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日蓮大聖人・池田大作

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大阪  

小説「人間革命」11-12巻 (池田大作全集第149巻)

前後
1  一九五七年(昭和三十二年)七月三日、午前七時三十分――。山本伸一は、千歳空港を後にした。大阪府警察本部に出頭するためである。
 この日は、戸田城聖が、あの戦時中の法難による二年間の獄中生活を終えて、出獄した記念の日である。
 そのことに気づくと、伸一の胸は燃え盛った。
 彼は、座席に身を沈め、窓に目をやったが、外は雲に包まれ、何も見え、なかった。飛行機は、轟音を響かせながら、雲の中を上昇していった。
 学会は、間断なく飛翔を続けている。山本伸一は、その飛行機の副操縦士ともいえる存在になりつつあった。当然のことながら、飛行中は気流の変化もあれば、暗雲に包まれることもある。しかし、常に、常に、広宣流布という目的地をめざしながら、懸命に、油断なく操縦揮を操っていかなくてはならない。
 今、彼の人生の前にも、乱気流が横たわっていたといえよう。
 当時のプロペラ機での飛行は、羽田到着まで約三時間を要した。羽田で大阪行きに乗り換えである。
2  羽田に到着した伸一は、機外に出た途端、蒸し暑さに、どっと襲われた。ここ数日を北海道で過ごし、機内の冷房につつまれていた体には、東京の蒸し暑さは、瞬間、耐えがたいものがあった。
 ロビーに出ると、数人の青年部幹部が出迎えていた。彼らの心配そうな顔があった。「室長!」と言って駆け寄りはしたものの、誰もが、次の言葉を探しあぐねていた。
 戸田城聖は、控室で伸一の来るのを、伸一の妻の峯子や、弁護士の小沢清と共に待っていた。戸田は、彼の分身ともいうべき最愛の弟子を、今、羽田に迎え、そして、直ちに大阪府警に送らねばならないことに、深い苦渋に満ちた感慨をもてあましていた。彼は、ここ数日の情勢から、伸一の逮捕を予測していたのである。情けなくもあり、腹立たしくもあった。
 既に、大阪府警に出頭した、理事長で蒲田支部長の小西武雄が、前日の七月二日に逮捕されていたのだ。
 山本伸一が、「先生、ただ今、戻りました」と言って、狭い控室に入っていくと、戸田は、待ちかねたように声をかけた。
 「おお、伸一……」
 戸田は、伸一を見つめ、あとは言葉にならなかった。
 伸一は、瞬間、戸田の憔悴した姿を見て、心を突かれ、言葉も出なかった。
 戸田は、側に伸一を招いた。伸一は、手短に夕張の状況を報告した。
 「ご苦労、ご苦労。昨夜、電話で聞いたよ」
 戸田は、話の腰を折るようにこう言って、伸一の顔を、じっと見つめるのである。慈しみつつも、また悲しい眼差しであった。伸一はその視線を避けるように、目を落とした。
 その瞬間、戸田は、咳払いしてから、意を決したような強い語調で言った。
 「伸一、征って来なさい」
 戸田は、伸一の目を見すえ、ながら話を続けた。
 「われわれが、やろうとしている、日蓮大聖人の仏法を広宣流布する戦いというのは、現実社会での格闘なのだ。現実の社会に根を張れば張るほど、難は競い起こってくる。それ自体が、仏法の真実の証明であり、避けることなど断じてできない。どんな難が競い起ころうが、われわれは、戦う以外にないのだ。また、大きな苦難が待ち構えているが、伸一、征って来なさい!」
 「はい、征ってまいります」
 伸一は、こう答えたものの、ここ五日ばかりの間に、めっきりやつれた戸田を目の前に見るのが辛かった。わが師の心労を思うと、胸が痛んだ。戸田の健康が気がかりでならなかった。
 「先生、お体の具合は?」
 「うん」
 戸田は、それには答えなかった。そして、伸一をまじまじと見つめ、その肩に手をかけた。
 「伸一、心配なのは君の体だ……。絶対に死ぬな、死んではならんぞ」
 戸田の腕に力がともった。彼は、伸一の体を強く抱き締めるように引き寄せ、沈痛な声で語りかけた。
 「伸一、もしも、もしも、お前が死ぬようなことになったら、私も、すぐに駆けつけて、お前の上にうつぶして一緒に死ぬからな」
 電撃が伸一の五体を貫いた。彼は、答える言葉を失った。万感に胸はふさがり、感動は涙となって、目からほとばしり出そうになったが、彼は、じっとこらえた。
 そして、決意の眼差しを戸田に向けながら、わが心に言い聞かせた。
 ″断じて負けるものか。どんな大難が降りかかろうと、決然と闘い抜いて見せる。戸田先生の弟子らしく、私は、力の限り戦う。師のためにも、同志のためにも。それは広宣流布の、どうしても越えねばならぬ道程なのだ″
 やがて、青年部の幹部の一人が、大阪行きの飛行機の出発時間が迫っていることを告げに来た。
 すると戸田は、一冊の本を手にして、伸一に渡した。
 「いよいよ出たよ。あとで読んでくれ」
 本は、戸田が、妙悟空のペンネームで、聖教新聞に連載してきた小説『人間革命』であった。
 戸田の出獄の日である。この七月三日を記念して発刊されたのである。
 戸田は、照れたように笑った。
 伸一の頬もゆるんだ。
 戸田は、伸一と固く握手を交わし、先に控室を出た。
 妻の峯子は、着替え類を詰めてきたカバンを慌ただしく渡し、無言のまま伸一を見た。
 「ありがとう。大丈夫だ、心配ない。あとは、よろしく頼む」
 伸一は、口早に峯子に言い、青年部幹部に促されるままに、ロビーに出た。
 そこには、大勢の幹部の姿があった。どっと伸一を取り囲み、彼の手を握った。皆、同じ広宣流布の目的に生きる戸田門下生であり、同志である。
 「お元気で……」
 「ありがとう、これがあるから大丈夫だよ」
 伸一は、戸田から贈られた『人間革命』をかざして、あいさつを返した。
 彼は、小沢弁護士と共にゲートの方へ進んだ。わずかな待ち合わせ時間であったが、彼には、戸田の慈愛の泉を一身に浴びた、大いなる蘇生へのひとときであった。
 伸一を乗せた大阪行きの飛行機は、羽田を離陸した。彼は、席に着くと、『人間革命』をぱらぱらとめくっていった。新刊本の、すがすがしい匂いがする。そのうちに、伸一の目は、吸い寄せられるように、本に集中し、時のたつのも忘れて読み進んでいった。
 主人公の巌さんが警察に留置され、執拗な取り調ベにあい、遂に拘置所の独房で呻吟しなければならなくなった辺りになると、伸一は興奮を覚えた。
 時が時である。あと数時間もすれば、自分の身にも、おそらく同じ運命が待ち受けているであろうことを思うと、切実であった。
 巌さんは、法華経を獄中で読み切ることによって、彼の生涯の使命を自覚する。伸一は、戸田の獄中での生活を幾たびとなく聞かされていたが、今また、戸田の小説を読むことによって、師の苦闘が、まざまざと脳裏に浮かんできた。そして、自身にも獄中の生活が迫りつつあることを、ひしひしと感じていた。それは、これから始まる獄中での闘争に、尽きぬ勇気を沸き立たせた。
 伸一は、飛行機の席で、思わず、「よし!」と叫び、『人間革命』を閉じて、ぽんと叩いた。
 ″仏法を行ずる者に、難が降りかかることは、何も、今に始まったことではない。日蓮大聖人の御一生は、もちろんのことだが、牧口先生、戸田先生の戦時中の法難も、そうではないか。今また、新しい難が学会を襲おうとしている。それは、学会が大聖人の御遺命のままに、仏法を行じている偉大なる証明ではないか!
 伸一は、戸田から聞かされてきた学会の受難に思いをめぐらした。
 戸田は、普段は自分の獄中生活を、面白、おかしく語って聞かせることが多かったが、伸一と二人きりで対し、あの大弾圧について語る時、彼の表情は厳しかった。目は憤怒に燃えていった。一言二言が、烈火のごとき怒りをはらんでいた。時に語気は激しくなり、また、沈痛な声となり、メガネの奥が、涙でキラリと光ることもあった。
 伸一の胸には、六月初旬のある夜、戸田が、万感の思いを吐露するかのように語った指導の数々が、鮮烈に蘇ってきた。
 その日、伸一は、夕張の炭労対策の指示を仰ぎに、戸田の自宅を訪れたのである。
 戸田は、炭労への対応の基本的な考え方を、簡潔に述べると、戦時中の大弾圧を振り返りながら、広宣流布の道が、権力との壮絶な戦いであることを語っていった。
 それは、まさに伸一の身に、この日が訪れることを予見し、最愛の弟子に、生涯にわたる権力との闘争への決起を促すかのような、入魂の指導となっていった。
 「伸一君、権力というものは、一切をのみ込んでしまう津波のようなものだ。生半可な人間の信念など、ひとたまりもない。死を覚悟しなければ、立ち向かうことなど、できないよ」
 戸田城聖は、戦時中の共産主義・社会主義者への過酷な弾圧から、多くの転向者が生まれたことを述べたあと、学会に加えられた軍部政府の圧迫を詳細に語った。
 一九四三年(昭和十八年)六月、天照大神の神札を祭るように、軍部政府から強要された総本山が、牧口常三郎をはじめ、学会幹部に登山を命じたことに話が及ぶと、戸田の声は震えた。
 「あの日、牧口先生と共に、私たちは、急いで総本山に向かった。先生は、来るべき時が来たことを感じておられた。列車の中で、じっと目を閉じ、やがて、目を開けると、意を決したように私に言われた。
 『戸田君、起たねばならぬ時が来たぞ。日本の国が犯した謗法の、いかに大なるかを諌める好機の到来ではないか。日本を、みすみす滅ぼすわけにはいかぬ!』
 『先生、戦いましょう。不肖、この戸田も、先生の弟子として、命を賭す覚倍はできております』
 先生は、大きく頷かれ、口もとに笑みを浮かべられた。
 私は、謗法厳誠の御精神のうえから、総本山を挙げて、神札を固く拒否されるものと思っていた。しかし……」
 ここまで話すと、戸田は、声を詰まらせたが、ややあって、彼方を仰ぎ見るように顔を上げると、言葉をついだ。
 「日恭猊下、日亨御隠尊猊下の前で、宗門の庶務部長から、こう言い渡されたのだ。
 『学会も、一応、神札を受けるようにしてはどうか』
 私は、一瞬、わが耳を疑った。
 先生は、深く頭を垂れて聞いておられた。そして、最後に威儀を正して、決然と、こう言われた。
 『承服いたしかねます。神札は、絶対に受けません』
 その言葉は、今も私の耳朶に焼き付いている。この一言が、学会の命運を分け、殉難の道へ、死身弘法の大聖人門下の誉れある正道へと、学会を導いたのだ」
 師と弟子との、厳粛な語らいであった。戸田の語気は鋭く、声には重厚な響きがあった。彼は、伸一の眼を見すえながら、一気に話し続けた。
 「程なく、牧口先生も、私も、特高警察に逮捕され、宗門からは、学会は登山を禁じられた。日蓮大聖人の御遺命を守り、神札を受けなかったがためにだ。権力の威嚇が、どれほどの恐怖となるか、このことからもわかるだろう。しかし、先生は、その権力に敢然と立ち向かわれ、獄死された。
 先生なくば、学会なくば、大聖人の御精神は、富士の清流は、途絶えたのだ。これはどうしようもない事実だ。学会が、仏意仏勅の団体なるゆえんもここにある」
 戸田城聖は、何ゆえ広宣流布の途上に法難が競い起こるかを語っていった。
3  ――日蓮大聖人の仏法は、人間生命の尊厳無比なることを説き、人びとを苦悩から解放する、幸福のための、人間のための宗教である。それに対して、権力は、力をもって民衆を隷属させ、支配しようとする。
 この人間支配への飽くなき欲望が、「権力の魔性」である。
 そして、民衆を支配する手段として宗教を利用し、人びとを帰伏させようとしてきた。
 権力に屈服し、協力する宗教を、手厚く保護する一方、それに従わぬ宗教には弾圧を加え、あるいは懐柔策を弄して、自在に操ろうとした。また、宗教の側も保身のために、競って権力に迎合したのである。
 しかし、日蓮大聖人は、権力と真っ向から対決された。民衆の幸福を実現しようとする教えと、民衆を隷属化させようとする権力とは、原理的に相容れざるものであるからだ。
 権力者から見れば、権力に屈せぬ宗教の流布は、権力の支配する王国のなかに、その力の及ぼぬ別の精神世界をつくるに等しい。これほど危険な存在はない。それだけに、怨念と嫉妬から憎悪をむき出しにし、排除にかかる。経文で説く「猶多怨嫉」(法華経三六三ページ)である。そこに、広宣流布の道程は、権力との熾烈な攻防戦とならざるを得まい理由もある。
 しかし、大聖人は、時の権力など、決して恐れなかったし、屈しなかった。「わづかの小島のぬしら主等をど威嚇さんを・をぢては閻魔王のせめをばいかんがすべき」と、悠然と言い放たれている。
 日本の仏教界は、ことごとく、今日に至るまでに、権力の掌中に落ちたといってよい。ことに江戸時代に徳川幕府によって檀家制度が施行されるにいたり、寺院は、幕府の行政機構の一機関として、「戸籍係」の役割を担わされ、完全に権力のもとに組み込まれていった。そして、聖職者自らが、政治権力の威光を借りて、意のままに信徒を操る権力となっていったのである。
 権力に依存した宗教は、当然、民衆のために現実社会を改革し、創造していく力とはなり得ない。心の慰めか、現実を逃避し、来世の安穏を願うだけの「死せる宗教」と化した。
 こうして培われた宗教の、保守、保身の体質は、明治以降も変わらなかった。戦時中の既成仏教諸宗の、軍部への迎合は、当然といえば当然のことといえる。
 そのなかで、学会は、日蓮大聖人の御精神に違わず、「生きた宗教」として、軍部の政治権力に抗して敢然と戦った。あの大弾圧を呼び起こしたのも、これまた当然の帰結である。
4  戸田は、理路整然と、法難の縮図ともいうべき原理を語っていった。伸一は、もつれた糸が解きほぐされるような思いに駆られながら、戸田の話に聴き入っていた。
 時計の針は、午後十一時を回っていた。伸一は、戸田の体が心配でならなかった。四月三十日の午後、突然、戸田が倒れてから、まだ一カ月余りしかたっていない。
 伸一は、少しでも早く、戸田に休んでもらわなければとの思いが強かった。しかし、戸田は、どうしても今夜のうちに、これだけは話しておかねばならないかのように、なおも語り続けた。
 「伸一君、しかも、今、学会は、仏法の慈悲の精神を基調とした、人間のため、民衆のための社会建設をめざし、文化、教育、政治など、あらゆる分野の改革に乗り出したところだ。その現実社会に展開される『生きた宗教』の台頭を、権力が見逃すわけがないではないか。
 戦後になって、権力は分散してきたともいえる。そして、炭労というものも、今は炭鉱労働者を組織した、一つの権力の様相を呈している。だが、まだ、その上に、国家の政治権力がある。本当に怖いのは、そっちの方だよ。油断はできないぞ」
 「はい!」
 伸一は、真剣な表情で頷いた。戸田も、大きく頷きながら、うまそうに卓上の水を飲み干した。
 「この権力との戦いは、並大抵のものではない。それは、第六天の魔王との戦いになるからだ」
 戸田は、傍らの御書を手に取ると、ぱらぱらとページをめくった。
 「ここだ。ここを読んでごらん」
 伸一は、御書を受け取ると、戸田が指さした箇所を、声をあげて拝読し始めた。「三沢抄」の一節である。
 「第六天の魔王・此の事を見て驚きて云く、あらあさましや此の者此の国に跡を止ならば・かれが我が身の生死をいづるかは・さてをきぬ・又人を導くべし……各各ののうのう能能に随つて・かの行者をなやましてみよ・それに・かなわずば・かれが弟子だんな並に国土の人の心の内に入りかわりて・あるひはいさめ或はをどしてみよ・それに叶はずば我みづから・うちくだりて国主の身心に入りかわりて・をどして見むに・いかでか・とどめざるべきとせんぎ僉議し候なり
 戸田は、そこで制した。
 「第六天の魔王は、法華経の行者が信心に励み、仏になりそうなのを見て、驚いて、『ああ、とんでもないことだ』と慨嘆する。この法華経の行者が、この国にいるならば、次々と人を導き、魔王の領土であるこの世界を奪い取って、浄土にしていってしまうからだ。
 そこで、六道の世界から、魔王の一切の眷属を招集して命令を下す。『おのおのの能力にしたがって、法華経の行者を悩ましてみよ。それでだめならば、彼の弟子檀那や国土の人びとの心のなかに入り込み、あるいは諌め、あるいは脅してみよ』というのだ。障魔というものが、いかなる姿を現じてくるか測りがたいわけだよ。
 御書の仰せに嘘はない。あの笠原慈行のことを考えでみたまえ。神本仏迹論を唱え、大聖人の正法正義に違背した身延の日蓮宗と合同を画策する悪侶が、正宗の高僧のなかから出てくるなどと、誰が予測しただろうか。まさに師子身中の虫であり、悪鬼入其身の姿そのものだ。それだけに、動揺も大きかっただろう。
 魔が狙わんとするところは、大聖人の大精神を断絶せしめ、広宣流布を阻止することにある。そのためには、手段を選ばないということだ。これから先も、どんな姿を現じてくるかわからない。御書に照らして真実を見極めていけば、すべては明らかだが、いささかたりとも信心の眼が曇れば、魔に翻弄されていくことになるだろう」
 戸田の言葉は、未来を予見しているかのようでもあった。
 「さて、問題は、このあとの箇所だよ。第六天の魔王は、さらに、こう言うのだ。
 『もしも、それでも法華経の行者を退転させられなかったら、われ自らが降りていって、国主の身に入り代わって、脅してみる。それで、どうしてとどめられないことがあろうか』
 魔王を中心に、このように評議したというのだ。
 つまり、最後は、第六天の魔王が、『権力者の身に入って、迫害を加え、信心をやめさせ、広宣流布の流れを閉ざしてみせる』と豪語しているんだよ」
 こう言って、戸田は笑ったものの、すぐに険しい表情に戻った。
 「権力による迫害は、一言でいえば、三類の強敵の第三、つまり僣聖増上慢によるものということになるが、実は、これが厄介なものなんだよ。僣聖というのは、聖人のように振る舞ってはいるが、内面は邪見が強く、貪欲に執着する僧をいうが、それが権力に近づいて、正法を行ずる者を迫害するという構図だ。軍部権力に追随していった笠原慈行の場合も、その一例といえるだろうが、まだ程度は低い方かもしれないぞ。
 大聖人御在世当時の、極楽寺良観もそうだ。聖人と仰がれる人物が権力と手を結び、迫害の急先鋒となる。そうなると、何が『正』であり、何が『邪』なのかも、容易にはわからなくなってしまう。
 それが、三障四魔が、『紛然として競い起る』といわれるゆえんなのだ。
 紛らわしく、入り乱れて、さまざまな形をして現れてくるだけに、何がなんだか、さっぱりわからずに右往左往し、退転していく。それこそが、魔の意図するところといえる。
 伸一君、これで広布の道が、いかに険しいかがよくわかるだろう」
 伸一は、大きく頷きながら、自分にもまた、法難の避けがたいことが予感された。
 ″先生の弟子として、広宣流布に生き抜く限り、いつか、一身に迫害を受ける日が来るにちがいない。その時こそ、悠然として難に赴く勇敢な師子でありたい″
 彼は、自らに言い聞かせた。
5  山本伸一が、あの日、戸田城聖との語らいのなかで予感した法難は、一カ月を経ずして現実となった。
 今、大阪行きの飛行機の中にあって、伸一は思った。
 ″戸田先生は、師子であられた。なれば弟子であり、師子の子である私もまた、師子であらねばならない。いよいよ、まことの師子か、どうかが、試される時が、遂に来たのだ!″
 その時、機内放送で、着陸の準備に入ったことが告げられた。いよいよかと思った時、今日が七月三日であることを、伸一は、再び思い起こした。
 十二年前の、一九四五年(昭和二十年)七月三日、戸田城聖は、豊多摩刑務所から出獄した。
 ″そうか、この宿縁の日に、私は出頭するのか……″
 彼は、ぎゅっと拳を握り締めた。心は、不動の落ち着きを取り戻し、胸に新たなる情熱が込み上げてくるのを感じた。
 伸一の乗った飛行機は、程なく伊丹空港に着陸した。空港には、関西の数人の幹部が出迎えてくれた。
 そこから車に乗り、ひとまず、弁護士の小沢清の宿となっている肥後橋のホテルに向かった。
 ホテルのロビーには、関西の首脳幹部をはじめ、関係者が待機していた。用意されていた部屋で、簡単な打ち合わせを終えた伸一は、新しいシャツに着替えた。そして、いよいよ大阪府警に出頭しようと、ソファから立ち上がった。その時、関西の婦人部の幹部である大矢ひでが、飲み物を運んできた。傍らのテーブルに、グラスを置いた大矢は、黙って伸一を見つめていたが、意を決したように言った。
 「先生、お願いです。府警なんかに、行かんといてください。行かはったら、帰れんようになるに決まってます」
 その目は潤み、涙が頬に流れた。
 「大丈夫、大丈夫だよ。ぼくは、何も悪いことなんかしていないじゃないか。心配ないよ」
 伸一は、大矢を励ますようにこう言うと、ジュースを飲み干した。
 部屋を出て、ホテルの入り口に行くと、既に数人の幹部が待機していた。皆、不安そうな表情である。
 「さあ、行ってくるよ。後のことは、しっかり頼んだよ」
 婦人たちの目は、一様に涙ぐんでいた。
 「大丈夫だよ。行くのは、ぼくじゃないか」
 伸一は、声をかけ、小沢弁護士と共に車に乗り込んだ。見送る人びとに会釈を返しながら、彼は思った。
 ″こうして心配してくれた、この人たちのことを、私は、永久に忘れないであろう″
 蒸し暑い午後であった。車は、大阪城内にある大阪府警察本部に向かった。
 府警に着くと、さっそく山本伸一は、公職選挙法違反の容疑者として取り調べられた。そして、午後七時過ぎ、府警は、待ち受けていたかのように伸一を逮捕したのである。午後七時ごろといえば、十二年前のこの日、戸田城聖が出獄した時刻と、奇しくも同じであった。
 伸一には、二つの容疑がかけられていた。
 一つは、候補者名を書いたタバコと、候補者の名刺を貼った百円札がばらまかれた買収事件である。もう一つは、戸別訪問である。伸一が、参議院の大阪地方区補欠選挙で、支援活動の最高責任者であったことから、この買収と戸別訪問という違反行為が、伸一の指示のもとに行われたにちがいないと、警察当局はにらんでいたのである。
 伸一にとって、これほど心外なことはない。タバコ事件、百円札事件を指揮した首謀者の大村昌人という東京の地区部長は知ってはいたが、今回の選挙の派遣員でもなかった。また、伸一は、戸別訪問で逮捕され、伸一の指令であることを認めたという京都の会員についても、顔も名前も知らないのである。
 ″どこかに落とし穴があるにちがいない。いや、あるいは、当局の捜査が、恐るべき予断と偏見をもって行われ、それに誤解と曲解が重なり、このような事態になったのだろうか。だが、真実は一つだ。やがて、一切が冤罪であることが、明らかになるであろう!
 伸一は憤然としながらも、冷静に考えることができた。
 しかし、この「やがて」が、現実のものとなるまでには、四年半という歳月を要したのである。
 ――六二年(同三十七年)一月二十五日、大阪地裁で、この事件の判決が出た。一切の真実が、やっと明白になり、山本伸一は「無罪」となったのである。検察は控訴することなく、最終的に「無罪」が確定するのである。
 しかし、この時には、既に戸田城聖は世を去っていた。そして、この四年半の苦渋に満ちた裁判闘争というものは、躍進する創価学会の行く手を、幾たびも暗雲につつんだ。広宣流布の歴史が、受難の歴史と言い得るゆえんである。しかし、学会は、その受難を強力なバネとして、常に新たな飛躍を遂げ、前進し続けてきたといってよい。
6  創価学会にとって、およそ考えることもできない買収などといった事件が、いったい、どうして起きたのかは、はなはだ理解に苦しむところであった。だが、残念なことに、それが行われたことは、まぎれもない事実である。しかも、三、四十人の大量の会員が、計画的に行ったとあっては、ますます唖然とするほかはない事件であった。
 それだけに、当初、この事件が報道された時、尾山の選挙事務所は、他陣営の悪質な謀略と考え、選挙違反の取締本部に、厳しい取り締まりを要請していたのであった。
 意外にも、その買収行為が、学会員の仕業であることを知り、関西の会員は、皆、一様に首をかしげた。誰が考えても、効果があるようには思えない、拙劣極まりない違反行為が、なぜ行われたかが、不可解でならなかったからである。
 この事件の発端は、蒲田支部の一地区部長・大村昌人の脳裏に生まれた、邪念ともいうべき着想にあった。これは、時とともに明白になっていったのである。
 首謀者の大村昌人は、ある大手建設会社の秘書課に籍を置く、三十二、三歳の男である。
 彼は、仕事柄、顔も広く、入会早々から、会社のダム工事などの建設現場を回つては、折伏して歩いた。危険の多い重労働作業に励む作業員たちは、本社の要職にある彼の勧めにしたがい、相次ぎ入会し、月々、多大な折伏成果を上げていた。
 その実績は、実力とみなされ、短日月のうちに、地区部長にまでなった。彼は、年齢の割には、かなり大きな財力をもっており、行動も、万事にわたって派手であった。
 建設業界という現実社会に身を置いてきた彼には、選挙は、決してきれい事の戦いではないという思いもあったようだ。それだけに、学会が、いくら公明選挙を叫んだとしても、建前としか思えなかったのかもしれない。しかも、このたびの大阪の補欠選挙は、極めて厳しい戦いである。
 また、彼には、仏法の深遠なことは、よくわからないが、選挙などの世間的な事柄については、学会の幹部より、はるかに自分の方が精通しているという、傲慢な自負もあったにちがいない。
 そのうえ、大村の地区には、彼の紹介で入会して間もない、ある政治新聞の社長、林田定一がいた。大村は、まず林田に、厳しい選挙の打開策はないものかと話した。二人は、林田の会社から出している雑誌を使って、候補者の尾山辰造を売り込むことを企画した。そして、地区の幹部ら数人で、蒲田支部長の小西武雄の家を訪問し、相談するが、小西は、選挙法に触れるおそれもあることから、やめるよう指示した。
 彼らは、一応、引き下がったが、あきらめきれなかった。学会の公明選挙が、なんとも迂遠な活動であるように思えて仕方なかった。地区の幹部は、寄り集まると、大阪の選挙情勢が、はかばかしくないという話になり、そのたびに、「何か手段を講じなはなければならない」という地区部長の意見に同調していった。
 大村は、地区の壮年や、二、三の青年部の地区幹部と話しているうちに、いつしか思いは飛躍し、ある決心をした。
 ――今、手もとにある百数十万の金で、思い切った運動をして応援をし、自分の力で当選させてみたい。大阪の選挙は、広宣流布につながる戦いであるはずである。それならば、何をしても、心にやましさなど感じる必要はない。現に、学会も懸命に勝とうとしているではないか。
 彼は、自分でも気づかぬうちに、功名心にむしばまれていたといってよい。自分の功績を狙う名誉欲には、必ず落とし穴があるものだ。
 組織は、あくまでも、善の価値を目的としなくてはならない。しかし、運営にあたる人間によって、極悪な目的のために利用されてしまう場合もある。ゆえに、組織を構成する一人ひとりが賢者となり、明確な目的観をもって、その進むべき方向を、常に論じ合うとともに、検証していく努力を忘れてはならない。
 大村昌人は、今回の選挙に勝つためには、金の力が必要だと考えていた。
 ただ応援を呼びかけたぐらいで投票してくれるほど、社会は甘くないと、彼には思えた。四月上旬、大村は、数人の地区員を連れて、再び小西支部長を訪れた。そして、″地区員たちと大阪に乗り込みたい″と申し入れたのである。
 「私の会社の建設現場や運輸関係を入れると、四、五万の票はあると思います。ひとつ、ばらまいてみたいです」
 「無茶をしてはいかんよ。危ないから気をつけた方がよい」
 小西は、言下に否定したが、大村は、これを必ずしも、全面的な否定とは受け取らなかった。自分の裁量で、うまくやりさえすればいい、と考えたようである。魔は、この時に差したといってよい。
 大村は、単独で計画を練り始めた。そして、地区の青年たちを動員し、隠密に事を運び始めたのである。学会本部の幹部たちは、誰一人、気づく由もなかった。
 動員されたのは、林田の会社の社員である会員たちや、地区の青年たちであった。大阪の選挙応援という大義名分を聞かされた青年たちは、投票日直前の四月十八日から二十日にかけて大阪に向かった。宿は西区の江戸堀に取ってあった。
 二十日夜、大阪に勢ぞろいした東京の三十数人の者は、ここで初めて、大村らの計画を聞かされた。
 まず、投票日の前日にあたる二十二日の朝、数人ずつの班に分かれて各所の職業安定所に行き、求職のために集まる人に、素早くタバコを配る。タバコの箱の中には、尾山候補の名前が書かれている、というわけである。
 さらに、同じく二十二日の夕刻から、大阪市内の適当と思われる住宅街の数カ所を選んで、尾山候補の名刺を貼った百円札を、各戸に配るというものであった。
 大村の説明は、さらに実行後の逃走手段にまで及んだ。
 ――二十二日夕刻の、実行に移る時には宿を引き払い、指定の地域で任務を果たしたら大阪駅に集合する。そして、乗車して熱海で下車し、所定の旅館に行く。
 二十一日午前、主だった者たちが、それぞれタバコを配る職安を下検分したあと、名刺を貼った百円札をまく地域を決めた。そして、大量のタバコの箱に、一つ一つ名前を書き入れ、また、あらかじめ用意された名刺を、百円札に丹念に貼る作業をした。
 大村たちの暴走は、二十二日早朝から、予定通り実行に移された。彼らは十数班に分かれて、大阪市内の職業安定所などに行って、三々五々集まった人びとに、路上や構内で、用意したタバコを一挙にばらまいて、さっと行方をくらました。
 彼らは、妙な使命感に燃えていたのであろう、気の小さい者も、意外に大胆にやってのけたのである。
 大村たちは、四月二十二日昼には、全員が宿を引き払い、夕刻から、大阪市内の六カ所の住宅街をそれぞれ回り、各戸に名刺付きの百円札をまいた。
 そして、投票日の二十三日当日、打ち合わせ通り、熱海に全員がそろった時、彼らは成功を喜んで、なんと祝杯を上げたのである。
 誰が考えても非常識な、この拙劣極まる違法行為を、彼らに実行させたものは、いったいなんであったのか、理解に苦しむところであった。
 そこに加わった青年たちから、計画についての質問はあったものの、積極的に反対を唱える者はいなかった。大村の説明が、身命を惜しまぬ選挙の応援という大義を振りかざし、また、学会の上層部の幹部の了解もあったと言いつくろったにしても、それが悪質な犯罪行為であることに、誰も気づかぬはずはない。いや、多くの者はそれに気づいていたはずである。
 しかし、それを踏み越える異様な情熱が、彼らを支配していた。世間の選挙とは、所詮、こういうものだと聞かされ、単純に、″そうだ″と思い込んでしまったということもあったろう。また、目的という大義名分が掲げられ、その成就が不可欠であることが強調されることによって、不当な手段までもが、暗黙のうちに、彼らのなかで正当化されてしまったともいえよう。実は、そこに見えざる魔というものの働きがある。
 崇高な目的は、崇高な手段によらなければ、真の達成はあり得ない。目的は、おのずから手段を決定づけるのである。民衆が幸福を享受できる、真実の民主政治を築くために、同志を政界に送ろうというのであれば、その運動もまた、民主主義の鉄則を、一歩たりとも踏み外してはならないことは明白である。
 目的のために手段を選はず、目的が善であるからといって、安易に手段としての悪を肯定し、自分を律する心を失った時、当初の理想や目的は、既に破綻してしまっていることを知らなくてはならない。
 戸田城聖が、常々、革命家気取りの青年たちの言動を戒め、社会人としての仕事の在り方や、生活態度を厳しく指導してきたのも、一人ひとりの生き方のなかに、人間としての規範を打ち立てることなくしては、広宣流布の正しい伸展はあり得ないと、痛感していたからであるといってよい。
 しかし、戸田から身近に訓練を受ける機会も、ほとんどなかった大村や、計画に加わった青年たちには、この戸田の心がわからなかった。青年たちは、むしろ大事な密命を託され、窮地の突破口を開く英雄でもあるかのよう、妄想にとりつかれていた。不当な行為を、いとも簡単に正当化できてしまう一念の狂いこそ、天魔の所作といえよう。
 その時、彼らは、自分たちの違法行為によって、山本伸一や小西武雄が獄につながれ、また、どれほど戸田城聖を苦しめ、広宣流布の前進を阻むことになるかなど、夢想だにしなかったのである。
 大阪の日刊紙は、二十二日早朝のタバコ事件を、その日の夕刊に大々的に報じたが、候補者名は伏せてあった。
 尾山陣営では、タバコに尾山候補の名前が書かれていたことを知るに及んで、他党の悪質な妨害として、厳重に取り締まりを申し入れた。
 また、二十二日夕刻からの百円札事件は、投票日の二十三日の朝刊に報道された。
 この百円札を知人から入手したある会員は、証拠物として関西本部に持参した。
 尾山陣営は、再び、当局に厳重に取り締まることを要請したのである。
 新聞には、候補の名前は載っていなかったものの、たちまち尾山陣営の卑劣な買収行為であるとの噂は広がり、最後の瞬間に、尾山辰造のイメージは著しく低下した。関西の首脳幹部たちは、敵陣営の術策にはまったものと考え、無念の思いに沈んだ。
 関西の同志たちは、人びとの噂話を耳にすると業を煮やし、確信をもって言い返した。
 「あんた、アホなこと言うたらあきまへんで。尾山の名前が書かれであったいうことは、尾山を陥れる他党の謀略でっせ。尾山陣営がやったなんて言うてたら、あとで笑われまっせ」
 ところが、やがて、それが会員の犯行であったことが判明するのである。会合などで、その事実を聞かされた同志の衝撃は、計り知れないものがあった。
 捜査当局に、大村たちの犯行とわかったのは、五月に入ってからである。事件に関係した者が相次ぎ逮捕され、取り調べによって、事件の全貌がわかっていく過程で、当局が最も問題にしたのは、これらの資金の出所であった。
 まず、創価学会から出たであろうとにらんだが、捜査が進めば進むほど、断定するに足る証拠がなくなっていく。真実は、何よりも事実を明らかにし、白としていた。しかし、これだけの人員を動員したのだから、背後に上層幹部の指示か、少なくとも黙認ぐらいはあったにちがいないと、捜査当局は判断したのであろう。
 ――上層幹部といえば、まず、蒲田支部長を兼任する小西武雄理事長が関与している可能性が高い。大村たちは、常日ごろから、小西のもとに親しく出入りしている。あれだけのことを、大村たちが単独でできるわけはない。なんらかの了解が、両者の間には、あって当然である。さらに、もう一人、選挙の最高責任者である山本伸一も関係しているのではないか。大村は、関西本部にも顔を出しているから、そこで、伸一の了解か指示があったはずだ――こうして当局は、二人を共謀者に仕立て上げていったのである。
 小西武雄と山本伸一が犯行に関与している――この当局の推論は予断となり、それをもとに逮捕者に架空の供述をさせ、買収は二人の指示によるものとしたのである。
 伸一についての、もう一つの容疑は、戸別訪問に関することであった。
 投票日の前々日の四月二十一日午前、京都や奈良の学会員百数十人が、関西本部に集っていた。
 その時、山本伸一は、京都支部長の川下重治に頼まれ、会員を激励した。そのなかに京都から来た一人の壮年会員がいて、大いに発奮した。
 その彼が、タバコなどを配ったという買収事件の報道を知り、敵の謀略であると感じて焦燥にかられ、二十三日の投票日当日、南海高野線の初芝付近で戸別訪問を敢行した。そして、警察官に現行犯で捕らえられたのである。
 この戸別訪問は、二十一日に、関西本部であいさつ、激励した、山本伸一の指示によるものとし、伸一と京都の壮年会員とが共謀しての違反行為に仕立て上げようとしたのである。しかし、伸一の戸別訪問に関する容疑を、この一件だけをもって裏付けるのは、いかにも弱い。
 残念なことだが、四条畷や守口方面で、投票日直前に戸別訪問の現行犯として会員が逮捕された事件が何件かあった。捜査当局は、この戸別訪問も、最高責任者であった伸一の指示によるものとして、証拠固めに全力をあげていったようである。
 四条畷方面の面倒をみていたのは、関西総支部幹事の鳥山邦三であった。そこで鳥山と伸一を結びつけた。また、守口方面は岡山支部長の岡田一哲が担当していたので、やはり伸一と岡田を結びつけた。
 そして、鳥山と岡田に、伸一の指示によって、自分の担当方面で戸別訪問をやらせたとの供述を引き出し、戸別訪問に関する全面的容疑を、山本伸一にかけようとしたのであった。
 戸別訪問で逮捕された、この京都の壮年会員は、臨時雇いの工員であり、生活も苦しく、子どもの一人が修学旅行を前にしていた。父親が逮捕されてしまったために、旅行支度をする金さえなく、家族は途方に暮れていた。彼も、そのことが気がかりでならなかった。
 取り調べにあたった警察官は、そんな彼に、「ほかの者も、全員が山本室長の指示であると自供している」「山本の指示であることを認めなければ、いつまでも家には帰さんぞ」などと脅しをかけた。また、「早く自供しなければ、かわいい子どもの修学旅行に間に合わなくなる」と、子煩悩な父親の情に訴えた。
 彼は、子どもや妻のためにも、ともかく早く家に帰りたかったにちがいない。それは、人間として当然の感情といってよいだろう。
 警察は、こうした親の心情につけ込み、巧妙に供述を引き出そうとしたのである。彼は、言われた通りに供述することが、どのような結果になるのかを知る由もなかった。
 買収事件の資金源が、創価学会ではなく、首謀者の大村昌人個人であることも、戸別訪問が上層幹部からの指示ではないことも、調べればすぐにわかることである。しかし、検察当局は、この事件をもって、あえて学会の上層部を狙い撃とうとしていたのである。
 その背景には、前年の大阪の参議院議員選挙で、選挙に不慣れなために戸別訪問の違反者を出し、その被告たちが国連加盟の大赦令によって、全員赦免されていたこともあるだろう。検察側にしてみれば、せっかく追及した事件が、あっさり消えてしまったのである。今度こそはと、手ぐすねを引いて待っていたともいえる。
 山本伸一は、前年の選挙で違反者を出してしまったことから、今回の選挙では、無事故、無違反の運動を強く訴えてきた。しかし、前年と比べれば、戸別訪問の違反者の数は大幅に減つてはいたものの、再び違反者が出たうえに、今度は買収まで行われたのである。
7  検察が、この機会に徹底して取り締まり、壊滅的な打撃を与えておこうとの方針をとったとしても不思議ではない。だが、そこには、少なからず創価学会に対する感情的な偏見があり、その将来に、いわれなき恐怖をいだいていたことも確かであろう。それは、いわば、道理や理性を超えて、人間の心の奥底から発する生命的反発といえようか。
 これこそが、「猶多怨嫉」(法華経三六三ページ)という状況を引き起こす要因といえる。この、人間の憎悪ともいうべき感情のもとに、権力が行使される時、権力は魔性の力となって、弾圧の牙をむくのである。
 しかし、いかなる時代であれ、弾圧を敢行するには、それを正当化する大義名分が必要となる。つまり、処罰の理由となる、なんらかの問題点をつくりだし、それに事寄せて弾圧は行われる。
 その手口は、日蓮大聖人の、竜の口の法難から佐渡流罪にいたる経過でも、明らかであった。
 竜の口の法難のきっかけとなったのは、行敏という念仏僧が、大聖人を幕府に訴え出たことであった。行敏の背後には、大聖人を亡き者にしようと図る、鎌倉仏教界の実力者・極楽寺良観がいた。
 行敏の訴状には、教義に対する非難とは別に、「弥陀観音等の像を火に入れ水に流す」「凶徒を室中に集む」などの項目があった。おそらく、教義論争で大聖人を押さえ込むことは困難と考え、現在でいえば刑事事件に相当する内容を盛り込んで、大聖人の教団を弾圧する口実とする目論見だったと思われる。
 大聖人は、「弥陀観音等の像を火に入れ水に流す」と言うのであれば、確かな証人を出せと、即座に反論されている。そして、証拠を出せなければ、それは日蓮を陥れるために行った、良観らによる自作自演の謀略にほかならないと、指弾されている。
 また、「凶徒を室中に集む」という訴えに対しては、むしろ良観らの拠点である極楽寺などが、悪人たちを集めていると、経論等も引いて反論されている。大聖人は、常に、命の危険と隣り合わせの日々を送っておられた。凶徒に襲われ、大聖人が身に傷を被り、弟子たちが殺害されたこともあった。また、邪義を大聖人から破折された僧たちは、その事実を隠すため大嘘を権力者たちに吹き込み、大聖人を迫害させようとした。門下である武士たちは、大聖人を守ろうと、心を配っていたにちがいない。事実は、訴状の内容と全く異なるものであった。
 良観らの一派は、卑劣な事実無根の作り話や、針小棒大の論を掲げ、幕府に訴えたのである。そして、こうした訴えを取り扱う部署が侍所であり、その所司(次官)が、大聖人を憎む平左衛門尉であった。
 平左衛門尉は、形式的な取り調べを行っただけで、すぐに大聖人を捕らえ、短時間の調べで佐渡流罪の判決を下した。しかし、深夜に至って、処刑場の竜の口へ引き出したのである。ひそかに斬首に処そうとしたのである。
 だが、斬首は失敗に終わり、大聖人は、相模国依智の本間六郎左衛門邸に、しばらくとどめ置かれることになった。明確な事情はわからないが、幕府内には、大聖人を赦免すべきであるとする勢力もあった。そのため、再三、評議が行われたが、結論が出ず、処分未決のまま、約一カ月の時間が経過することになる。
 大聖人は、「我今度の御勘気は世間の失一分もなし」と仰せのように、罪など何一つなかった。評議を重ねるほど、処罰する根拠が、あいまいになっていったと思われる。
 しかし、極楽寺良観や念仏者たちは、なんとしても、大聖人を無罪放免にしてはならないと考えた。彼らは、配下の手の者を使い、鎌倉で放火や殺人を行わせ、それらを大聖人門下の仕業だと讒言した。
 そして、当初の判決通り、大聖人は佐渡流罪と決定したのである。
 またも、良観らは、罪を捏造し、権力者に向かって讒言し、世論を操作したのである。冤罪によって処罰するという迫害の構造が、ここにある。
 日蓮大聖人の御在世当時とは異なり、現代は法治国家である。また、民主主義社会である。権力は分散され、その暴走に歯止めをかけるための制度化が進められてきたことも事実である。しかし、それだけに弾圧の方途も、より老獪で巧妙なものとなってきているといえるかもしれない。
 時には、法を拡大解釈し、違法として裁断し、ある場合には、過剰なまでに監視の目を光らせ、わずかでも法に抵触する可能性があれば、厳しく取り締まるということもあろう。また、一信徒の個人的な問題を、教団全体の問題として、摘発することもあり得よう。
 いずれにせよ、故意に社会的な問題をつくりだし、それを口実にして叩きつぶそうとするだけに、多かれ少なかれ、冤罪を生むことは間違いない。
 この大阪の事件が、まさにそれであった。
8  七月三日夕刻、山本伸一が大阪府警に出頭したあと、関西の主だった幹部たちは、関西本部に集まって来た。どの顔も、不安と焦燥の色につつまれ、重苦しい雰囲気が、漂っていた。
 今後の対策を協議したが、何も話は進まなかった。そのうちに、弁護士の小沢から、伸一の逮捕を知らせる電話が入った。それは、さらに関西の幹部たちを、絶望のどん底に突き落とした。
 「室長は、どこにお泊まりになるんやろ」
 心配そうに、一人がつぶやいたが、答える人は誰もいなかった。
 こうなると、むしろ婦人の方が強かった。大矢ひでが、気を利かせて言った。
 「警察に泊まることにならはると、必要なもんを用意せなあかんな。歯ブラシやタオルは、お持ちになったんやろか」
 話は、にわかに具体性を帯びてきた。
 「今夜は暑いけど、夜中は肌寒いこともあるんやから、毛布か夏掛けもないとな……」
 必要と思われる品物が、相次ぎあげられ、手際よく、手配の役割分担が決められた。婦人たちの真心が、さまざまな、こまやかな配慮を織り成していった。
 差し入れの品を持ち込んだとしても、府警が許可するかどうかも、わからなかった。しかし、関西のこの地で、自分たちと共に戦い、自分たちのために闘ってくれた、信心の柱とも慕う室長のためなら、駄目だとわかっていても、当たって砕けるつもりだった。理屈ではない、同志の真心のほとばしりであった。
9  山本伸一の逮捕を知った、関西の会員たちの驚きは大きかった。
 「えっ、なんでや。山本室長は、なんも悪いことなどしてはらへんのに」
 「室長が、何をしはったいうんや」
 まるで、狐につままれでもしたような思いであった。
 関西の同志の多くは、買収事件と戸別訪問の当事者が逮捕されたことで、一切は落着するものと思っていた。
 それが、理事長の小西武雄に引き続き、室長の山本伸一までが逮捕されたのである。彼らは、山本室長の指揮のもとで戦い、伸一が、違反行為を誰よりも厳しく戒めてきたことを、よく知っていた。それだけに、逮捕されたことが、どうしても腑に落ちなかった。
 「何か別の狙いがあるんと違うやろか」
 「おそらく、一部のもんの選挙違反を口実に、学会を叩きつぶそういう魂胆やで」
 「ひどいことしおって!」
 皆の驚きは、憤りに変わっていった。
 そして、室長のために何かできることはないか、と話し合ったのである。
 無実の罪が晴れて、無事釈放されるように、「今夜は、夜通し題目を送ろう」と言う人もあった。伸一への差し入れを手にし、府警に駆けつけた人もいた。
 しかし、受付の係員は、「おらへん、おらへん。そんな者は、ここにはおらへん」と、けんもほろろに答えるのだった。
 「では、どこにいてはるんや。学会の室長でっせ。山本伸一さんでっせ。ちゃんと、ここに出頭しとるんや。知らんわけはない」
 押し問答の末に、係員は、「もしかしたら天満署やろ」と言うのである。天満署に行けば、「知らんな」と言うばかりで、取り合ってもくれなかった。
 山本伸一は、この日の夜は、大阪府警から東警察署に移され、留置された。
 翌朝、東署の周辺には、どこから聞きつけたのか、二人、三人と、たたずむ会員の姿があった。街路樹の木陰から、玄関の方をうかがう人もいる。皆、伸一の安否が気がかりで、やって来たのである。
 午前九時ごろ、ジープが警察署の玄関前に止まった。程なく、扇子を手にした伸一が、刑事に伴われ、建物の中から姿を現した。取り調べを受けに大阪府警に向かうためである。
 東署の玄関を、遠巻きにするようにたたずんでいた十人ほどの人影が、吸い寄せられるように、伸一の方に近づいていった。青年も、婦人もいた。
 誰もが、「室長!」と言って走りだしたかったが、声をのんで立ち止まった。刑事の鋭い目が、周囲の人びとを威嚇するように、睨みすえていたからである。
 街路樹やビルの陰から、じっと伸一を見つめることしかできなかった。
 伸一は、会員たちの姿に気づくと、にっこり笑んだが、追い立てられるようにしてジープに乗り込んだ。その微笑は、「大丈夫だ。心配するな」と、自分たちを励ましているようにも思えた。悔しくもあり、嬉しくもあった。
 皆は、走り出すジープに向かって懸命に手を振ったが、ジープは、涙でかすんで見えなかった。
 大阪城内にある大阪府警の付近にも、幾人かの同志の人影があった。
 ジープから降り、府警に入る山本伸一の姿を見た人びとは、胸を詰まらせた。
 会員たちは、いつまでも立ち去ろうとはしなかった。
 伸一と、ひと声、言葉を交わしたいと、堅牢な府警の建物の周りを、何度も巡る人もいれば、庭の植え込みの陰から、府警の窓を見上げている人もいた。そして、何時間も待ち続けた末に、ため息をもらし、がっくりと肩を落として、帰って行くのである。
10  落胆する会員たちに、さらに追い討ちをかけたのが、新聞などの報道であった。
 マスコミは、小西理事長や山本室長の逮捕と相前後して、ここぞとばかり、創価学会を、法をも恐れぬ「暴力宗教」「ファッショ」と決めつけ、異常極まりない反社会的な宗教団体として喧伝していった。
 戦時中、軍部政府に協力し、戦争を賛美してきたマスコミが、軍部政府に抗して初代会長が獄死までした学会を、「ファッショ」と批判する無定見、無節操さには、ただ驚くばかりである。しかも、「ファッショ」の根拠は、「参謀」「部隊長」などといった、軍隊に似た組織役職の呼称ぐらいにすぎない。
 各紙は、連日のように学会攻撃を続け、「最後は仏罰で脅す」「ここに日本の病理」などの見出しが躍った。
 関西の会員たちは、自らが体験した、歓喜あふれる麗しい同志愛の世界とは、あまりにも隔絶した、歪んだ悪意の報道に、地団駄を踏む思いだった。
 社会からも見捨てられ、人生の目的を見失い、生きる力さえなくしながらも、学会によって、再び新たな希望に燃えて立ち上がった人びとは、枚挙にいとまがない。
 病苦、経済苦、家庭不和など、宿命の鉄鎖から解放された、喜びの人間蘇生のドラマのなかにこそ、創価学会の真実の姿があり、それゆえに、学会の発展もあったのである。そんなことは、ひとたび座談会の扉を叩き、ありのままに学会を見ようとすれば、誰の目にも明らかになるはずである。
 しかし、マスコミは、なぜか、この歴然たる事実に目を向けようとはしなかった。
 たとえば、ある新聞の「創価学会」と題する連載の前文には、次のようにある。
 「創価″学会″というからには、なにか哲学か、学術の研究団体だろうくらいに、ついこの間まで思っていた人たにちとっては、まったくアレヨアレヨのことばかり。五千年の昔、お釈迦さまが説かれた法華経の、不可思議にして霊妙なる法力と、日蓮上人の教えとを、正しくつぐというその生れと育ち。またたく間に百五十万の信者をつかんだ驚くべき繁殖力、軍隊的な全国組織、折伏と呼ばれるはげしい布教の仕方……」
 この連載では、退転していった者や、学会を嫌悪している学者を登場させ、学会が、いかに非道極まりないものかを語らせていた。極めて意図的な報道といわざるを得ない。
 創価学会の伸展を、「繁殖力」などという、この表現は、愚弄と嘲り以外の何ものでもない。一部の記者の、エリート意識がもたらす傲慢さのなせる業か、宗教、庶民への、はなはだしい蔑視と偏見が見て取れた。
 これらのキャンペーンは、宗教が庶民を目覚めさせ、社会的にも急速に台頭してきたことへの、故なき恐れと反感の表れといえよう。この偏見に満ちた生命的反発ともいうべき感情もまた、経文に説く「猶多怨嫉」(法華経三六三ページ)を意味するといえる。
 大阪での事件を扱った報道の多くは、こうした偏見に基づく予断であった。犯行は、当然、学会上層部の指示によるものと、決めてかかっていた。言論人として、これほど無責任なものはない。結論を探り当てるのではなく、先に断罪しておいて、それを補うのに都合のよい事実だけを、拾い上げていくのである。真実とは、かけ離れた、虚構の報道になることは言うまでもない。それらの報道は、発表当局とマスコミの、もちつもたれつの関係のゆえか、当局の意向を、そのまま反映したものともいえた。
 さらに、真実よりも、人びとの興味や好奇心を引くために、異常性を追い求めようとするジャーナリズムの倒錯した性向が、報道の偏頗さに勢いをつけた面もあろう。
 「犬が人を噛んでもニュースにはならないが、人が犬を噛むとニュースになる」と言ったジャーナリストがいたが、学会を、無理やり、「犬を噛む人」に仕立て上げようとした意図が見受けられた。
 学会とは、なんら関係のない問題を学会にからめ、裏に人知れぬ巨悪があるかのように喧伝する。あるいは、退転、離反し、学会を憎悪する者の、根も葉もない中傷をあえて取り上げ、面白おかしく書き立て、「異常」のレッテルを貼る――それは、売れればよいという商業主義に堕したマスコミが、今なお用いる卑劣な常套手段といってよい。
 こうした報道によって、個人や団体の名誉が失墜させられ、社会的に葬り去られた例も少なくない。マスコミの力は大きく、今や、世論を動かす一つの権力ともいえる側面をもっている。それだけに、マスコミ人は、どこまでも真実を追求する報道姿勢を忘れてはなるまい。
 大阪での心ない買収事件を契機に、この時、国家の権力、マスコミ、さらに宗教関係者や退転者など、創価学会を憎み、恐れる勢力が、こぞって学会に集中砲火を浴びせたのである。
 なんら共通の目的も理念もなく、ただ利害と学会憎しの感情が生み出した、攻撃の包囲網といえよう。
 これこそ、障魔の連合であり、現代における法難の形態ともいうべきものが、そこにあった。創価学会は、そのなかで戦い、勝つことを、永遠に宿命づけられているのである。
 戸田城聖が、「同志の歌」で、「味方は少なし、敵多し」と詠み、常に歌った真意も、ここにあるといっていいだろう。
11  七月八日には、山本伸一の身柄は、東警察署から大阪拘置所に移監された。
 関西の同志たちは、伸一に会いたい一心で、拘置所にも出かけて行った。
 面会を申し込んで断られると、拘置所のコンクリートの塀に耳を押し当てたり、鉄の扉の隙聞から中をのぞき、少しでも様子を知ろうとする人たちもいた。差し入れを申し入れでも許可されず、何時間も粘る人たちもいた。分厚い鉄の扉に体を擦り寄せ、「室長! 先生!」と鳴咽する人もいた。
 東京から、夜行列車で駆けつけて来た青年部員もいた。彼らは、伸一との面会が叶わぬと知ると、日中、関西の会員に、伸一に関する情報の一部始終を聞いて歩いた。そして、再び拘置所の前に立ち、獄窓の伸一を偲び、また夜行列車で東京に帰って行くのである。
 このなかで、罪もない山本室長が、過酷な取り調べを受けていると思うと、皆の胸は、張り裂けんばかりに痛んだ。そして、込み上げる怒りに、体は震えるのであった。
 共に苦楽を分かち合った同志の紳は強い。伸一と同志との結びつきは、立場でも、形式でも、権威によるものでもなかった。相手の幸せを願つての、全精魂を注ぐ励ましのなかで培われた、人間のまことの信頼の絆であり、魂と魂の結合であった。府警の硬い壁も、拘置所の高く分厚い塀も、この同志と同志の心の絆を断つことなど、できなかった。
 実に、学会の強さは、この人間と人間との強靱な魂の絆にこそある。これまで学会が、さまざまな試練と謀略にさらされながらも、それらを見事に乗り越え、新たな飛躍を遂げてきたのは、広宣流布という目的のもとに、信頼の紳で結ばれた金剛不壊の団結があったからにほかならない。団結こそ、学会の命である。
 それゆえに、広宣流布の伸展を阻もうとする勢力は、必ず、その団結に亀裂を生じさせ、精神の離間を企てようとしてきた。広宣流布の指導者への不信をあおるための虚偽の喧伝、悪質な人身攻撃……。
 しかし、真実の信仰によって培われた英知の眼は、謀略の本質を鋭く見抜き、同志の絆は、いや増して固く、強く結ばれていった。反対に、私利私欲にとらわれた保身の者は、それに乗ぜられ、恨みごとを繰り返しては、反旗を翻していった。歪んだ心の鏡には、すべてが歪んで映るからにほかならない。
 結局、吹き荒れた謀略と迫害の嵐は、一人ひとりの信仰の真偽を試し、名聞名利の欺瞞の信仰者を暴き出し、淘汰していったのである。難こそが、学会を精錬し、そのたびごとに、金剛の信仰の純度を高めてきたといってよい。まさに難即前進であり、それは、永遠不変の原理といえよう。
12  山本伸一の取り調べは、大阪府警察本部、大阪拘置所、大阪地方検察庁などで、連日、行われていた。
 ことに、大阪拘置所に移った八日は、検事が二人がかりで、夕食も食べさせずに、深夜まで厳しい取り調べをした。
 検事たちは、買収事件を起こした蒲田支部の二人の男と、大阪駅で買収の謀議をしたはずだと迫った。確かに伸一は、四月十九日夜、九州方面の指導に向かう戸田城聖を大阪駅で見送った折、やはり、見送りに来ていたこの二人と、会ってはいた。彼らの顔は知っていたが、最初は、なぜ彼らが大阪に来たのかもわからなかった。
 その時、二人が、「選挙の応援に来ました」と言うので、「よろしく」と一言、二言、言葉を交わし、励ました。それをもって、検事は、二人からタバコをばらまく職安の一覧を見せられ、買収を了承したはずだと言うのである。
 また、京都や奈良から来た会員たちに、関西本部で、「しっかり頑張るように」と激励したことを、「戸別訪問をやれ」と言ったとすり替え、これも認めろと迫るのであった。
 いくら責め立てられでも、伸一は、違反行為の指示などしていないだけに、供述のしょうがなかった。当然、否認するよりほかに道はない。
 検察側は、この間に、新たな証拠となるような具体的事実は、何一つ示すことができず、いたずらに時は過ぎていったのである。
 検察は、逮捕、勾留した責任上、焦りを感じ始めていたといってよい。
 七月九日午後、地検の調室で取り調べを行っていた検事は、地検の別館にある、別の検事の調室に行くと言いだしたのである。伸一の手に、手錠がかけられた。
 地検と別館とは、間近とはいえ、屋外に出て衆目にさらされることになる。中之島の街を行き交う人びとは足を止め、手錠姿で連行される伸一に、無遠慮な好奇の視線を投げかけた。あたかも極悪人でも見るように、顔をしかめる者もいた。
 それは、伸一をさらし者にするかのようでもあった。精神的拷問に等しかった。
 伸一は、屈辱をかみしめながらも毅然としていた。師子は、どこにあっても師子であった。
 傍らの電柱の陰で、慄然としてたたずむ婦人がいた。学会員である。手から買い物籠が落ちた。わなわなと震えながら、何か言いたげに、一心に伸一を見つめていた。その目に大粒の涙があふれた。
 伸一は、婦人の姿に気づくと微笑みかけ、大きく頷いてみせた。堂々としていた。あの、いつもの伸一の笑顔である。その表情は、「頑張るんだよ」と優しく励ましているようにも見えた。
 ″室長は、お元気なんだ。負けてなんかいない。私だって、負けるものか!″
 蒼白な婦人の頬に、赤みがさした。伸一を見送る婦人の頬に光る涙は、健気なる誓いの熱い結晶となった。
 東京からやって来た青年たちも、手錠姿で地検の別館に連行される伸一を見た。悔しかった。はらわたの煮えくり返る思いで、男泣きしながら、視線を注いでいた。
 すると、通りすがりに伸一は、青年の一人を厳しい眼光で見すえた。凛々しく胸を張り、凝視する伸一の目は、「こんなことで、へこたれてどうする!」と、叱咤しているようでもあった。
 彼らは、感傷にふけり、不覚にも、ただ涙するだけだった自分たちを恥じた。
 ″今こそ、室長に代わって、悲しんでいる同志を励ますのが、ぼくらの役目じゃないか!″
 青年たちは、伸一の後ろ姿に向かって心で詫びながら、奮起を誓うのであった。
 伸一が、手錠をはめられて連行されたという話は、東京の学会本部の戸田城聖のもとに、すぐさま報告された。
 戸田は、電話口に小沢弁護士を呼ぶと、激怒して言った。
 「直ちに手錠を外させろ。すぐに、伸一を釈放させろ!」
 うなるような声であった。
 「いいか、小沢君。学会をつぶすことが狙いなら、この戸田を逮捕しろと、検事に伝えてくれ。かわいい弟子が捕まって、牢獄に入れられているのを、黙って見過ごすことなど、断じてできぬ。戸田は、逃げも隠れもせんぞ!」
 戸田は、こう言って電話を切った。
 伸一が逮捕されて以来、戸田は、関西本部に頻繁に電話を入れて、様子を尋ねていたが、この日の電話は、分刻みといってもよいほどの回数であった。対応策を厳しく確認しては、弁護士や関西の幹部に、相次ぎ指示を出した。何度目かの電話のあと、応対した幹部に戸田は言った。
 「君たちを、厳しく叱りつけてすまんな。しかし、牢獄というのは、入った者でなければわからんのだ。今、伸一は、そのなかで必死になって戦っているんだよ」
 伸一の苦しみは、そのまま戸田の苦しみであった。戸田は、伸一が逮捕されてからというもの、満足に眠ることはなかった。床に就いても、まどろんだかと思うと、伸一の夢を見ては目を覚ました。
 これが、戸田自身に加えられた苦痛であれば、彼は、泰然自若として耐えたであろう。伸一は戸田の命であり、広宣流布の一切を託さなければならない分身であった。戸田は、何かあれば、弟子のために自らが犠牲になることを、固く心に誓っていたのである。
13  山本伸一は、いかなる仕打ちにも、決して動じなかった。検事は業を煮やしていた。
 「山本! いい加減に認めたらどうだね。買収も戸別訪問も、逮捕された者たちは、皆、君の指示でやったと言っているんだよ」
 「それならば、その人たちに会わせてください。そうすれば、それが嘘であることが明白になると、私は何度も言っているではありませんか。しかし、それをしようとはしない。なぜ、真実を見極めようとしないんですか。あなたたちは、私に嘘の供述をせよと言っていることになります。していないことを、認めるわけにはいきません」
 憤然として語る伸一の言葉に、一瞬、検事は、たじろいだかに見えた。そして、もの静かな口調で、諭すように語り始めた。
 「嘘を言えなどと言っているわけじゃない。認めるべきものは、早く認めた方がいいと言っているだけだよ。君が、そういう姿勢を崩さなければ、どういう事態になるか考えてみたまえ。私たちとしては、君が勤めている大東商工と学会本部を手入れし、そして、戸田を引っ張らなくてはならないことになる」
 検事は、脅迫に近い言辞を弄し始めた。
 「なんですって! 大東商工とこの事件と、どういう関係があるんですか。それに、学会本部も戸田先生も、関係ないではありませんか」
 「いや、君は戸田の指示で、大阪の選挙の最高責任者になったんだからな。それに、戸田は学会の責任者だ。この事件は、創価学会員が組織立って行った犯行だ。会長である戸田を調べるのは、当然のことじゃないか。しかも、買収を行うに際して、戸田の了解を得ているという供述もあるんだからね」
 「嘘です。そんなことは断じてない!」
 「それは、直接、戸田に聞いてみないことにはね……」
 こう言うと、検事は机の上の電話に手を伸ばし、ダイヤルを回した。
 「ああ、私だよ。すぐに大東商工の手入れの準備をしてくれ。それから、大東商工の社長に、一切の帳簿を提出するように言うんだ。大至急だ」
 検事は、これだけ言うと、電話を切った。
 「山本! 私は、やると言ったら必ずやる。なめていると、とんでもないことになるぞ!」
 この検事の言葉は、伸一の胸に、深く突き刺さった。この時から、彼の獄中での煩悶が始まったのである。
 翌日、小沢弁護士が来て、伸一と面会した。
 小沢は、声をひそめて伸一に言った。
 「山本君、私の言うことを、よく聞いてください。実はね、検察は大変なことを考えているんだよ。
 君が容疑を認めなければ、大東商工、学会本部を家宅捜索し、戸田会長を逮捕すると言ってきたのだ。それに、君の岳父である春木洋次、また青年部長の山際洋も逮捕するというんだ。向こうは、際限なく逮捕者を広げていくつもりらしい」
 「義父の春木や、山際青年部長のことを聞くのは初めてですが、そのほかのことは、私も検事に言れました」
 「そうか。どうも、彼らは本気らしい。そこでだがね、ことはひとつ、検事の言うことを認めてはどうかね。私も、もうこれ以上、広げたくないんだよ」
 「ほかならぬ弁護士さんまで、そんなことを言われては困りますよ」
 伸一の目が光った。
 小沢弁護士は小声だが、力を込めて言った。
 「山本君、検察というのは権力なんだよ。彼らは、その気になれば、どんなこともできる。戸田会長が逮捕されるとなれば、これは大ごとだよ。検事も、君の出方次第では、穏便に事をすませてもよいと言っている。
 事件というのは、どこかで落着させなければならん。君の段階ですませるのか、戸田会長までいって終わるのか、ということだよ」
 伸一は、どうも釈然としなかった。ただ、事態は緊迫しているようである。
 「まあ、ともかく、君さえ認めてくれれば、すべてが収まる。戸田会長の逮捕は、私も避けたいところなんだ。山本君、ここはひとつ、妥協してくれんか」
 小沢は、「明日から、ともかく検事の言う通りに供述するように」と、念を押して帰って行った。
 その夜、山本伸一は眠れなかった。拘置所の蒸し暑い独房の中で、何度も寝返りを打ちながら、思い悩んだ。
 伸一は、これまでに選挙違反の容疑で捕らえられた会員が、非道な取り調べを受けた報告を聞き、胸を痛めてきた。そんな指示など、もとよりしたことはないが、違反者を出したことに、道義的な責任を強く感じていた。
 ″厳しい追及を受けた同志がいるのに、選挙の最高責任者の自分が、安閑としていてよいのだろうか。自分こそ、最も苦しむべきではないか……″
 こう考えると、身に覚えのないことであっても、罪を一身に被るべきではないか、とも思えてきた。
 ″しかし、それでは検事の術策に、みすみす嵌ることになりはしまいか。学会の正義は、どうなるのかとの思いが、すぐに頭をもたげた。
 ″いや、私が嘘の供述をしなければ、大東商工も、学会本部も、家宅捜索するという。もし、大東商工が家宅捜索されれば、会社としては大きな信用問題に発展するだろう。自分が面倒をみてもらっている会社に迷惑をかけることは、なんとしても避けなくてはならない。また、学会本部が捜索されれば、どうなるだろうか。会員の苦しみ、動揺は計り知れないものがあるだろう。いや、戸田先生にも、どれほどご迷惑をおかけすることになるか。そして、戸田先生が、もし逮捕されたら……″
 伸一の脳裏に、戸田城聖の姿が、まざまざと浮かんだ。
 ″先生は、お体をこわされている。夕張の問題、そして、理事長と私の逮捕で辛労が重なり、憔悴され切っているにちがいない。それで逮捕されたら、先生のお体は……。命を縮めることは間違いない。あるいは、獄中で……。あってはならない。牧口先生に続いて、戸田先生まで獄死させるようなことが、あってはならない。戸田先生を、逮捕などさせてなるものか。絶対に逮捕させてはならない!″
 彼の心は、赤々と燃えた。それは憤怒の火であり、また、戸田を守り抜とうとする闘魂の炎でもあった。
 ″戸田先生あっての私の人生である。いかなることがあっても、私は、先生を、お守りするのだ! では、検事の言うままに、真実を捨てて嘘をつくのか。自らの手で、愛する学会を汚すことになりはしないか……″
 伸一の心は激しく揺れ動き、深夜の独房で、彼の苦悶は続いた。憤怒に胸はうずき、悔し涙があふれた。髪の毛をかきむしり、独房の壁に何度も頭をぶつけた。
 苦悩は深く、夜通し彼を苛んだ。呻吟の果てに、伸一の心は決まった。
 ″私が罪を背負いさえすれば、一切は収まる。たとえ無実の罪に問われようと、戸田先生のためなら、学会のためなら、それでよいではないか……″
 「先生!……」
 伸一は、思わず叫んでいた。再び熱いものが、彼の目に込み上げた。
 夏の夜は短く、いつか窓は、かすかに白み始めていた。
14  罪を一身に被ることを決めた山本伸一は、翌日、容疑はすべて認め、供述することを、主任検事に伝えた。
 主任検事は、急に相好を崩した。
 「それでこそ、君も、最高責任者としての責任を、果たすことになるのではないかね」
 伸一は、自らに言い聞かせた。
 ″これで、戸田先生をお守りすることができるのだ。学会にも、大東商工にも、迷惑をかけなくてすむ。それに、もう、同志にこれ以上の犠牲者を出さなくてすむ。不本意ではあるが、これでよいのだ″
 伸一の心から、不安と恐れは去り、安堵と諦観につつまれていった。
 しかし、その奥底には、沈痛の念が潜んでいた。それは、次第に、深い、やるせなさとなって、彼の心を苛んでいったのである。
 伸一は、この七月十一日の夜から、全く食欲を失った。それは、獄窓の暑熱のせいばかりではなかった。沈欝な悲哀が、心に重く疲労となってのしかかり、彼の活力を奪ったのである。
15  この十一日の夜のことであった。大村昌人ら買収事件に加わった二、三人が、関西本部を訪れ、驚くべき事実を漏らした。
 彼らは勾留中、取り調べにあたった検事と、ある合意があったことを明らかにしたのである。
 ――検事から、「こうした事件は、指揮系統が明らかにならないと収束できない。君たちで話し合って、一応、山本室長の指示ということにしてはどうか。ほんの形式上の問題だから、決して、山本を逮補したりはしないし、理事長の小西の逮捕もなくなる。また、すぐに君らも釈放してやる」との話があったというのだ。
 そして、大村たちは調室で引き合わされ、検事の前で協議し、「伸一の了解」を得たことにしたというのだ。
 しかし、検事は約束を破り、小西も、伸一も、逮補されてしまった。その時から、大村たちの良心は、さすがに激しく痛んだようだ。大村たちは、自分たちのでたらめな供述によって、小西理事長が逮捕され、さらに、伸一まで逮捕されてしまった申し訳なさから、検察庁へ抗議に行ったのだった。
 大村たちは、検察庁で担当検事に、直接、会い、面と向かって詰問した。すると、検事は、「確かに、小西も山本も、逮捕しないという約束はしたが、私の力が及ばず、こういう結果になってしまって申し訳ない」と詫びたというのである。
 関西本部に、急速、呼ばれた小沢弁護士は、話を大村たちから聞くと、顔を真っ赤にして激昂した。
 「今の話に、間違いないんですね」
 小沢は、幾たびも念を押した。
 翌十二日、小沢は、大村たちと、春木征一郎や、東京から来ていた関久男、原山幸一を伴い、大阪地検に行き、小西武雄、山本伸一との面会を求めるとともに、関係検事との会見を要求したのである。
 小沢は、拘置所で伸一に面会した。面会室の金網越しに、彼は、まくしたてるように、いつになく興奮した様子で話した。そのうえ、面会時間が短いせいか、早口の東北弁となり、言語は明瞭さを欠き、伸一には、よく聞き取れなかった。
 「当局は、けしからん。……もう、妥協はやめだ。戦闘開始だ。うっかり謀略に乗るところだった。これで、すべてはご破算だから……」
 伸一が、わかったことといえば、この程度だった。珍しくいきり立つ小沢を、ただ怪訝な面持ちで見つめるしかなかった。
 一昨日、小沢は、執拗なまでに、「検事の言うようにせよ」と説いたばかりである。
 小沢と検事の聞に、何か起きたのだろうか。あるいは、戸田の健康上に、何か異変でもあったのだろうか。それとも、検事が約束を破り、学会本部の手入れを敢行したのだろうか――何か、容易ならざることが起こったのだろうが、伸一は、事態を理解しかねていた。
 小沢は、山本伸一に続いて、小西武雄と面会したあと、春木征一郎、原山幸一、関久男、それに大村たちを連れて、大阪地検の主住検事の部屋に行った。そこには、関係検事が、ほぼ全員集まっていた。
 小沢弁護士は、大村たちを廊下に待たせ、部屋に入ると、憤然として言った。
 「検事さん、あなた方は、ひどいじゃないですか。大村昌人たちから聞きましたが、山本伸一に罪を被せるように大村たちに言い、話のつじつまを合わせるために、協議までさせたそうじゃないですか。また、そうすれば、すぐに大村たちを釈放してやるし、小西も山本も逮捕しないと約束したと聞きました。これは、いったいどういうことなんですか!」
 詰め寄るように尋ねる小沢に、主任検事は冷静に答えた。
 「小沢さん、もう少し落ち着いて話してください。なんのことか、私には、さっぱりわかりませんが……。何か誤解があるようですな」
 小沢弁護士は、主任検事に怒りをあらわにして言った。
 「誤解ですと。とんでもない。廊下に証人として大村たちを待たせてある。ここに呼んでよく聞いてごらんなさい」
 「わかりました。さっそく調査しましょう。それで、検事から、そういう話があったというのはいつのことですか」
 「六月の二十一日です。取り調べの時に、検事に言われたと話している」
 「そうですか。わかりました。では、今日のところは、お引き取りください。そういう事実があったかどうか、詳しく調べますから」
 主任検事は、「調査」を連発するばかりだった。
 埒が明かないとみた小沢は、検事正の部屋を訪ね、ここでまた、大村たち被疑者と検事との一件を、詳細に説明した。
 「もし、あなたのおっしゃることが事実だとしたら、確かに問題ですな。でも、そんなことが、あるはずはないと思いますがね。ともかく、私どもとしても、よく調査してみましょう」
 検事正も、また「調査」である。小沢は、すぐに結論を出すよう主張した。
 「大村たちの供述の調書を取り寄せて、今すぐ、ここで調べていただきたい」
 小沢と検事正のやりとりを、側で聞いていた次席検事は、電話の受話器を手に取り、どこかと連絡を取っていた。そして、受話器を置くと、検事正に小声で、何かを報告した。検事正は、しきりに頷いていた。
 検事正は、小沢の方に向き直ると、穏やかに言った。
 「一日だけお待ち願いたい。明日の午後一時までには、必ず結論を出します」
 「絶対に、間違いはありませんね」
 「必ず、お約束は守りますよ」
 小沢は、やむなく引き下がった。
 この話は直ちに小沢から戸田城聖に伝えられた。
 「なんだと。そんなことをしていたのか! 学会を陥れる罠ではないか。許せんぞ。徹底して戦おうじゃないか」
 戸田の声は怒気を含み、悪に挑む満々たる闘志にあふれでいた。
16  この七月十二日夜、東京・蔵前の国技館は、雨のなか詰めかけた、相撲客ならぬ人の波で騒然としていた。場内は、満員で、さらに場外にも多くの人があふれ、参加者は四万人近かった。
 理事長・小西武雄、室長・山本伸一の不当逮捕を糾弾し、大阪地方検察庁に猛省を促すとともに、即時釈放を求める抗議集会が、東京大会として、急遽、開催されたのである。
 梅雨の蒸し暑さのうえに、詰めかけた会員の熱気が加わり、場内はうだるように暑かった。会場中央には、特設の舞台がつくられ、そこに戸田城聖をはじめとする首脳幹部が並んでいた。
 東京大会では、ひとまず落着をみた炭労問題について、秋月英介男子部長から報告があり、続いて十条潔から、小西理事長、山本室長の逮捕の経過報告がなされた。
 満員の場内にもかかわらず、咳ひとつ聞こえず、誰もが固唾をのんで耳を澄ましていた。
 「私たち学会員が、選挙に候補者を立てて支援するのは、どこまでも高潔なる人材を、金など使わずに、公明選挙をもって政界に送り出すためであります。また、公明、清潔な選挙運動こそが、学会のモットーであることは、皆さんが、よく知っている通りであります。
 しかし、あの大阪の『買収事件』が起こった。当時、私も大阪におりましたが、明日は、いよいよ投票日だという四月二十二日、尾山の名を書いたタバコや、百円札に尾山の名刺を貼ったものが、ばらまかれたのであります。さては他陣営の妨害だと思い、皆で犯人を捕まえようとしたのでありました。
 ところが、その後、この事件は、捜査が進むなかで、蒲田支部地区部長の大村君らの起こした事件であることが判明し、大村君は起訴されました。
 そして、犯人が学会員であったことから、理事長や室長が関与しているとされ、逮捕されてしまったのであります」
 十条は、事件の流れに沿って、かいつまんで事の真相を話していった。
 「しかし、この事件は、首謀者の大村君をはじめとする人びとが中心となって引き起こした事件であり、小西理事長も、山本室長も、そんなことをしろとは、言っていない。大村君個人が計画し、実行したものであります。
 大村君は、どこまでも勝たせたいと思う一心でやったと言っておりますが、ともかく、学会員にあるまじき、憎むべき違法行為であることは、言うまでもありません。しかも大村君らは、取り調べに際して、あたかも学会の命令でやったかのごとく供述をしてしまった」
 十条の言葉に、一段と力がこもっていった。
 「大村君らは、今になって、自分たちの犯した罪の大きさに気づき、前非を悔い、″一生かかっても罪の償いをしたい″と申しておりますが、それにつけても許しがたいのは、検察当局であります。当局は、これまでの調べで、金の出所などから、この事件は学会とは関係ないと、わかっていたはずである。
 また、山本室長には、戸別訪問の容疑もかけられておりますが、これも不可解極まりない。戸別訪問をした会員が逮捕されたのは、二カ月以上も前であり、もし、室長との間に謀議のようなものがあるというなら、その時点で取り調べが行われていなければならない。しかし、今日に至るまで事情聴取もなく、なぜか、ここにきて、急に山本室長を逮捕したのであります。
 つまり、なんらかの意図をもっての逮捕であると言わざるを得ない。
 まことに痛憤に耐えぬところであり、ここに検察当局の不法を糾弾し、両氏の釈放を、声を大にして要求するものであります」
 激しい拍手が起こった。憤激の拍手である。
 参加者は、学会によって、生きる希望と勇気の灯をともされ、宿命の悲哀の底から立ち上がった人びとである。
 ″権力は、自分たちに何をしてくれたというのか。平気で庶民を切り捨ててきたではないか。誰も手を差し伸べようとしなかった自分たちを、救ってくれたのは学会である。その学会の理事長や室長が、無実の罪で捕らえられた。権力は、牙をむいて学会に襲いかかってきたのだ。許してなるものか!″
 誰もが、そう感じていた。
 続いて、清原かつ指導部長が登壇した。除名処分の発表である。
 「次の者は、学会精神に反する行動により除名する」
 買収事件に加わった四十一人の氏名が、次々と読み上げられていった。大村たちのグループ全員である。
 除名者のなかには、地区部長の大村の指図のままに、動かざるを得なかった若い青年たちもいた。しかし、戸田城聖は、あえて全員を除名にしたのである。それは、このような事件を起こす者を、二度と再び学会員から出さないための戒めであり、厳愛の措置といえよう。戸田は、断腸の思いであったにちがいない。
 東京大会は、「大阪地検の不可解な行動を衝く」「大阪地検の一方的態度を批判す」「取締当局の猛省を促す」と題する糾弾が続いた。そして、再び清原が登壇し、「三類の強敵とわれらの前途」と題して語り、広宣流布に戦う者の覚悟を促した。
 登壇する幹部の話が進むにつれて、次第に事の本質が明らかにされていった。参加者は、遠く大阪の空を思い、獄窓にある山本伸一たちのことを思うと、当局の非道なやり方に、いたたまれぬ気持ちが募っていった。
 最後に、戸田城聖の指導となった。彼は、この日は、一方的な話に終わることを憂慮し、質問会とした。
 戸田は、この権力との闘争は、全員が心の底から納得し、立ち上がってこそ勝てる戦いであると考えていた。
 一人ひとりに、いささかでも疑問やわだかまりがあれば、勇気は湧かないし、本当の力を出すことはできない。偉大なる戦いの成否を決するものは、きめとまやかな納得の対話である。対話に尽きる。
 人間の真実の理解というものは、水が地中深く染み渡るような、命に染み入る語らいを通してのみ可能となる。そして、そこに決意も生まれる。勇気もみなぎる。
 戸田城聖が、質問会に踏み切ったのは、皮相的な指導にとどまり、同志の心が深くかみ合うことなく、空転することを恐れたからである。
 本来ならば、一人ひとりと膝詰めで語り合いたかった。だが、差し迫った今の状況が、それを許さなかった。
 戸田は、扇子で風を送りながら、場内をぐるりと見回した。質問の手が、場内の各所からあがった。
 最初に指名されたのは、年配の男性であった。
 「今度の事件は、白黒がはっきりしていると思います。非は、当局にあるのは明らかです。しかし、それに対する学会の態度は、私には、手ぬるいように思えてなりませんが、いかがでございましょうか」
 質問した壮年を見ながら、戸田は、「そう思うか。ありがとう」と言ってから、迫力のある声で語り始めた。
 「今度の戦いの相手というのは、戦後初めての、やっかいな相手です。炭労ぐらいならわけはないが、なにしろ今度の相手は、本当の権力だ。それとの闘争なんです。だがね、今日の報告では、ようやく勝ち目が見えてきた。
 というのは、首謀者の大村君や、事件に関係した者たちが、大いに後悔をし始めた。彼らは検事たちから、″理事長や室長は引っ張らないから、君たちはこう言え、言えば早く出してやる″と言われて、その通り供述してしまった。
 ところが、理事長も、室長も、引っ張られてしまったんだから、夜も眠れないぐらい苦しんだ。それで、彼らは、その事実を、こちらに打ち明けたんで、真相がわかってきた。実は、捜査当局に対する本格的な闘争を、今日、始めたんです」
 戸田の言葉に、一段と力がこもった。参加者は、息を凝らして聞いていた。
 「そりゃ、向こうだつて、そう簡単には引き下がりはしないでしょう。嘘の供述をさせ、それを根拠にして、学会の上層部に罪を被せようとしたことが明らかになったら、社会的にも大きな問題になるんだから。
 そこを突いて、今、戦っている。手ぬるいことなどしていません。
 七月十七日は、私の大阪での講義の日ですから、今度は、その日に、大阪の諸君に頼んで、また気勢をあげることになっています。それでだめなら、全国の同志に、集まってきてもらおうじゃないか!
 私は、何も悪いことなどしていないし、会長になった時から、この体は捨てるつもりでいるんだから、何も怖くありません。悪に対しては、断固、糾弾していきます。それで、五年や十年、また牢獄に入ったって、いっこうに構いません。でも、その時は差し入れだけはしてくれたまえ」
 激昂した戸田の言葉を、人びとは、体を硬くして聞いていたが、最後のユーモアに、どっと笑い声があがり、たちまち心はほぐれた。
 次は、青年の質問だった。
 「小西理事長や山本室長を、無実の罪に陥れた大村たちは除名処分になりましたが、私の気持ちとしては、それだけですませるわけにはいきません。さらに厳しい処置、処分はないのでしょうか」
 純粋そうな青年であった。
 「そう言うが、除名処分以外に、なんの権利がこちらにありますか。まさか、殴りにいこうというわけにもいかんだろう」
 また、笑い声があがった。だが、戸田城聖の表情は厳しかった。
 「学会から除名になるということは、これは本当に恐ろしいことなんです。世間一般の団体や会社をクビになるのとは、わけが違います。会社なら別の仕事を探せばすむが、仏意仏勅の団体がどこにありますか。
 日蓮大聖人の御精神の根本は、広宣流布です。その御精神を受け継ぎ、仰せのままに広宣流布をしてきた教団は、学会以外にありません。その証拠には、誰が大難を受けましたか。戦時中のことを考えてみなさい。学会は大弾圧を受け、牧口先生は獄死されているではないか!
 皆、口ではうまいことを言う。また、立派そうなことも言う。しかし、不惜身命の精神で、妙法広布に殉じようとはしない。難を受けなかったということは、本気になって広宣流布をしなかったからです。いや、できなかったのだ」
 凛とした声であった。戸田の気迫が場内を圧した。
 「白法隠没というが、釈尊の仏法だけではなく、日蓮大聖人の仏法も、七百年にして、まさに隠没せんとしていたんです。しかし、牧口先生によって、大聖人の御精神は守られ、学会によって、大聖人の仏法は再び隆昌した。実に不思議なことです。大聖人が、創価学会を召し出されたのでありましょう。
 将来のためにも、はっきり断言しておきます。この学会の信心以外に、大聖人の御心に適う信心などありません。御本尊の本当の功力もありません」
 戸田の声は、烈々たる確信に満ちていた。
 「その学会から除名される。かわいそうといえば、これほどかわいそうなことはない。創価学会に入れたということは、偉大なる功徳、福運によって仏意仏勅を賜り、地涌の菩薩として、この世に出現したということです。しかるに、除名になるということは、その尊い使命を失うということにほかならない。それは、いつか、必ずわかる」
 場内は、張りつめた空気につつまれていた。皆、息をのんで戸田の次の言葉を待った。
 「この前、あるところで、一人の班長が妙な野心を起こして、無知な会員を巻き込んで、向こうから学会脱退を申し込んできた。その時に、私は言ってやった。脱退もよろしい。ただし三年後を見ようじゃないか、と。三年後の向こうの状態を調べてごらんなさい。仏法は勝負だよ」
 戸田城聖は、叫ぶように言った。
 「仏法の勝負は厳しいぞ! やがて、すべては明確になる。学会に敵対するならば、いかなる者であれ、大聖人様が許しませんよ。その確信がなければ、学会の会長なんでできません。まあ、ゆっくり見ていてごらんなさい。
 それにしても、自分から学会を出ていくなんて、あまりにも愚かなことです。あとで、どんなに悔やんでも、悔やみきれん。上役と喧嘩して会社を辞めても、収入の道が断たれるだけで、その苦しみは一時的なものです。しかし、学会に敵対したら、そうはいかんよ。生々世々にわたって、福運の道を断ち、苦しみ抜かねばなりません。私は、それがかわいそうでならない。だから、今、そのことを教えておきたい」
 戸田の厳たる指導は、参加者の心に、熱き信心の闘魂を燃え上がらせていった。
 次に指名された質問者は、気負い込んで早口で尋ねた。戸田は耳に手をあてたが、なかなか聞き取れなかった。何度か質問は繰り返された。
 「理事長、室長が牢獄に入っておりますが、このお二人を出すために、創価学会として、どのような戦い、方法を考えているのでしょうか」
 戸田城聖は、質問を聞くと、力強く言った。
 「全力をあげて、戦おうとしているところだ。今、既にいろいろな面から戦いを始めています。おめおめ負けてたまるものか!
 だが、なんといっても、相手は権力です。そう簡単にはいかないんだよ。もうちょっと辛抱してください。いざとなったら、また、皆にも応援を頼みます。派手に抗議集会でもやろうじゃないか。その時は、旗ぐらい持ってきてもいいが、あまり金がかからないように、ムシロの旗ぐらいにしよう。
 でも、今は東京には、あまりムシロもないから、破れたゴザに紙でも張って、担いで来てくれよ。私も体を張ってやります」
 やがて、質問会は終わった。
 戸田城聖は、辛労と暑さのために疲労していたが、壇上に上がった彼は、はつらつとしていた。人びとに、なんの不安も感じさせなかった。大会は、笑いを交えながらも、凛として戦い挑む戸田の熱情につつまれていた。
 東京大会に集った四万人の会員は、頬を上気させ、今、権力の魔性への戦いを開始しようとしていた。
 学会に降りかかった大難に、真正面から体当たりする決意と信念から生じた戸田の気迫が、同志の胸に響き渡り、義憤となって燃え上がったのである。
 式次第は、学会歌の大合唱に移った。大阪で囚われの身となっている、小西武雄と山本伸一の耳に届けとばかりに、皆、力いっぱいに歌った。
 外は、まだ雨が降り続いていたが、家路をたどる同志の胸中は晴れ渡り、心の空には、大月天が輝いていた。大明星天が微笑んでいた。
17  小沢弁護士は、約束の翌七月十三日午後一時、勇んで大阪地検の検事正を訪ねた。
 検事正は、意外に落ち着いていた。
 「小沢さん、さっそく調べてみましたよ。あなたのおっしゃる大村たちが、検事と相談してつくったという調書は、確か六月二十一日ということでしたね。ところが、それ以前の調書にも、同じ内容の供述があるんですよ」
 「それはおかしい」
 「しかし、調書には確かにあります。まあ、ともあれ、山本の供述も間もなく一段落しますから、二人とも釈放しますよ。なにか七月十七日に公会堂で大会があるようですが、山本伸一は、それまでには釈放しましょう。小西武雄の方は、さらに一日、二日早くなるでしょう。ご安心ください」
 小沢は、この話に希望の光明を見いだした。彼は、ともかく一日も早く、釈放させることが先決問題であると考えていた。
 やはり、昨日の厳重抗議が、功を奏したのかもしれないと思った。十七日といえば、四日間の辛抱である。これで、小西、山本の早期釈放も可能となり、戸田城聖も一安心するであろうことを思うと、安堵感を覚えた。
 一方、山本伸一は、十二日朝の小沢弁護士との面会のあと、一人、独房にあって、小沢が何を言おうとしていたのか考え続けていた。
 ″検事に迎合せよ、と言って二日後には、騙された、戦闘開始だと言う。何かとんでもない異変が起こったことは確かなようだ。しかし、いったい何が……″
 不穏な事態が生じているように思えたが、考えれば考えるほど、わからなかった。
 伸一は、熟慮の末、主任検事と面談したい旨、申し入れた。面談できたのは、夕刻近かった。
 彼は、主任検事と机を挟んで相対した。
 「私の件で、何か状況の変化でもあったのでしょうか」
 はやる心を抑えながら、伸一は平静に質問した。
 「別に、何も変わったことはない。私は、君との約束は守るつもりだから、君の方も、早く供述をすませてくれないとね」
 主任検事の口調からは、事態の大きな変化はないように思えた。
 伸一は、身を乗り出すと、主任検事に言った。
 「もう一度、小沢弁護士に会って話をしたいんです」
 「彼は、いないよ。確か、東京に戻ったのではないか。今ごろは飛行機の中か、あるいは、もう東京に着いているかもしれんな」
 しかし、この時、小沢は大阪にいたのである。主任検事は、小沢と伸一が会うことによって、伸一が供述を拒み、事態が紛糾することを恐れていたのかもしれない。
 伸一は尋ねた。
 「実は、小沢弁護士の話では、″すべては、ご破算になった″とのことなんですが、何かご破算になったようなことが、あったのでしょうか」
 主任検事は、怪訝そうな顔で伸一に言った。
 「実は、小沢弁護士は、私たちにも″ご破算だ″とか言っていたが、それがよくわからんのだよ」
 そして、伸一の表情をうかがいながら話を続けた。
 「私たちの考えは、何一つ変わっていない。約束通りに事が運ばなければ、大東商工も、学会本部も、捜索しなければならんし、戸田も引っ張らなければならない。君は、あれとれ考えるよりも、ともかく供述を急いでくれたまえ。事態は差し迫っているんだからね」
 主任検事は、席を立った。
 伸一は、まだ戸田城聖を逮捕するという最悪の事態にはいたっていないことを知り、内心ほっとしていた。
 「あと一つだけ、お聞きします。私が、あなたたちの言うように供述すれば、本当に、戸田先生の逮捕や学会本部の捜索はないのですね」
 「君もくどいね。約束は守ると言っているじゃないか」
 伸一は、この言葉に安心した。彼は、戸田を獄舎に送り、愛する同志たちを、これ以上苦しめることだけは、なんとしても避けようと、心に決めていたからである。伸一の苦衷は、次第に和らぎつつあった。
 ただ、学会の正義だけは、なんとしても証明しなくてはならないと思った。そのために彼は、呻吟の末に、法廷ですべてを明らかにし、裁判に一切をかけようとしていた。伸一は、罪を一身に背負う覚悟はできていたが、学会の正義を証明するためには、無実を明らかにしなければならないことを、痛感していたのである。
 今、彼は、ひとたび権力に敗れることを余儀なくされていた。しかし、断じて、そのまま屈するわけにはいかなかった。ここで違反行為を認めてしまえば、それを法廷で覆すことは、容易ならざる戦いとなろう。だが、もはや、ほかに道はなかった。最後の勝利に向かい、伸一の、権力との本格的な闘争は、この時から開始されたといえよう。
 伸一の供述が始まった。彼は、悔しさに身を震わせながら、遂に違反を認めたのである。痛恨の思いであった。しかし、自ら決断した、やむなき選択であった。
 検察は、ともかく起訴に持ち込めるだけの供述を取り、早く伸一を釈放してしまおうとの方針を固めていたようである。大村昌人たちに嘘の供述をさせ、それを根拠に、山本伸一を逮捕したことが問題になるのを、恐れていたのであろう。
 検事たちは、十七日には、中之島の大阪市中央公会堂で、抗議集会が開催されることを知っていただけに、穏便に事を終わらせたいと考えていたようであった。
 大村たちの虚偽の供述をもとに、伸一を逮捕したことを知った同志の怒りは、日ごとに募り、糾弾の声は高まっていった。
18  一方、蔵前国技館での東京大会を終えた戸田城聖は、自ら大阪地検に乗り込むことを決意していた。
 彼は、青年部の幹部を伴い、大阪に行くと、関西総支部長の春木征一郎、既に大阪入りしていた関久男らと共に、検事正に面会を求めた。
 戸田の体は弱り、自分の力だけでは、地検の階段を上ることも、ままならなかった。同行の幹部に両側から支えられ、喘ぐように肩で息をし、よろめきながら、一段一段、階段を上った。戸田の額には、びっしょりと汗がにじみ出ていた。
 彼は、できることなら、伸一に代わって、自分が牢獄に入ろうとさえ覚悟していた。弟子のために、命を投げ出すことも恐れぬ師であった。
 戸田は、検事正に迫った。
 「なぜ、無実の弟子を、いつまでも牢獄に閉じ込めておくのか! 私の逮捕が狙いなら、今すぐ、私を逮捕しなさい」
 そして、伸一の一刻も早い釈放を求めたのである。
 地検を後にした戸田は、悔しそうにつぶやいた。
 「伸一が、何も罪など犯していないことは、あの人柄を見れば、よくわかるじゃないか!」
 師のために、自らが犠牲になることも恐れぬ弟子。弟子のために、自ら牢獄に入ることも辞さない師――この師弟の結合こそが、創価の金剛の生命線なのである。
 程なく検察は、「山本伸一を、十七日午前中には釈放できるであろう」と伝えてきた。
19  七月十七日――。大阪拘置所の門の前には、朝早くから、開襟シャツやブラウス姿の学会員が、あちこちに見られた。その人影は次第に増え始め、正午近くになると、高いコンクリートの塀に沿って、数百人の人垣がつくられた。人びとは、暑い日差しのなかで汗をぬぐいながら、山本伸一の釈放を、今か、今かと、待っていた。
 伸一の妻の峯子もいた。東京の青年部の幹部や、文京支部の幹部たちもいた。地元の関西の幹部たちは、ほとんど、ここに集まって来ていた。どの顔も、事件が、一応、落着し、伸一が姿を見せることへの期待と、不当な当局に対する憤懣とが交錯した、複雑な表情であった。
 川を挟んで対岸に立つ、中之島の大阪市中央公会堂の付近にも、大阪大会は夕刻の開会だというのに、学会員の姿があちこちに見られた。
 その川岸では、音楽隊が朝から、拘置所の方に向かつて、力の限りに学会歌を演奏していた。青年たちの顔には、汗が噴き出ていた。獄中の山本室長に届けと、満身の情熱を込めての演奏であった。
 立ち並ぶ人たちは、ちらちらと腕時計をのぞきながら、伸一を待っていた。時計の針は、間もなく正午を指そうとしていた。伸一は現れない。一分一分が、途方もなく長く感じられ、じりじりしながら、人びとは拘置所の門を見た。
 「本当に釈放されるんやろか」
 「病気でも、されたんと違うやろか」
 不安そうに、ささやきを交わす人もいた。
 暑いさなかの、十五日間にわたる獄中生活である。取り調べも過酷なものであったことを耳にしてきた同志たちは、伸一が、どれほど疲労困癒しているかを思うと、何よりも、その安否が気がかりでならなかった。
 正午を十分ほど過ぎたころ、どっと人波が揺れた。拘置所の出口から、開襟シャツ姿の山本伸一が現れた。歓声があがり、拍手が湧き起こった。
 「室長!」
 出迎えた同志たちは、汗と涙で、顔をくしゃくしゃにしながら、口々に叫んだ。
 伸一は、にっこり微笑み、一人ひとりに視線を注いだ。
 「ありがとう。ご心配をおかけしました。私はこのように元気です!」
 幾分、やつれては見えたが、まばゆい笑顔を浮かべて、会釈を返しながら歩く姿は、威風堂々とした、いつもの伸一であった。
 期せずして、出迎えの人垣から、「万歳!」があがった。
 声を張り上げ、力いっぱいに両手を振り上げる同志の目には、陽光に映えた金色の涙が、キラリと光っていた。
 山本伸一の動きにつれて、拘置所前の人垣は徐々に移動していった。伸一は、大通りに出ると、照り輝く太陽を浴びて、大きく深呼吸した。
 束縛を解かれ、自由の空気を吸った彼は、生命の活力を蘇生させていった。
 伸一は、間もなく、戸田城聖が伊丹空港に到着することを聞くと、直ちに空港に駆けつけていった。
 一刻も早く、戸田の顔が見たかった。はやる心を抑えながら、戸田の到着を待った。
 空港のアナウンスが、飛行機の到着を伝えた。しばらくすると、搭乗客が出てきた。伸一が一人ひとりに視線を絞って見ていると、戸田の姿が現れた。いつもの活発な足さばきとは違い、どこか、おぼつかない歩き方だった。
 戸田は、伸一の姿を認めて、にっこり笑いかけた時、伸一は、二週間前よりも、さらに戸田が憔悴しているのを見て、胸を突かれた。
 「先生!」
 「おお、伸一……」
 二人は、互いの顔を、しげしげと見つめ合った。
 伸一は、戸田のこめかみの肉が、急に落ちていることに気づいた。痛々しいとさえ思ったが、戸田の声は、伸一を前にして、力強く元気に弾んでいた。
 「よかった、よかった!」
 「先生、大変にご心配をおかけしました。申し訳ございません」
 「それより、体は大丈夫か」
 もともと体の弱い伸一の体調が、気がかりでならなかったのだ。伸一は、憔悴した師の深い心遣いに、目頭が熱くなったが、それをこらえて言った。
 「はい、大丈夫です。負けません。先生の出獄の日に、私は牢に入ったんですから」
 戸田は、黙って頷いた。その目に光が走った。
 「伸一君、戦いは、これからだよ。御本尊様は、すべてわかっていらっしゃる。勝負は裁判だ。裁判長は、必ずわかるはずだ。裁判長に真実をわかってもらえれば、それでいいじゃないか」
 戸田は、伸一の心の一切を知っているかのようであった。
 関西本部に着くと、戸田は、伸一をはじめ幹部たちに、かき氷を取り寄せて振る舞った。冷たい氷を口にした時、伸一には、その真心が痛いほど染みた。
 やがて、伸一が会長室の戸田のもとに行くと、小沢清をはじめ、関係の弁護士がやって来た。戸田は、小沢に向かって、単刀直入に聞いた。
 「伸一は、どうなりますか」
 小沢は答えた。
 「かなり証言もそろっているようですから、切り崩すのは、決して容易ではないでしょうな」
 「有罪だとしたら、どのくらい入ることになりますか」
 「さあ……」
 「法律家の常識的なところでは、どうですか」
 小沢は答えなかったが、別の弁護士が、首をかしげながらいった。
 「いろいろな考え方ができますが、まぁ、最低六カ月は覚悟した方がよいでしょう」
 伸一は、弁護士の言葉を聞くと憮然とした。
 ″私は、無実なのだ。それで罪に落とされてたまるものか。無実の者は、当然、無罪でなければならない!″
 伸一は、こう叫びたかった。戸田も、一瞬、むっとした表情になったが、すぐに笑いを浮かべて言った。
 「ほう、泣く子と検察には勝てぬというわけですな。まぁ、皆さん、よろしく、お願いしますよ。裁判は、執念と忍耐を必要としますから、辛抱強く戦ってください」
 戸田は、こう語ると、思いもかけないことを言いだした。
 「今だから言うが、実は、今日、伸一が釈放にならなかったら、大変な騒動になっていたでしょうな。
 大阪大会を、今日、開いて、埒が明かなかったら、この大阪で、全国大会をやろうと思っていたんです。そのことを支部長たちに言ったら、彼らは有志を大勢引き連れて参加するから、ぜひとも大々的な集会にしてほしい、と言ってきた。
 そうなれば、何十万人も、この大阪に集まることになってしまったでしょう」
 弁護士たちは、目を丸くして、戸田を見つめていた。
 「私は、そんなに来たら、泊まるところもないじゃないかと言ったんだが、″テントを張ればよい″と言う。そして、ムシロ旗を立てて抗議集会をし、それから大阪地検にデモし、どっと押しかけようというわけですよ」
 小沢が、「うーん」とうなりながら腕を組んだ。
 戸田は、愉快そうに話を続けた。
 「そうなると、『警察も出てきて、ピストルぐらい発砲するかもしれない』と言う者があったから、私は言ったのだ。『武器を持つわけにはいかないから、心配ならマキザッボウ(薪雑把)でも持って来なさい』とね。
 警察がピストルを向けるようなら、その時は、私が先頭に立って乗り込めばよい。もともと悪いのは向こうなんだし、私は、決して恐れませんよ。もし、そんな大騒動が起こったとしたら、私は、いったい、どのくらい入ればいいのかね」
 戸田の話を、弁護士たちは唖然として聞いていた。戸田は、無実の罪に陥れようとする権力と戦う決意を吐露することによって、弁護士たちの裁判に臨む闘争心を鼓舞したかったのかもしれない。
 「そんなことが実際に起きたとしたら、小競り合い、ぐらいではすまなくなるだろうから、双方ともに負傷者も出る。すると、戸田会長は、相当、長いこと入るようになるでしょうな」
 すると、戸田は、からからと大声で笑いだした。
 「そりゃ、かなわん。だが、事と次第によっては決行しようかと考えていたんです。まあ、投獄された時は、差し入れだけはしてくれるように、皆には頼んでおきましたがね」
 戸田も、弁護士も、爆笑した。
 山本伸一は、自分のために、命を捨てて戦おうとした戸田城聖の決心を知り、深い感動を覚えた。
 ″先生は、それほどまでに私のことを……。なんという慈愛なのだ。なんという先生なのだ。私は、この先生を、生涯、お守りしなければならない。先生のためにも、断じて無罪を勝ち取ろう!
 師と弟子の心の弦は、人知れず共鳴の調べを奏で、伸一の胸は感激に震えていた。彼は、愉快そうに笑う戸田の顔をまじまじと見ながら、無量の幸せをかみしめていたのである。
20  大阪大会の会場となった中之島の公会堂は、昼過ぎになると、周辺に人の群れができ、時とともに膨大な人数になっていった。多くは関西の会員たちで、京都や奈良、兵庫、和歌山などから来た会員もいる。さらに、中国や四国、九州から勇んで駆けつけて来た人もいた。
 午後四時には、場内は満員となり、あふれた会員たちは、公会堂前の広場を埋めていった。
 小西武雄理事長、山本伸一室長の不当逮捕に、歯ぎしりする思いで、悔し涙をこらえにこらえ、迎えた大会である。
 ″室長が、学会が、何をしたというのだ! 民衆の幸せを願い、社会のために行動してきた学会の、どこがいけないというのだ!″
 参加者の胸には、不当の権力への義憤の″るつぼ″となってたぎっていた。
 午後六時、開会が宣言された。
 式次第は、北海道の炭労問題の報告から始まり、今回の大阪事件の概要が語られたあと、小西と伸一の、逮捕から釈放にいたった経緯などが報告された。
 やがて、外は、にわかに空が暗くなり、雨が降り始めたかと思うと、瞬く聞に激しい豪雨となり、横なぐりの風が吹き荒れた。
 稲妻が黒雲を引き裂き、雷鳴が轟いた。
 大地を揺るがすかのような轟音である。対岸の大阪地検のある建物の方向に、火柱のような閃光が相次ぎ走り、驟雨のなかに、赤レンガの壁が映し出された。その光景は、鬼神の怒りを思わせもした。
 激しい雷雨にさらされながらも、場外を埋めた人びとは、誰一人、立ち去ろうとはしなかった。
 場外には、スピーカーが特設されていたが、声は、激しい雨の音にかき消されていった。人びとは、ずぶ濡れになりながら、全身を耳にして、スピーカーから流れる声を聞き取ろうとしていた。
 豪雨のなかに、大歓声と大拍手が響き渡った。山本室長の登壇である。雨は、さらに激しさを増し、滝のように大地を叩きつけていた。
 場内に、伸一の元気な声が響き渡った。
 「皆様、大変にしばらくでございました」
 堂々たる、力強い声であった。
 彼は、同志に心配をかけたことを謝すとともに、この日、正午に、元気いっぱいに拘置所を出てきたことを告げた。
 場外の人びとは、豪雨のなかで伸一の声を聞き、安堵と喜悦に、われを忘れて拍手を送った。伸一が逮捕されて以来、胸を痛め、苦しみ抜いてきた同志は、感極まり、雨にまみれながら目頭をぬぐった。
 伸一は、胸中に、ふつふつとたぎる大確信を、言葉に託して放った。
 「すべてのことは、御本尊様がお見通しであると、私は信ずるものであります。
 戸田先生は、『三類の強敵のなかにも僧聖増上慢が現れてきた』――このように言われておりますが、『大悪をこれば大善きたる』との、日蓮大聖人様の御金言を確信し、私もさらに、強盛な信心を奮い起こし、皆様と共に、広宣流布に邁進する決心であります。
 最後は、信心しきったものが、御本尊様を受持しきったものが、また、正しい仏法が、必ず勝つという信念でやろうではありませんか!
 どうか、戸田先生のまことの弟子として、お互いに、ますます信心を磨いて、絶対的幸福をつかむためにも、大聖人様の御遺命であり、御予言である広宣流布を成就するためにも、一生懸命に闘い抜いていくことを誓い合い、あいさつに代えます」
 怒濤のような、大拍手が湧き起こった。
 簡潔なあいさつであった。しかし、火を噴くような、師子吼を思わせる生命の叫びであった。その一言一言は、怒りに燃え、悲しみに沈んでいた人びとを安堵させ、奮起をもたらし、限りない自信を与えた。
 泣いた。誰もが泣いていた。鳴咽する人もあった。辺りをはばからず、号泣する人もあった。しかし、それは、もはや悲哀の涙ではなかった。権力の魔性に挑まんとする伸一の、気迫と確信に共鳴し、打ち震える、生命からほとばしる感涙であった。
 激しかった雨は、伸一のあいさつが終わるころには、急に小降りになった。
 続いて、小西理事長の登壇となった。小西は、二日前の十五日に釈放されていた。
 「今回の事件につきましては、全国の同志の皆様をはじめ、特に地元の大阪の皆様方には、大変なご心配をおかけいたしました。また、いろいろとご声援もいただきまして、本当にありがたく、衷心より感謝いたす次第であります」
 小西は、落ち着きのある声で語っていった。
 「わずかな期間でありましたが、初めての経験をいたしました。″毒を変じて薬にする″という御教え通り、この経験を、必ず私の信心のうえに生かしてまいります。そして、皆様からいただきましたご厚志に対して、報いてまいりたいと決意する次第でございます」
 小西は、参加者に重ねて感謝の意を表して、話を結んだ。
 そのころには、野外の雨はすっかり上がり、夕暮れの空に、束の問、淡い虹がかかった。それは、苦渋と憤怒の嵐のあとに、伸一と小西の釈放の喜びをかみしめる、晴れやかな同志の心を、象徴しているかのようでもあった。
 しかし、場内で、スピーカーから流れる声に、真剣に耳を傾けていた人びとは、虹には、ほとんど気づかなかった。
21  いよいよ、戸田城聖の登壇となった。人びとの拍手に、一段と力がこもった。
 戸田は、いささかやつれて見えたが、その声には、岩をも砕かんばかりの気力があふれでいた。
 「今度の事件は、学会としては、大変、大きな事件のようにも見えるけれども、理事長や室長が、十日や十五日入ってきたなんていうことは、蚊に刺されたようなもんです。私なんか、戦争中に二年だからな」
 戸田は、ゆったりとした口調で話しだした。
 「今回、妙悟空というぺンネームで出した『人間革命』という小説のなかで、私の体験を書いておいたので、お読みくださった方もあろうかと思うが、二年間の牢獄生活というのは、ちょっと長いですよ。それも戦時中だ。
 二年間ぐらい入ってくると、何もおっかないものがなくなる。私も、正法のためなら、もう一回ぐらい牢獄に入りたいものだと思っているんです。だから、いつ私を引っ張ってもかまわんが、その代わり、あとが怖いぞ。この戸田は、大聖人様の御遺命である広宣流布をなそうとする、仏子の総帥なんだから」
 彼は、聴衆を笑わせながら、創価学会の会長としての覚悟のほどを示した。
 「私は、今日までに二人が釈放されなければ、この大会に続いて、全国大会を大阪で開くつもりでいました。しかし、各地から来たいという有志の数は、ざっと計算しても、十万を超えてしまう。ここには、そんなに集まれないし、一段落したので地方の同志は集めないことにしましたが、それでよかったと思っています。泊まる場所もないんだから。その代わり、大阪名物の粟オコシは売れないことになってしまった。すまんことです。
 まぁ、こっちだけ話していたんでは一方通行になってしまい、あなた方も不満であると思うから、聞きたいことがあったら、思うままに私に聞いてください。今日は質問会としよう」
 戸田は、極めて自然に、質問会へと話を移していった。
 場内のあちこちから、質問の手があがった。事件は、一応の決着をみたあとだけに、東京大会のような、切羽詰まった質問はなかった。
 なぜ世間は、学会の正しさを知ろうとしないのか、といった質問が続いた。
 戸田城聖は、その一つ一つに、ユーモアを交えながら、確信あふれる答えを返していった。
 次に、今回の事件の、マスコミの報道について質問が出た。
 「今回の事件と関連して、創価学会のことを、新聞がさまざまに書き立てていますが、事実と著しく違っています。それを正すために、学会として声明書を出し、謝罪をさせるべきではないかと思いますが、いかがなものでございましょうか」
 期せずして、賛同の拍手が湧き起こった。誰もが、偏見に満ちた報道に憤り、悔し涙をとらえてきたからである。
 戸田は、軽く頷いて、質問者の方に顔を向けながら話し始めた。
 「その気持ちはわかるし、今の質問は、もっともだと思う。しかし、この大会自体が、天下に対しての学会の声明じゃないか。
 彼らは、声明書なんて出したって、謝罪はしませんよ。間違った報道をして、訂正を出す時のやり方を見てごらんなさい。書く時は四段抜き、五段抜きでデカデカとやるのに、訂正する時は、小さな活字で、隅っこの方に、なるべく目立たないようにしか出さないじゃないか。″嘘を書いたから勘弁してくれ″と大々的にやったら、新聞は売れなくなってしまう。だから、彼らに謝れというのも無理な話ですよ。
 別に、何を書かれようが、痛くもかゆくもないじゃないか。ただで宣伝をしてもらっていると思えば腹も立つまい」
 笑いが広がった。
 戸田は、心ない中傷記事に、どれほど会員が悔しい思いをしてきたかを、よく知っていた。しかし、そんなことで一喜一憂しているようでは、万年の基礎をつくりゆく、広宣流布の本当の戦はできないことを教えたかった。
 「彼らに、いかなる信念がありますか。ひとたび戦争になれば戦争を賛美し、平和が訪れれば平和主義者に早変わりする。所詮、信なき言論は煙のようなものです。
 大聖人は、『世間の留難来るとも・とりあへ給うべからず』と仰せだが、新聞の中傷記事なんて、留難にも入らない、ささいな問題です。そんなことに紛動され、退転していくなら、自由にしてください。まず、何があっても微動だにしない大確信、大境涯に立つことが根本です。
 そして、そのうえで、破折すべきことは徹底して破折していくんです。黙っていれば、世間は、それが真実だと思い込んでしまう。『いかなる事ありとも・すこしもたゆむ事なかれ、いよいよ・はりあげてせむべし』というのが、折伏の精神です」
 戸田城聖は、創価学会が大きくなればなるほど、さまざまな意図のもとに、一部のマスコミの、学会への非難、中傷は、さらに激しさを増していくであろうことを予測していた。
 その時のためにも、言っておくべきことは、言っておかねばならないと思った。
 会場には、各紙の記者も来ていたであろう。しかし、彼は、何もつつみ隠そうとはしなかった。
 「今回の新聞の報道を見ていると、伝聞や推測で、ものを言っているが、われわれは自分で体験し、学会の真実を知っているんだから、こっちの方が強いに決まっています。言論戦といったって、活字だけじゃありません。肉声こそ、最大の言論じゃないか。正義が、嘘八百に負けてたまるもんですか!
 ″また、こんな悪口を書かれたら、周りから、なんだかんだと言われるだろう。いやだな″なんて思ったら負けです。戦わずして、臆病という自らの心中の賊に敗れているんです。そんな者は、戸田の弟子ではありません。真の仏法者でもない。むしろ、世間の誤った認識を正す絶好のチャンスではないか。
 正義は勝つというが、必ずしも勝つとは限りません。戦わなければ正義も敗れる。学会は、正義なればこそ、負けるわけにはいかん。断じて勝たねばならない。だから戦っていくんです。師子はね、吠えてこそ師子なんです。スピッツのように、いつもキャンキヤン吠えていても仕方ないが、眠れる師子では犬にも劣ってしまうぞ」
 戸田の話は、なす術がわからず、ただ悔しさをかみしめるだけだった参加者の胸に、勇気の光となって、注がれていった
 「考えてもみなさい。これほどマスコミが騒ぎ立てる宗教団体というのも、珍しいじゃないか。真言宗や浄土宗が書かれていますか。
 いろいろ書かれるということは、学会が生きている宗教である証明じゃないか。ただ、その書き方に少し問題はあるがね」
 笑いが起こった。明るい笑いであった。
 「私は、いつも思うんだが、たまたま学会員が何かすると、すぐ、創価学会がこうやった、ああやったと書き立てる。新聞が公平な報道をするというのなら、すべての事件、事故に、その人物の宗教名を出せばよい。そうしていけば、その宗教の力は自然に明確になっていくにちがいない。そうすれば面白いがな」
 そして、戸田は宣言するように言った。
 「世間も、学会の真実の姿というものを知れば、偏見に満ちた報道など誰も信じなくなるし、そんな新聞は買わなくなる。各紙が争って学会の真実を、すばらしさを報道せざるを得ない時代が来ます。それが本当の勝負だ。
 だから、謝罪などと騒ぐ必要はない。まぁ、世の中には、臍曲がりはいつもいるから、それでも悪口を書くところもあるだろうが、それ自体が低俗紙であることの証明になるという時代が、必ず来るだろう」
 戸田城聖の話に、参加者は、胸のすくような痛快さを覚えていった。
 このありのままの学会の姿を、自信をもって語り抜いていこう――誰もがそう決意していた。
 ここで、次の質問者が立った。
 「今の新聞は信用できませんから、聖教新聞を週二回出すようにしていただけませんでしょうか」
 当時、聖教新聞は週一回の発行であった。
 戸田は、これを聞いて笑いだした。
 「おいおい、あんまり無理なことを言うなよ。週一回でも、皆がよく読めば、十回分くらいの中身はあります。
 新聞は社会の鏡といわれるが、一般紙は悲惨な事件や事故のニュースばかりだ。世の中が不幸であることは、よくわかるが、では、どうすれば幸福になれるかは、何も答えていない。
 しかし、聖教新聞には、幸福への道が書かれている。仏法の眼から、社会の現象を、どうとらえていけばよいのかも書いてあります。こんな新聞は、ほかにはありません。私はね、この新聞を、日本中、いや、世界中の人に読ませたいんです。それ自体が、仏縁を結ぶことになるじゃないか。つまり、折伏に通じていくんです。
 やがては聖教も、週二回にも、三回にもなるだろうし、毎日、発行する日も必ず来ます。それまで、しばらくは辛抱してくださいよ」
 戸田は、ここで質問会を打ち切った。そして、席に戻りかけたが、またマイクに顔を近づけた。
 「あとのことは、もう心配しなくてよいから、しっかりお題目をあげて、皆さんが幸福になることです。それが、私の願望の根本です」
 温かい一言であった。参加者は、戸田の慈愛に、ほのぼのとした思いをいだきながら、声高く学会歌を合唱した。
 大阪大会は、これで一切の式次第を終了したが、場外の一万数千の同志は、そのまま立ち尽くしていた。一目、小西武雄と山本伸一の姿が見たかったからだ。
 辺りは、既に闇につつまれ、公会堂の窓という窓から光が漏れ、車寄せの両端の外灯がひときわ輝き、場外を埋めた人びとの顔を照らし出していた。
 夜の堂島川には、対岸の建物の灯が映り、波間に揺れていた。川面を渡る風がさわやかだった。
 急に激しい拍手が湧き起こり、歓声があがった。見ると、玄関の上の二階の窓から山本伸一が身を乗り出して、扇を振っていた。傍らには小西もいる。
 二人はマイクを手に、場外の人びとに向かい、簡単なあいさつをすると、大きく両手をかざした。大歓声と大拍手につつまれた。
 音楽隊が玄関前に出てきて、学会歌を演奏し始めた。場内にいた人びとが、外に出始めたが、音楽隊の演奏に足を止め、車寄せの周りに人垣ができていった。
 この日、朝から演奏を続けていた音楽隊は、最後の力を振り絞るように、ここぞとばかりに、高らかに躍動の調べを奏でた。力強く「日本男子の歌」が演奏された。ドラムを叩く人の手にはマメができ、吹奏者は唇を腫らしていた。
 その時、山本伸一が、玄関口に姿を現した。彼は、さっと表の階段横の石の上にあがると、扇子を手に歌の指揮を執った。
 伸一は、自分のために嘆き、悲しみ、怒り、祈ってくれた、この関西の同志を、心から励まし、勇気づけたかった。たちまち大合唱が起こり、歌声は公会堂をつつみ、夜空に舞った。
 音楽隊は、一つ学会歌が終わると、次の学会歌へと移り、小西武雄も指揮に加わった。二人の指揮による学会歌の合唱は、対岸の大阪地検に届けとばかりに、いつまでも続いた。歌い続けるうちに、同志の憤怒は歓喜へと変わっていった。
 やがて、会員たちが中之島の公会堂を後にしたころには、伸一は、腕が上がらないほど疲れていた。しかし、心地よい疲労であった。
 夜空の雲の切れ間に、星々が、伸一を祝福するかのようにきらめいていた。
 この日、若師子は再び野に放たれ、さっそうと民衆の広野を走り始めたのである。それはまた、新たな戦いの始まりであった。
 七月二十九日、山本伸一をはじめとする学会員数十人が起訴された。
 この起訴の段階では、既に伸一の買収の容疑は外されていた。検察は、幾つかの供述を集めはしたものの、それで伸一が買収に関与したとして立証するのは、困難と判断したようだ。あるいは、大村昌人らに虚偽の供述をさせ、伸一に罪を被せようとしたことが露見するのを、恐れてのことであったのかもしれない。
 伸一は、戸別訪問の首謀者として、また、小西は、買収の共犯者として起訴された。身をもって真実を知る伸一にとっては、無実の罪を着せられるほど無念なことはない。彼は、裁判を戦場として闘い、冤罪を晴らす決意を固めていた。
 しかし、担当の弁護士たちは、「これだけ完全に、つじつまの合った供述調書がそろってしまえば、いくら強要された虚偽の供述であったとしても、すべてを覆すことは、かなり難しい」と言うのである。
 伸一の征路せいろには、峨々たる試練の峰が連なり、深い霧が立ち込めていたといってよい。しかし、進まなければならなかった。仏法の法理と、学会の正義の証明のために。また、民衆の凱歌のためにも――。
 彼は、怒濤のごとき不運にさらされながら、シャトー・ディフの闇牢で、無実を晴らすために戦い抜いた巌窟王のように、最後の勝利を深く心に期した。
 伸一は、『モンテ・クリスト伯』(巌窟王)の言葉を思い起こしていた。
 ――待て、しかして希望を忘れるな。

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