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日蓮大聖人・池田大作

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木絵二像開眼之事  (1/2) 木画の二像の仏の前に経を置けば三十二相具足…
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妙法蓮華経南無妙法蓮華経。

                            日蓮花押

木絵二像開眼之事

                    文永元年 四十三歳御作

仏に三十二相有す皆色法なり、最下の千輻輪より終り無見頂相に至るまでの三十一相は可見有対色なれば書きつべし作りつべし梵音声の一相は不可見無対色なれば書く可らず作る可らず、仏滅後は木画の二像あり是れ三十一相にして梵音声かけたり故に仏に非ず又心法かけたり、生身の仏と木画の二像を対するに天地雲泥なり、何ぞ涅槃の後分には生身の仏と滅後の木画の二像と功徳斉等なりといふや又大瓔珞経には木画の二像は生身の仏には・をとれりととけり、木画の二像の仏の前に経を置けば三十二相具足するなり、但心なければ三十二相を具すれども必ず仏にあらず人天も三十二相あるがゆへに、木絵の三十一相の前に五戒経を置けば此の仏は輪王とひとし、十善論と云うを置けば帝釈とひとし、出欲論と云うを置けば梵王とひとし全く仏にあらず、又木絵二像の前に阿含経を置けば声聞とひとし、方等般若の一時一会の共般若を置けば縁覚とひとし、華厳・方等・般若の別円を置けば菩薩とひとし全く仏に非らず、大日経・金剛頂経・蘇悉地経等の仏眼・大日の印真言は名は仏眼・大日といへども其の義は仏眼大日に非ず、例せば仏も華厳経は円仏には非ず名にはよらず三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつれば必ず純円の仏なり云云、故に普賢経に法華経の仏を説て云く「仏の三種の身は方等より生ず」文、是の方等は方等部の方等に非ず法華を方等といふなり、又云く「此の大乗経は是れ諸仏の眼なり諸仏是に因つて五眼を具することを得る」等云云、法華経の文字は仏の梵音声の不可見無対色を可見有対色のかたちと・あらはし


ぬれば顕形の二色となれるなり、滅せる梵音声かへつて形をあらはして文字と成つて衆生を利益するなり、人の声を出すに二つあり、一には自身は存ぜざれども人をたぶらかさむがために声をいだす是は随他意の声、自身の思を声にあらはす事ありされば意が声とあらはる意は心法・声は色法・心より色をあらはす、又声を聞いて心を知る色法が心法を顕すなり、色心不二なるがゆへに而二とあらはれて仏の御意あらはれて法華の文字となれり、文字変じて又仏の御意となる、されば法華経をよませ給はむ人は文字と思食事なかれすなわち仏の御意なり、故に天台の釈に云く「請を受けて説く時は只是れ教の意を説く教の意は是れ仏意仏意即是れ仏智なり・仏智至て深し是故に三止四請す、此の如き艱難あり余経に比するに余経は則易し」文此の釈の中に仏意と申すは色法ををさへて心法といふ釈なり、法華経を心法とさだめて三十一相の木絵の像に印すれば木絵二像の全体生身の仏なり、草木成仏といへるは是なり、故に天台は「一色一香無非中道」と云云、妙楽是をうけて釈に「然るに亦倶に色香中道を許せども無情仏性は耳を惑わし心を驚かす」云云、華厳の澄観が天台の一念三千をぬすみて華厳にさしいれ法華華厳ともに一念三千なり、但し華厳は頓頓・さきなれば法華は漸頓のちなれば華厳は根本さきをしぬれば法華は枝葉等といふて我理をえたりとおもへる意山の如し・然りと雖も一念三千の肝心・草木成仏を知らざる事を妙楽のわらひ給へる事なり、今の天台の学者等・我一念三千を得たりと思ふ、然りと雖も法華をもつて或は華厳に同じ或は大日経に同ず其の義を論ずるに澄観の見を出でず善無畏・不空に同ず、詮を以て之を謂わば今の木絵二像を真言師を以て之を供養すれば実仏に非ずして権仏なり権仏にも非ず形は仏に似たれども意は本の非情の草木なり、又本の非情の草木にも非ず魔なり鬼なり、真言師が邪義・印真言と成つて木絵二像の意と成れるゆへに例せば人の思変じて石と成り倶留と黄夫石が如し、法華を心得たる人・木絵二像を開眼供養せざれば家に主のなきに盗人が入り人の死するに其の身に鬼神入るが如し、今真言を以て日本の仏を供養すれば鬼入つて人の命をうばふ鬼をば


奪命者といふ魔入つて功徳をうばふ魔をば奪功徳者といふ、鬼をあがむるゆへに今生には国をほろぼす魔をたとむゆへに後生には無間獄に堕す、人死すれば魂去り其の身に鬼神入り替つて子孫を亡ぼす、餓鬼といふは我をくらふといふ是なり、智者あつて法華経を讃歎して骨の魂となせば死人の身は人身・心は法身・生身得忍といへる法門是なり、華厳・方等・般若の円をさとれる智者は死人の骨を生身得忍と成す、涅槃経に身は人身なりと雖も心は仏心に同ずといへるは是なり、生身得忍の現証は純陀なり、法華を悟れる智者・死骨を供養せば生身即法身・是を即身といふ、さりぬる魂を取り返して死骨に入れて彼の魂を変えて仏意と成す成仏是なり、即身の二字は色法成仏の二字は心法・死人の色心を変えて無始の妙境・妙智と成す是れ則ち即身成仏なり、故に法華経に云く「所謂諸法如是相死人の身如是性同く心如是体同く色心等」云云、又云く「深く罪福の相に達して徧く十方を照したまう微妙の浄き法身・相を具せること三十二」等云云、上の二句は生身得忍・下の二句は即身成仏・即身成仏の手本は竜女是なり・生身得忍の手本は純陀是なり。

女人成仏抄

                      文永二年 四十四歳御作

提婆品に云く「仏告諸比丘未来世中乃至蓮華化生」等云云、此の提婆品に二箇の諫暁あり所謂達多の弘経・釈尊の成道を明し又文殊の通経・竜女の作仏を説く、されば此の品を長安宮に一品切り留めて二十七品を世に流布する間秦の代より梁の代に至るまで七代の間の王は二十七品の経を講読す、其の後満法師と云いし人此の品法華経になき由を読み出され候いて後長安城より尋ね出し今は二十八品にて弘まらせ給う、さて此の品に浄心信敬の人