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日蓮大聖人・池田大作

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フランス最高会議 生命の旅路を王者の境涯で

1989.6.13 スピーチ(1988.11〜)(池田大作全集第72巻)

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1  仏法の道は″友情の道″
 今回のフランス訪問で、私は、さる七日、ミッテラン大統領をエリゼ宮に表敬し、会見した。また、民主音楽協会(民音)とJ・M・F(フランスの青少年音楽団体)との合同公演が開催されたシャンゼリゼ劇場には、ミッテラン夫人を迎えて懇談するなど、大統領夫妻と有意義な語らいの時を持つことができた。
 ミッテラン大統領は、かつて「平和──それは人間が成長し、お互いに交流することでもある」と語っているが、会見の際には、民衆の安穏、平和と軍縮、人道・人権問題に対して、エネルギッシュな対話と行動を続けられていることに、深く敬意を表した。
 日本でも紹介されているミッテラン大統領の日記に、次のように記されている。
 「私はつねに答えを得ているわけではない。しかし、私は相手にも、自分にも問いかける。世界の呼び声、叫び、歌声を聞き、また疲労、習慣もしくは無関心を克服するための、新しい耳、私はそれ以上のものを求めない」(フランソワ・ミッテラン『大統領への道』川島太郎訳、廣済堂出版)と──。
 平和を渇望する「世界の呼び声」、正義を求めてやまぬ青年の「叫び」「歌声」──そこに真摯しんしに耳を傾ける指導者の姿は尊い。
 今年の七月十四日、まさに「フランス革命二百年」のその日に、ミッテラン大統領のリーダーシップのもと、パリ・サミットが開催される。私は、平和と協調への対話の波動が、さらに世界へと力強く広がりゆくことを祈りたい。
2  話は変わるが、十一日のフランス広布二十八周年記念の集いには、遠路はるばる海外県からも、七人の友が参加されていた。それは、南の海・カリブに浮かぶグアドループ島とマルチニーク島、そして、南米大陸の北部に位置したギアナからの来訪であった。
 空路、六時間、七時間、一番遠い所からは十時間もかけて駆けつけてきた。会合終了後、親しくお会いした七人の皆さまの顔は、南国の太陽そのままに輝いていた。
 グアドループ島には一支部があり、約百六十人、マルチニーク島には一地区で約六十人。またギアナには一地区、約百三十人のメンバーが活躍されていると聞き、私は本当にうれしく思った。さらに、島に残っているメンバーの皆さま方が、今回のヨーロッパ訪問の成功を祈って、唱題してくださっているとうかがい、私は、その真心に胸うたれ、深く感謝し心の中で合掌した。
 このカリブの島々のメンバーは、フランスの第一総合本部に所属し、総合本部長の千葉好男君たちが、激励と指導にあたっている。カリブのメンバーが、地域の人々と仲良く、融合しながら、活動に励んでおられるうるわしい姿もうかがった。さまざまな報告も聞いた。わが地域のために真剣に活動されている事実に対し、賛嘆の気持ちでいっぱいである。
 エメラルド色の輝く海に浮かぶ島々。美しき海と美しき緑に囲まれた宝のような島──それはそれは素晴らしい、皆のあこがれの的となるような地である。ところが、環境があまりに素晴らしすぎて、仏法対話のセミナーを行っても、遊びに行くほうがよいといって、なかなか弘教が進まない。それが悩みであるとも話していた。それをうかがって、私は「決して焦(あせ)る必要はない。地域の人々との友情を大切にしてほしい」と申し上げておいた。
 入会させることも大切である。しかし、無理をしてはいけない。大聖人の仏法は下種仏法であり、仏法に縁していくことが最も大切なのである。その意味で、地域の人々と友情を結んでいく。よき友人となっていくことを忘れないでほしい。
 焦らず、無理をせず、人間と人間とのきずなを大事にしていくことだ。その絆が深く、強く結ばれていけばいくほど、仏法の道は、ますます開かれていくことを確信していただきたい。
3  南の友についての報告を聞きながら、私は、先日、スウェーデンで開催された北欧総会のことを思い出した。対照的な北の大地で、厳しい大自然と闘いながら、妙法の灯を掲げゆく同志の活躍に、思いを馳せた。
 一年の半分以上は、雪と氷に閉ざされてしまうアイスランド。またノルウェーの最北端のフィヨルドの町にも、友は人生の幸の春風を薫らせながら、きょうも広布に走っている。その凛々りりしくも、力強い、使命の友の活躍を、私は心からたたえたい。
 北欧の地に、古くから伝えられる詩文に、次のようにうたわれている。
 「友を得て、われはおどりて喜びぬ。知れ、『人のよろこびは人』こそ」と。
 「″人間″こそが人間の喜びなのだ」という、高らかな賛歌である。
 人生は、ある意味で「人間」との出会いのドラマにほかならない。さまざまな所で、さまざまな人との出会い──そこに人生の喜びも、悲しみも、幸福も、苦悩も織りなされていく。そして、その一人一人が、人生ドラマの主人公となっていく。いわんや広布の旅路にあっては、たとえ、妙法の友は少なくとも、一人一人が広布のドラマの、またそれぞれの地域のまぎれもなき主役である。
 どうか、自分の今いる場所を広布の本舞台として、妙法を唱え、「歓喜の中の大歓喜」の人生を満喫しつつ、使命の舞を舞いに舞っていただきたい。そして、素晴らしき「真心」と「友情」と「歓喜」の出会いのドラマを幾重にも広げながら、永遠の旅路につながる、この一生の旅を、栄光と凱歌がいかで飾っていただきたい。
4  陰の労苦の活躍に功徳は無辺
 ところで、大聖人は、佐渡の地に着かれた折の御感想を、次のように簡潔に記されている。
 「北国の習なれば冬はことに風はげしく雪ふかし」──北国のことなので、冬はとくに風が激しく、雪は深い──と。
 また、身延の地においても、冬の寒さはあまりに厳しかった。
 「庵室は七尺・雪は一丈・四壁は冰を壁とし軒のつらら氷柱は道場荘厳の瓔珞の玉に似たり、内には雪を米と積む、本より人も来らぬ上・雪深くして道塞がり問う人もなき」と。
 ──庵室の高さは七尺(約二・一メートル)なのに、雪は一丈(約三メートル)も積もり、四方は氷を壁とし、軒のつららは道場を荘厳する装飾具・瓔珞の玉のようである。室内には雪をお米のように積んである。もとより人もこないところである上に雪が深くて道はふさがり、訪問する人もない──。
 御本仏御みずからがそうした大苦境の真っただ中で、大法を説き、残してくださった。困難な環境にあっても、一切を乗り越え堂々と広布にまい進しゆくところに、大聖人門下のほまれがある。仏子である皆さま方が苦労をいとわず、地道に、けなげに戦っておられる姿を、大聖人は必ずや御照覧くださっていることを、強く確信したい。
 仏法の世界には、一切、無意味なことはない。最も大変なところで苦労した人に、最も功徳が薫る。最も地味な陰の努力に徹した人に、最も栄光が輝く。これが「みょうの照覧」である。
5  法華経の中に「妙荘厳王品みょうしょうごんのうぼん」という経文がある。そこには、この妙法に出あつた浄蔵じょうぞう浄眼じょうげんの二人の兄弟が、母の浄徳夫人と力を合わせて、父・妙荘厳王を正法へと導くドラマがえがかれている。
 中国の天台大師は「法華文句」の中で、この四人の家族の過去世における因縁いんねんを明かしている。
 ──かつて仏法を求めてやまぬ四人の同志がいた。だが、現実は厳しい。それぞれ、生活に追われ、なかなか思うようには仏法の実践に励めない状態が続いた。
 そこで、そのなかの一人が、決然と申し出る。″君たち三人は、心おきなく、修行に励んでくれたまえ。あとのわずらわしいことは、一切、自分が引き受けるから″と。
 こうして、ただ一人の陰の戦いが始まった。春夏秋冬、いつもいつも、彼は留守を守り、黙々と皆の衣食の調達や炊事すいじなど、地味な労作業に明け暮れた。その彼の支えによってあとの三人は、思う存分、修行に専念し、仏道を得ることができた。
 では、陰の一人はどうなったか──。彼は、この人間界、天上界において、つねに王となる果報を得たのである。
 そして、彼のおかげで仏道を得ることができた三人は、今度は、自分達三人の力で彼を仏法に導いて、恩返しをしようと約束する。三人の打ち合わせでは、人は妻や子のいうことは聞くものだから、一人が王である彼の端正な夫人となり、二人は聡明な子として、この恩返しを実現しようということになった。いうまでもなく、その″彼″が妙荘厳王であり、あとの三人が、それぞれ浄徳夫人、浄蔵・浄眼の兄弟となった──というのである。
 この話から、あるいは若干の飛躍を感じる人もいるかもしれない。しかし、そこには、仏法の透徹したまなこに映じる厳粛な因果の法理が示唆しさされている。いうならば、仏法の世界においては、最も割の合わない、そんをしたように見える人が、じつは、大きな福運を着々と積み、確かな成仏の道を進むことができるのである。
6  笑顔と笑顔の楽しき前進を
 戸田先生はよく、この「妙荘厳王」の話を通して、未入信の家族のいる青年を励まされた。「浄蔵・浄眼の兄弟は、現実の上で、妙法の力用りきゆうを示して父王を納得なっとくさせた。あわてて、信心の理屈を話す必要はない。時間がかかっても、かまわないから、まず自分自身が立派になって親を安心させていくことだ。そして本当に親を愛し、慈しみ、親孝行してもらいたい」と。
 一家で一人が信心に立ち上がれば、皆を幸福の方向へとリードしていけるのが、この仏法である。ゆえに、信仰のことで感情的に争う必要はない。大きな心で、また長い目でとらえていけばよいのである。
 大聖人は「水は寒積れば氷と為る・雪は年かさなつて水精と為る・悪積れば地獄となる・善積れば仏となる」──水は寒さが積もれば氷となるし、雪は年を重ねれば、水精となるといわれる。同じように人間は、悪が積もれば地獄にち、善が積もれば仏になる──と。
 題目を朗々と唱えながら、法のため、友のため、また地域のため、社会のために積み重ねゆく行動は、すべて、我が生命の永遠の旅路を王者の大境涯で飾りゆく無限の「宝」となる。この深き確信を胸に、更なる笑顔と笑顔の共進をお願いし、本日のスピーチとしたい。

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