うくすることを私は強く危倶するのである。
 ともあれ、”ジャーナリズムの本道”を行った先駆者ともいうべき桐生の足跡は、現代にも、いな現代にこそ、鋭い問いを投げかけていると思う。長野で活躍した先人の立派な人生の証として、ここに紹介しておきたい。
13  信心によって修羅道を克服
 秋元御書において、謗人・謗家・謗国の三義のうち「謗国」を論じられた御文に、次の一節がある。
 「飢渇発れば其の国餓鬼道と変じ疫病重なれば其の国地獄道となる軍起れば其の国修羅道と変ず」と。
 飢饉・疫病・戦争などの災難が起これば、国中が三悪道・四悪趣の悲惨な状態となってしまうと仰せなのである。その原因となるのは妙法への謗法である。ゆえに「謗国」と仰せられるのである。
 この原理は一国のみならず、個人においても、一家においても同様である。一家の柱である主人、また夫人が信心強盛であれば、一家が天上界へ、また菩薩界へ、そして仏界へと上昇していく。逆に信心をなくしたならば、その瞬間から三悪道の方向へと堕ちていく。正法への強き信心によってこそ、永遠に崩れざる盤石な福運を築いていくことができるのである。
14  次に、祈祷抄には「人間界に戒を持たず善を修する者なければ人間界の人死して多く修羅道に生ず」と仰せである。
 戒とは、末法においての究極は妙法受持の信仰にあることはいうまでもないが、広く論ずれば、人間としての正しい生き方の基準である。人生に正しい基準をもたず、また善を修しなければ、死後には多く修羅道に生じる。また、この現実においでも修羅の生命が増えていくのである。
 そして「修羅多勢なればをごりをなして必ず天ををか」と仰せのごとく、修羅の勢いが増せば、”傲り”を増長させ、かならず諸天を侵していくのである。修羅の生命の本性は、この”傲り”にある。現代においては政治権力も傲りになろうとしている。民衆を侮蔑する一部の言論界も傲りである。また社会には他にもさまざまな”修羅の傲り”がはびこっている。
 こうした修羅の傲りが天上界を侵すということは、正しい人生を生きたいと願っている人々の生命己心の天上界、また、それと要の関係にある宇宙の諾天善神を脅かすことともいえよう。修羅の勢いを増加させたならば、その傲りによって、人々の幸せは圧迫されていくのである。
 また続けて「人間界に戒を持ちて善を修するの者・多ければ人死して必ず天に生ず、天多ければ修羅をそれをなして天ををかさず」とある。
 末法において究極の戒とは、御本尊を受持することである。また、唱題こそ極善である。正法を修行する人々が増え、広宣流布が進めば進むほど、諸天善神の働きが強まっていく。天の勢いが強ければ、傲れる修羅は恐れをなして、諸天を侵すことはできなくなる。すなわち人々の幸福生活が実現されていくのである。
 すなわち修羅の傲りに屈して後退するか、逆に強盛なる一念で題目を唱えぬき、諸天の勢いを増して修羅を抑えていくかである。この”修羅”と”天”との戦いが、広宣流布の伸展の大事な局面であり、”仏法は勝負なり”との重大な意義もここにある。
 この原理は個人においても、一家、社会、国家、世界においても、すべてに通ずる。ゆえに、私どもは、どこまでも力強く妙法を唱え、強き信念で折伏・弘教に走り、妙法広宣の大道を大きく広げきっていかなければならない。このことを申し上げ、本日の話としたい。

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