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日蓮大聖人・池田大作

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第1回和歌山県総会 宇宙本年のリズムに融合の人生を

1974.10.20 「池田大作講演集」第7巻

前後
1  皆さん、大変にしばらくでございました。お元気なお姿を拝見して、こんなにうれしいことはありません。とともに、新時代に入ってからの第一回の和歌山県総会、心からお祝い申し上げます。おめでとうございます。(大拍手)
 いままで、和歌山の皆さん方は、長いあいだ、なにか行事があるといえば、代表が電車に乗り、夜遅くまで大阪へ出掛けておられた。そういうようなパターンというものは、もう変えていかなければならない。これからは、わが和歌山県は、独自性をおおいに発揮していっていただきたい。その意味からもきょうのこの日を、皆さん方がもしよければ“和歌山県創価学会の日”と決めて、毎年こうして楽しい総会なり文化活動なりを行っていかれたらどうかと、まず提案を申し上げるしだいであります。(全員起立で賛同)
 私は、本日のこの会合を契機としまして、和歌山創価学会の発展を、心からお祈り申し上げるものであります。また、この会合には、本宗のご僧侶方、そして県下の実業界、文化各界の指導者であられる方々が、ご多忙のなかをわざわざおみえくださっておりますが、私、全員を代表して、厚く御礼申し上げるしだいでこざいます。来賓の皆さま、本日はまことにありがとうございました。(拍手)
2  宇宙リズムと悟り
 さきほどは、見事な音楽祭を展開していただき、全員のお心づくしの内容のほどを拝見し、大変にうれしい思いでありました。私はもともと音楽が好きなほうであります。だからといって、専門家からみれば、問題ではありませんが……。夜中に静かにレコードを聴くことが、しばしばございます。
 音楽のリズムというものは、不思議なものであります。なにかしら、逆らうことができない力をもっている。皆さんが演奏の最中に、私一人が、それに反対せんがために、心のなかで懸命に別のメロディーを試みようとしても、なかなかできない。
 もし、疑問をもつ人があったら実験してみてください。
 そのように音楽のリズムの世界というもののは、ただそれと同調し、心を融け合わせ、そして、その優れた音の流れの美を、しみじみ味わうことしかできないもののようであります。音の世界ということばかりではなく、リズムというものは、いかなる分野のリズムでもあれ、そのように人の心が逆らうことを不可能とする力をもっているようであります。
 自然的、または社会的な時の流れのリズム、人間の肉体のなかに潜んでいるバイオリズム、人間生命のリズム、更には宇宙のリズム――それら各種のリズムというものは、根底においては、決して人間の才覚の力では逆らえません。
 ですから、逆らおうという小細工をやめて、よき音楽に心を融け合わせて、全身全霊をあげて味わうという、その要領で、宇宙や、自然や、人間関係や、自分の生命等々のリズムを味わい、善なる心で体験的に領解したところが、仏法でいう「菩提」とも「涅槃」ともいうのではないかと、私には思えるのであります。
 どうも私には、中国の大学匠である天台大師が、止観禅法をつうじて得た“安心立命の境涯”というものには、以上申し上げた要素、つまりもろもろのリズムを融合して、味わっていたところがあるように思えてなりません。
 しかし、ただこの「体験的肯定」――すなわた「菩提」の部分だけが、人生ではないとも思う。特に現在、悪世末法という時代では、ことさらそうであります。世相や環境や、そして自分自身の物心両面の現状というものに対しては、とても肯定できないのが実情であるといってよい。
 したがって、そこにはあえて逆らい、また否定して、安心して融合できるように改良しなければならない一面が当然あります。
 この一面こそ、人間の欲求であり、煩悩・生死の一面でもあります。これらに対し、社会や環境の改良をめざせば、それはすなわち総体革命の道であり、自己自身の改良をめざせば、それは人間革命ということができる。
 とりわけ、生命の浄化、生命の強化、自己の成仏という大道をめざせば、そこのところが仏道修行というものであります。日常生活上、盛んに使用される「否定」と「肯定」ということは、意思のうえ、主観のうえでの判断なのでありますが、人生において、もしも否定作用がなければ、活力、推進力を失ってしまう。
 反対に、なんでも肯定ししていては沈滞の極におちいります。さればとて、どこまでいっても否定しっぱなしであっては、これは破壊と迷いの極におちいってしまいます。
 そこで、改良のための努力が必要となってくるわけであります。否定から肯定へと変えていく改良の努力、これは客観的な合理の路線でありますけれども、その結果として、肯定できる環境や人間関係や自分自身等をつくりあげて、そのよきリズムりと融合する。そこに金剛の般石なる肯定に値する世界――つまり「仏界」「寂光土」というものがあるわけであります。
 したがって、仏法の悟りへの過程は、いわゆる弁証法でいう「正・反・合」という言葉になぞらえていえば、否定から正しい努力、そして肯定へという「反・正・合」のかたちをとっていることを、我々は知るのであります。
 以上、やや複雑な話を申し上げてしまいましたが、新時代を開拓していく指導者として、幹部として、将来、なんらかの参考にしていただきたいと思い、申し述べさせていただきました。
3  声仏事をなす
 音楽に関連して、もう一つ別の話を申し上げてみたいと思います。
 それは「声仏事を為す之を名けて経と為す」と御書にございますが、広くみるならば、声楽ばかりでなく、楽器も含めて「経」といわれるわけであります。
 この「音楽」とか「音」というものは、書き表すこと――つまり文章にはできないという特徴があるます。ですから、釈尊の「三十二相」のうち「梵音深遠相」の一相は、書くことも、作り表すこともできないと説かれております。
 しかしながら「木画の二像の仏の前に経を置けば三十二相具足」したことになるといわれております。「法華経の文字は仏の梵音声の不可見無対色を可見有対色のかたちと・あらはしぬれば顕形の二色となれるなり、滅せる梵音声ぼんのんじょうかへつて形をあらはして文字と成つて衆生を利益するなり、人の声を出すに二つあり、一には自身は存ぜざれども人をたぶらかさむがために声をいだす是は随他意の声、自身の思を声にあらはす事ありさればこころが声とあらはるこころは心法・声は色法・心より色をあらはす、又声を聞いて心を知る色法が心法を顕すなり、色心不二なるがゆへに而二ににとあらはれて仏の御意あらはれて法華の文字となれり、文字変じて又仏の御意となる、されば法華経をよませ給はむ人は文字と思食事なかれすなわち仏の御意なり」ともございます。
 この原理にしたがいまして、私はさきほどの「音楽祭」をば、和歌山の地涌の菩薩の同志の方々の心意気、広宣流布をめざした尊い開拓精神と聴かせていただいたしだいでございます。
 また、この御書の教えるところは、妙法七字を中尊とした大御本尊を拝すれば、末法の御本仏日蓮大聖人の朗々として力強き唱題およびご説法に、直接に接しているような心境である。御本尊それ自体が、大聖人の声となる――こういう御文であります。そのように、朝晩の勤行の心の姿勢を正していったならばよいのではないかと思うのであります。
4  弘教の精神
 また、この御書、木絵二像開眼之事においては、次のようにもお示しでございます。
 「を以て之を謂わば今の木絵二像を真言師を以て之を供養すれば実仏に非ずして権仏なり権仏にも非ず形は仏に似たれども意は本の非情の草木なり、又本の非情の草木にも非ず魔なり鬼なり、真言師が邪義・印真言と成つて木絵二像の意と成れるゆへに例せば人の思変じて石と成り倶留くる黄夫石こうふせきが如し、法華を心得たる人・木絵二像を開眼供養せざれば家に主のなきに盗人ぬすびとが入り人の死するに其の身に鬼神入るが如し、今真言を以て日本の仏を供養すれば鬼入つて人の命をうばふ鬼をば奪命者といふ魔入つて功徳をうばふ魔をば奪功徳者といふ、鬼をあがむるゆへに今生には国をほろぼす魔をたとむゆへに後生には無間獄に堕す、」と云云。
 このように一つの仏法上の原理が説かれておりますが、これを訳すことは略させていただきます。昔もそうであり、そして現代も同様でありますが、日本人の信仰態度というものは、インドのそれとまったく同じであります。なんでも取り込んで、そのすべてを祭って全部を拝む――という民族的習性があります。
 政治の局面では一党一派を固執して他を受けつけないのに、信仰の局面ではすべてを受容うる。このへんが、どうも日本人は逆さまのようにできているようであります。
 日蓮大聖人が「四箇の格言」をもって強く申し立てられたのは、この点であります。信仰、宗教というものこそ、人間精神の根底を形成する大事なものであるため、その勝劣、浅深、正邪を心得ないと、大変なことになると力説なされたわけであります。皆さんが、これから地域の建設に励んでいくにつきましても、この大聖人の弘教の精神は、決して失わないでいただきたいものであります。
 そして、この布教折伏の精神には両面があることを知ってください。それは、一つには、自分の信心の内面において、決して謗法だけは容認しないということであります。日寛上人も「常に心に折伏を忘れて四箇の名言を思わずんば、心が謗法に同ずる也」(「如説修行抄筆記」)と戒められているとおりであります。
 もう一つは、慈悲の念から出発したものでなければ、それは折伏に似て非なるものである、ということであります。自分の売名、勢力拡大、そういうものであっては絶対にならない。折伏布教は、慈悲の心で柔和忍辱を旨として行じていくものであります。
 ここ和歌山の紀州藩士の子である小泉信三氏はこういっております。「道徳教育のむずかしさは巧みに説くことのむずかしさにある。今の知識人は道徳をる。説くよりるほうがやさしいからだ。彼らは易きについている」と。教育行政の専門家としての一家言であると、私は思う。
 こういう指摘の、この「道徳」の二字を「妙法」の二字に置き換えてみても、この言葉は全体として通用するのではないかと思うのであります。ともかく「折伏」という行為は、いろいろな面から、多くのむずかしさを内蔵しているものであります。したがって、我々は「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり」という、この「丈夫の心」を信心の核として、ますます明るく、そして賢明に、この和歌山県の発展のために前進していきたいと思いますが、いかがでしょうか。(全員、挙手で賛同)
5  和歌山の風土と県民性
 「若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み 葦辺をさして 鶴鳴き渡る」
 昔の紀北の地は、まさしくこういう美しい国土であったでありましょう。いまの文化人、そして詩人である佐藤春夫氏は、紀南の地をさして「空青し山青し海青し」とたたえております。まことにうらやましい和歌山県でございます。
 北部は、農業と商業が発達して、人の気質も関西風であり、人なつっこく、経済性にはひじょうに敏感な民族性でもあるといわれている。南武は孤立性の地形の山と海の世界であって、勇敢で進取の精神をもって漁業、林業の天地に生きてきた。それで、しぜんに理想主義的でもあり、反骨にも富んでいるといわれています。昔の紀国屋文左衛門や現在の“ナショナル”の創始者・松下幸之助氏をあげるまでもなく、実業界に人材の多かったのは当然として、本県は十九世紀初頭の“医聖”華岡青州をはじめ、多数の文化人等をも輩出しています。
 そうした人脈については、私よりも皆さん方のほうが、よくご承知のとおりでございます。
 これは名君・吉宗公の時代、室鳩巣をして「紀州の学問は諸国」と感嘆せしめた、その伝統のしからしむるところでありましょうか。とにかく、昔から文化の人材の山脈を連ねてきたのが本県であり、実業界から政界にいたるまで、多士済々であるのが目立っております。こうした立派な人材の地・和歌山に、人間主義、中道哲理の妙法の息吹が満ちみちてまいりますならば、更にどれほどの人材が輩出するかと、強く期待をよせるものであります。
 どうか、きょうここにお集まりの親愛なる和歌山の皆さん、広宣流布という「平和・文化運動」に更に励み、和歌山全県の繁栄におおいに尽力していってください。そして、よく戦ってこられた先輩の方々を大切にしてあげてください。
 終わりにさいし、会場を提供してくださた体育館当局に厚くお礼を申し上げ、県下全メンバーの方々のご多幸を、心よりお祈り申し上げまして、私の話を終わらせていただきます。ありがとうございました。(大拍手)

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