Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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祈祷抄  (2/12) 人間界に戒を持たず善を修する者なければ人間…
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されば一切の二乗界法華経の行者をまほり給はん事は疑あるべからず、あやしの畜生なんども恩をば報ずる事に候ぞかし、かりと申す鳥あり必ず母の死なんとする時孝をなす、狐は塚を跡にせず畜生猶此くの如し況や人類をや、されば王寿と云ひし者・道を行きしにうえつかれたりしに、路の辺に梅の樹あり其の実多し寿とりて食して・うへやみぬ、我れ此の梅の実を食して気力をます其の恩を報ぜずんば・あるべからずと申して衣をぬぎて梅に懸けてさりぬ、王尹と云いし者は道を行くに水に渇しぬ、河をすぐるに水を飲んで銭を河に入れて是を水の直とす、竜は必ず袈裟を懸けたる僧を守る、仏より袈裟を給て竜宮城の愛子に懸けさせて金翅鳥の難をまぬがるる故なり、金翅鳥は必ず父母孝養の者を守る、竜は須弥山を動かして金翅鳥の愛子を食す、金翅鳥は仏の教によつて父母の孝養をなす者・僧のとるさんばを須弥の頂にをきて竜の難をまぬかるる故なり、天は必ず戒を持ち善を修する者を守る、人間界に戒を持たず善を修する者なければ人間界の人死して多く修羅道に生ず、修羅多勢なればをごりをなして必ず天ををかす、人間界に戒を持ちて善を修するの者・多ければ人死して必ず天に生ず、天多ければ修羅をそれをなして天ををかさず、故に戒を持ち善を修する者をば天必ず之を守る、何に況や二乗は六凡より戒徳も勝れ智慧賢き人人なり、いかでか我が成仏を遂げたらん法華経を行ぜん人をば捨つべきや。

又一切の菩薩並に凡夫は仏にならんがために、四十余年の経経を無量劫が間・行ぜしかども仏に成る事なかりき、而るを法華経を行じて仏と成つて今十方世界におはします仏・仏の三十二相・八十種好をそなへさせ給いて九界の衆生にあをがれて、月を星の回れるがごとく須弥山を八山の回るが如く、日輪を四州の衆生の仰ぐが如く輪王を万民の仰ぐが如く、仰がれさせ給うは法華経の恩徳にあらずや、されば仏は法華経に誡めて云く「須らく復た舎利を安ずることをもちいざれ」涅槃経に云く「諸仏の師とする所所謂法なり是の故に如来恭敬供養す」等云云、法華経には我舎利を法華経に並ぶべからず、涅槃経には諸仏は法華経を恭敬供養すべしと説せ給へり、仏此


の法華経をさとりて仏に成りしかも人に説き聞かせ給はずば仏種をたたせ給ふ失あり、此の故に釈迦如来は此の娑婆世界に出でて説かんとせさせ給いしを、元品の無明と申す第六天の魔王が一切衆生の身に入つて、仏をあだみて説かせまいらせじとせしなり、所謂波瑠璃王の五百人の釈子を殺し、鴦崛摩羅が仏を追、提婆が大石を放・旃遮婆羅門女が鉢を腹にふせて仏の御子と云いし、婆羅門城には仏を入れ奉る者は五百両の金をひきき、されば道にはうばらをたて・井には糞を入れ門にはさかむきをひけり・食には毒を入れし、皆是れ仏をにくむ故に、華色比丘尼を殺し、目連は竹杖外道に殺され、迦留陀夷は馬糞に埋れし・皆仏をあだみし故なり、而れども仏さまざまの難をまぬかれて御年七十二歳、仏法を説き始められて四十二年と申せしに・中天竺・王舎城の丑寅・耆闍崛山と申す山にして、法華経を説き始められて八年まで説かせ給いて、東天竺倶尸那城・跋提河の辺にして御年八十と申せし、二月十五日の夜半に御涅槃に入らせ給いき、而りといへども御悟りをば法華経と説きをかせ給へば・此の経の文字は即釈迦如来の御魂なり、一一の文字は仏の御魂なれば此の経を行ぜん人をば釈迦如来我が御眼の如くまほり給うべし、人の身に影のそへるが・ごとく・そはせ給うらん、いかでか祈とならせ給はざるべき。

一切の菩薩は又始め華厳経より四十余年の間・仏にならんと願い給いしかども・かなはずして、法華経の方便品の略開三顕一の時「仏を求むる諸の菩薩大数八万有り、又諸の万億国の転輪聖王の至れる合掌して敬心を以て具足の道を聞かんと欲す」と願いしが、広開三顕一を聞いて「菩薩是の法を聞いて疑網皆已に断ちぬ」と説かせ給いぬ、其の後自界他方の菩薩雲の如く集り星の如く列り給いき、宝塔品の時・十方の諸仏・各各無辺の菩薩を具足して集り給いき、文殊は海より無量の菩薩を具足し、又八十万億那由佗の諸菩薩・又過八恒河沙の菩薩・地涌千界の菩薩・分別功徳品の六百八十万億那由佗恒河沙の菩薩・又千倍の菩薩・復一世界の微塵数の菩薩・復三千大千世界の微塵数の菩薩・復二千中国土の微塵数の菩薩・復小千国土の微塵数の菩薩・復四四天下の微塵数の菩薩・三四天下


二四天下・一四天下の微塵数の菩薩・復八世界微塵数の衆生・薬王品の八万四千の菩薩・妙音品の八万四千の菩薩・又四万二千の天子・普門品の八万四千・陀羅尼品の六万八千人・妙荘厳王品の八万四千人・勧発品の恒河沙等の菩薩三千大千世界微塵数等の菩薩・此れ等の菩薩を委く数へば十方世界の微塵の如し、十方世界の草木の如し、十方世界の星の如し、十方世界の雨の如し、此等は皆法華経にして仏にならせ給いて、此の三千大千世界の地上・地下・虚空の中にまします、迦葉尊者は雞足山にあり、文殊師利は清凉山にあり、地蔵菩薩は伽羅陀山にあり、観音は補陀落山にあり、弥勒菩薩は兜率天に、難陀等の無量の竜王阿修羅王は海底海畔にあり、帝釈は忉利天に梵王は有頂天に・魔醯修羅は第六の佗化天に・四天王は須弥の腰に・日月・衆星は我等が眼に見へて頂上を照し給ふ、江神・河神・山神等も皆法華経の会上の諸尊なり。

仏・法華経をとかせ給いて年数二千二百余年なり、人間こそ寿も短き故に仏をも見奉り候人も侍らぬ、天上は日数は永く寿も長ければ併ながら仏をおがみ法華経を聴聞せる天人かぎり多くおはするなり人間の五十年は四王天の一日一夜なり、此れ一日一夜をはじめとして三十日は一月十二月は一年にして五百歳なり、されば人間の二千二百余年は四王天の四十四日なり、されば日月並びに毘沙門天王は仏におくれたてまつりて・四十四日いまだ二月にたらず、帝釈・梵天なんどは仏におくれ奉りて一月一時にもすきず、わづかの間に・いかでか仏前の御誓並びに自身成仏の御経の恩をばわすれて、法華経の行者をば捨てさせ給うべきなんど思いつらぬれば・たのもしき事なり、されば法華経の行者の祈る祈は響の音に応ずるがごとし・影の体にそえるがごとし、すめる水に月のうつるがごとし・方諸の水をまねくがごとし・磁石の鉄をすうがごとし・琥珀の塵をとるがごとし、あきらかなる鏡の物の色をうかぶるがごとし・世間の法には我がおもはざる事も父母・主君・師匠・妻子をろかならぬ友なんどの申す事は恥ある者は意には・あはざれども名利をもうしなひ、寿ともなる事も侍るぞかし、何に況や我が心から