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日蓮大聖人・池田大作

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大阪  

小説「人間革命」11-12巻 (池田大作全集第149巻)

前後
21  いよいよ、戸田城聖の登壇となった。人びとの拍手に、一段と力がこもった。
 戸田は、いささかやつれて見えたが、その声には、岩をも砕かんばかりの気力があふれでいた。
 「今度の事件は、学会としては、大変、大きな事件のようにも見えるけれども、理事長や室長が、十日や十五日入ってきたなんていうことは、蚊に刺されたようなもんです。私なんか、戦争中に二年だからな」
 戸田は、ゆったりとした口調で話しだした。
 「今回、妙悟空というぺンネームで出した『人間革命』という小説のなかで、私の体験を書いておいたので、お読みくださった方もあろうかと思うが、二年間の牢獄生活というのは、ちょっと長いですよ。それも戦時中だ。
 二年間ぐらい入ってくると、何もおっかないものがなくなる。私も、正法のためなら、もう一回ぐらい牢獄に入りたいものだと思っているんです。だから、いつ私を引っ張ってもかまわんが、その代わり、あとが怖いぞ。この戸田は、大聖人様の御遺命である広宣流布をなそうとする、仏子の総帥なんだから」
 彼は、聴衆を笑わせながら、創価学会の会長としての覚悟のほどを示した。
 「私は、今日までに二人が釈放されなければ、この大会に続いて、全国大会を大阪で開くつもりでいました。しかし、各地から来たいという有志の数は、ざっと計算しても、十万を超えてしまう。ここには、そんなに集まれないし、一段落したので地方の同志は集めないことにしましたが、それでよかったと思っています。泊まる場所もないんだから。その代わり、大阪名物の粟オコシは売れないことになってしまった。すまんことです。
 まぁ、こっちだけ話していたんでは一方通行になってしまい、あなた方も不満であると思うから、聞きたいことがあったら、思うままに私に聞いてください。今日は質問会としよう」
 戸田は、極めて自然に、質問会へと話を移していった。
 場内のあちこちから、質問の手があがった。事件は、一応の決着をみたあとだけに、東京大会のような、切羽詰まった質問はなかった。
 なぜ世間は、学会の正しさを知ろうとしないのか、といった質問が続いた。
 戸田城聖は、その一つ一つに、ユーモアを交えながら、確信あふれる答えを返していった。
 次に、今回の事件の、マスコミの報道について質問が出た。
 「今回の事件と関連して、創価学会のことを、新聞がさまざまに書き立てていますが、事実と著しく違っています。それを正すために、学会として声明書を出し、謝罪をさせるべきではないかと思いますが、いかがなものでございましょうか」
 期せずして、賛同の拍手が湧き起こった。誰もが、偏見に満ちた報道に憤り、悔し涙をとらえてきたからである。
 戸田は、軽く頷いて、質問者の方に顔を向けながら話し始めた。
 「その気持ちはわかるし、今の質問は、もっともだと思う。しかし、この大会自体が、天下に対しての学会の声明じゃないか。
 彼らは、声明書なんて出したって、謝罪はしませんよ。間違った報道をして、訂正を出す時のやり方を見てごらんなさい。書く時は四段抜き、五段抜きでデカデカとやるのに、訂正する時は、小さな活字で、隅っこの方に、なるべく目立たないようにしか出さないじゃないか。″嘘を書いたから勘弁してくれ″と大々的にやったら、新聞は売れなくなってしまう。だから、彼らに謝れというのも無理な話ですよ。
 別に、何を書かれようが、痛くもかゆくもないじゃないか。ただで宣伝をしてもらっていると思えば腹も立つまい」
 笑いが広がった。
 戸田は、心ない中傷記事に、どれほど会員が悔しい思いをしてきたかを、よく知っていた。しかし、そんなことで一喜一憂しているようでは、万年の基礎をつくりゆく、広宣流布の本当の戦はできないことを教えたかった。
 「彼らに、いかなる信念がありますか。ひとたび戦争になれば戦争を賛美し、平和が訪れれば平和主義者に早変わりする。所詮、信なき言論は煙のようなものです。
 大聖人は、『世間の留難来るとも・とりあへ給うべからず』と仰せだが、新聞の中傷記事なんて、留難にも入らない、ささいな問題です。そんなことに紛動され、退転していくなら、自由にしてください。まず、何があっても微動だにしない大確信、大境涯に立つことが根本です。
 そして、そのうえで、破折すべきことは徹底して破折していくんです。黙っていれば、世間は、それが真実だと思い込んでしまう。『いかなる事ありとも・すこしもたゆむ事なかれ、いよいよ・はりあげてせむべし』というのが、折伏の精神です」
 戸田城聖は、創価学会が大きくなればなるほど、さまざまな意図のもとに、一部のマスコミの、学会への非難、中傷は、さらに激しさを増していくであろうことを予測していた。
 その時のためにも、言っておくべきことは、言っておかねばならないと思った。
 会場には、各紙の記者も来ていたであろう。しかし、彼は、何もつつみ隠そうとはしなかった。
 「今回の新聞の報道を見ていると、伝聞や推測で、ものを言っているが、われわれは自分で体験し、学会の真実を知っているんだから、こっちの方が強いに決まっています。言論戦といったって、活字だけじゃありません。肉声こそ、最大の言論じゃないか。正義が、嘘八百に負けてたまるもんですか!
 ″また、こんな悪口を書かれたら、周りから、なんだかんだと言われるだろう。いやだな″なんて思ったら負けです。戦わずして、臆病という自らの心中の賊に敗れているんです。そんな者は、戸田の弟子ではありません。真の仏法者でもない。むしろ、世間の誤った認識を正す絶好のチャンスではないか。
 正義は勝つというが、必ずしも勝つとは限りません。戦わなければ正義も敗れる。学会は、正義なればこそ、負けるわけにはいかん。断じて勝たねばならない。だから戦っていくんです。師子はね、吠えてこそ師子なんです。スピッツのように、いつもキャンキヤン吠えていても仕方ないが、眠れる師子では犬にも劣ってしまうぞ」
 戸田の話は、なす術がわからず、ただ悔しさをかみしめるだけだった参加者の胸に、勇気の光となって、注がれていった
 「考えてもみなさい。これほどマスコミが騒ぎ立てる宗教団体というのも、珍しいじゃないか。真言宗や浄土宗が書かれていますか。
 いろいろ書かれるということは、学会が生きている宗教である証明じゃないか。ただ、その書き方に少し問題はあるがね」
 笑いが起こった。明るい笑いであった。
 「私は、いつも思うんだが、たまたま学会員が何かすると、すぐ、創価学会がこうやった、ああやったと書き立てる。新聞が公平な報道をするというのなら、すべての事件、事故に、その人物の宗教名を出せばよい。そうしていけば、その宗教の力は自然に明確になっていくにちがいない。そうすれば面白いがな」
 そして、戸田は宣言するように言った。
 「世間も、学会の真実の姿というものを知れば、偏見に満ちた報道など誰も信じなくなるし、そんな新聞は買わなくなる。各紙が争って学会の真実を、すばらしさを報道せざるを得ない時代が来ます。それが本当の勝負だ。
 だから、謝罪などと騒ぐ必要はない。まぁ、世の中には、臍曲がりはいつもいるから、それでも悪口を書くところもあるだろうが、それ自体が低俗紙であることの証明になるという時代が、必ず来るだろう」
 戸田城聖の話に、参加者は、胸のすくような痛快さを覚えていった。
 このありのままの学会の姿を、自信をもって語り抜いていこう――誰もがそう決意していた。
 ここで、次の質問者が立った。
 「今の新聞は信用できませんから、聖教新聞を週二回出すようにしていただけませんでしょうか」
 当時、聖教新聞は週一回の発行であった。
 戸田は、これを聞いて笑いだした。
 「おいおい、あんまり無理なことを言うなよ。週一回でも、皆がよく読めば、十回分くらいの中身はあります。
 新聞は社会の鏡といわれるが、一般紙は悲惨な事件や事故のニュースばかりだ。世の中が不幸であることは、よくわかるが、では、どうすれば幸福になれるかは、何も答えていない。
 しかし、聖教新聞には、幸福への道が書かれている。仏法の眼から、社会の現象を、どうとらえていけばよいのかも書いてあります。こんな新聞は、ほかにはありません。私はね、この新聞を、日本中、いや、世界中の人に読ませたいんです。それ自体が、仏縁を結ぶことになるじゃないか。つまり、折伏に通じていくんです。
 やがては聖教も、週二回にも、三回にもなるだろうし、毎日、発行する日も必ず来ます。それまで、しばらくは辛抱してくださいよ」
 戸田は、ここで質問会を打ち切った。そして、席に戻りかけたが、またマイクに顔を近づけた。
 「あとのことは、もう心配しなくてよいから、しっかりお題目をあげて、皆さんが幸福になることです。それが、私の願望の根本です」
 温かい一言であった。参加者は、戸田の慈愛に、ほのぼのとした思いをいだきながら、声高く学会歌を合唱した。
 大阪大会は、これで一切の式次第を終了したが、場外の一万数千の同志は、そのまま立ち尽くしていた。一目、小西武雄と山本伸一の姿が見たかったからだ。
 辺りは、既に闇につつまれ、公会堂の窓という窓から光が漏れ、車寄せの両端の外灯がひときわ輝き、場外を埋めた人びとの顔を照らし出していた。
 夜の堂島川には、対岸の建物の灯が映り、波間に揺れていた。川面を渡る風がさわやかだった。
 急に激しい拍手が湧き起こり、歓声があがった。見ると、玄関の上の二階の窓から山本伸一が身を乗り出して、扇を振っていた。傍らには小西もいる。
 二人はマイクを手に、場外の人びとに向かい、簡単なあいさつをすると、大きく両手をかざした。大歓声と大拍手につつまれた。
 音楽隊が玄関前に出てきて、学会歌を演奏し始めた。場内にいた人びとが、外に出始めたが、音楽隊の演奏に足を止め、車寄せの周りに人垣ができていった。
 この日、朝から演奏を続けていた音楽隊は、最後の力を振り絞るように、ここぞとばかりに、高らかに躍動の調べを奏でた。力強く「日本男子の歌」が演奏された。ドラムを叩く人の手にはマメができ、吹奏者は唇を腫らしていた。
 その時、山本伸一が、玄関口に姿を現した。彼は、さっと表の階段横の石の上にあがると、扇子を手に歌の指揮を執った。
 伸一は、自分のために嘆き、悲しみ、怒り、祈ってくれた、この関西の同志を、心から励まし、勇気づけたかった。たちまち大合唱が起こり、歌声は公会堂をつつみ、夜空に舞った。
 音楽隊は、一つ学会歌が終わると、次の学会歌へと移り、小西武雄も指揮に加わった。二人の指揮による学会歌の合唱は、対岸の大阪地検に届けとばかりに、いつまでも続いた。歌い続けるうちに、同志の憤怒は歓喜へと変わっていった。
 やがて、会員たちが中之島の公会堂を後にしたころには、伸一は、腕が上がらないほど疲れていた。しかし、心地よい疲労であった。
 夜空の雲の切れ間に、星々が、伸一を祝福するかのようにきらめいていた。
 この日、若師子は再び野に放たれ、さっそうと民衆の広野を走り始めたのである。それはまた、新たな戦いの始まりであった。
 七月二十九日、山本伸一をはじめとする学会員数十人が起訴された。
 この起訴の段階では、既に伸一の買収の容疑は外されていた。検察は、幾つかの供述を集めはしたものの、それで伸一が買収に関与したとして立証するのは、困難と判断したようだ。あるいは、大村昌人らに虚偽の供述をさせ、伸一に罪を被せようとしたことが露見するのを、恐れてのことであったのかもしれない。
 伸一は、戸別訪問の首謀者として、また、小西は、買収の共犯者として起訴された。身をもって真実を知る伸一にとっては、無実の罪を着せられるほど無念なことはない。彼は、裁判を戦場として闘い、冤罪を晴らす決意を固めていた。
 しかし、担当の弁護士たちは、「これだけ完全に、つじつまの合った供述調書がそろってしまえば、いくら強要された虚偽の供述であったとしても、すべてを覆すことは、かなり難しい」と言うのである。
 伸一の征路せいろには、峨々たる試練の峰が連なり、深い霧が立ち込めていたといってよい。しかし、進まなければならなかった。仏法の法理と、学会の正義の証明のために。また、民衆の凱歌のためにも――。
 彼は、怒濤のごとき不運にさらされながら、シャトー・ディフの闇牢で、無実を晴らすために戦い抜いた巌窟王のように、最後の勝利を深く心に期した。
 伸一は、『モンテ・クリスト伯』(巌窟王)の言葉を思い起こしていた。
 ――待て、しかして希望を忘れるな。

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