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日蓮大聖人・池田大作

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上田平和会館を初訪問 三世に輝く正法弘通の歴史

1986.8.11 「広布と人生を語る」第10巻

前後
14  次に、祈祷抄には「人間界に戒を持たず善を修する者なければ人間界の人死して多く修羅道に生ず」と仰せである。
 戒とは、末法においての究極は妙法受持の信仰にあることはいうまでもないが、広く論ずれば、人間としての正しい生き方の基準である。人生に正しい基準をもたず、また善を修しなければ、死後には多く修羅道に生じる。また、この現実においでも修羅の生命が増えていくのである。
 そして「修羅多勢なればをごりをなして必ず天ををか」と仰せのごとく、修羅の勢いが増せば、”傲り”を増長させ、かならず諸天を侵していくのである。修羅の生命の本性は、この”傲り”にある。現代においては政治権力も傲りになろうとしている。民衆を侮蔑する一部の言論界も傲りである。また社会には他にもさまざまな”修羅の傲り”がはびこっている。
 こうした修羅の傲りが天上界を侵すということは、正しい人生を生きたいと願っている人々の生命己心の天上界、また、それと要の関係にある宇宙の諾天善神を脅かすことともいえよう。修羅の勢いを増加させたならば、その傲りによって、人々の幸せは圧迫されていくのである。
 また続けて「人間界に戒を持ちて善を修するの者・多ければ人死して必ず天に生ず、天多ければ修羅をそれをなして天ををかさず」とある。
 末法において究極の戒とは、御本尊を受持することである。また、唱題こそ極善である。正法を修行する人々が増え、広宣流布が進めば進むほど、諸天善神の働きが強まっていく。天の勢いが強ければ、傲れる修羅は恐れをなして、諸天を侵すことはできなくなる。すなわち人々の幸福生活が実現されていくのである。
 すなわち修羅の傲りに屈して後退するか、逆に強盛なる一念で題目を唱えぬき、諸天の勢いを増して修羅を抑えていくかである。この”修羅”と”天”との戦いが、広宣流布の伸展の大事な局面であり、”仏法は勝負なり”との重大な意義もここにある。
 この原理は個人においても、一家、社会、国家、世界においても、すべてに通ずる。ゆえに、私どもは、どこまでも力強く妙法を唱え、強き信念で折伏・弘教に走り、妙法広宣の大道を大きく広げきっていかなければならない。このことを申し上げ、本日の話としたい。

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