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日蓮大聖人・池田大作

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法蓮抄  (13/15) 北国の習なれば冬は殊に風はげしく雪ふかし
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かば我が身の失に当るのみならず、行通人人の中にも或は御勘気或は所領をめされ或は御内を出され或は父母兄弟に捨てらる、されば付きし人も捨てはてぬ今又付く人もなし、殊に今度の御勘気には死罪に及ぶべきがいかが思はれけん佐渡の国につかはされしかば彼の国へ趣く者は死は多く生は稀なり、からくして行きつきたりしかば殺害・謀叛の者よりも猶重く思はれたり、鎌倉を出でしより日日に強敵かさなるが如し、ありとある人は念仏の持者なり、野を行き山を行くにもそばひらの草木の風に随つてそよめく声も、かたきの我を責むるかとおぼゆ、やうやく国にも付きぬ北国の習なれば冬は殊に風はげしく雪ふかし衣薄く食ともし、根を移されし橘の自然にからたちとなりけるも身の上につみしられたり、栖にはおばなかるかやおひしげれる野中の三昧ばらにおちやぶれたる草堂の上は雨もり壁は風もたまらぬ傍に昼夜・耳に聞く者はまくらにさゆる風の音、朝に眼に遮る者は遠近の路を埋む雪なり、現身に餓鬼道を経・寒地獄に堕ちぬ、彼の蘇武が十九年の間・胡国に留められて雪を食し李陵が巌窟に入つて六年蓑をきて・すごしけるも我が身の上なりき。

今適御勘気ゆりたれども鎌倉中にも且くも身をやどし迹を・とどむべき処なければ・かかる山中の石のはざま松の下に身を隠し心を静むれども大地を食とし草木を著ざらんより外は食もなく衣も絶えぬる処にいかなる御心ねにてかくかきわけて御訪のあるやらん、知らず過去の我が父母の御神の御身に入りかはらせ給うか、又知らず大覚世尊の御めぐみにや・あるらん涙こそ・おさへがたく候へ。

問うて云く抑正嘉の大地震・文永の大彗星を見て自他の叛逆・我が朝に法華経を失う故としらせ給うゆへ如何、答えて云く此の二の天災・地夭は外典三千余巻にも載せられず三墳・五典・史記等に記する処の大長星・大地震は或は一尺二尺・一丈二丈・五丈六丈なりいまだ一天には見へず地震も又是くの如し、内典を以て之を勘うるに仏御入滅・已後はかかる大瑞出来せず、月支には弗沙密多羅王の五天の仏法を亡し十六大国の寺塔を焼き払い僧尼の頭


をはねし時もかかる瑞はなし、漢土には会昌天子の寺院・四千六百余所をとどめ僧尼・二十六万五百人を還俗せさせし時も出現せず、我が朝には欽明の御宇に仏法渡りて守屋・仏法に敵せしにも清盛法師・七大寺を焼き失い山僧等・園城寺を焼亡せしにも出現せざる大彗星なり。

当に知るべし是よりも大事なる事の一閻浮提の内に出現すべきなりと勘えて立正安国論を造りて最明寺入道殿に奉る、彼の状に云く取詮此の大瑞は他国より此の国をほろぼすべき先兆なり、禅宗・念仏宗等が法華経を失う故なり、彼の法師原が頸をきりて鎌倉ゆゐの浜にすてずば国正に亡ぶべし等云云、其の後文永の大彗星の時は又手ににぎりて之を知る、去文永八年九月十二日の御勘気の時重ねて申して云く予は日本国の棟梁なり我を失うは国を失うなるべしと今は用いまじけれども後のためにとて申しにき、又去年の四月八日に平左衛門尉に対面の時蒙古国は何比かよせ候べきと問うに、答えて云く経文は月日をささず但し天眼のいかり頻りなり今年をばすぐべからずと申したりき、是等は如何にして知るべしと人疑うべし予不肖の身なれども法華経を弘通する行者を王臣人民之を怨む間法華経の座にて守護せんと誓をなせる地神いかりをなして身をふるひ天神身より光を出して此の国をおどす、いかに諫むれども用いざれば結局は人の身に入つて自界叛逆せしめ他国より責むべし。

問うて云く此の事何たる証拠あるや、答う経に云く「悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが故に星宿及び風雨皆時を以て行わず」等云云、夫れ天地は国の明鏡なり今此の国に天災地夭あり知るべし国主に失ありと云う事を鏡にうかべたれば之を諍うべからず国主・小禍のある時は天鏡に小災見ゆ今の大災は当に知るべし大禍ありと云う事を、仁王経には小難は無量なり中難は二十九・大難は七とあり此の経をば一には仁王と名づけ二には天地鏡と名づく、此の国主を天地鏡に移して見るに明白なり、又此の経文に云く「聖人去らん時は七難必ず起る」等云云、当に知るべし此の国に大聖人有りと、又知るべし彼の聖人を国主信ぜずと云う事を。


問うて云く先代に仏寺を失ひし時何ぞ此の瑞なきや、答えて云く瑞は失の軽重によりて大小あり此の度の瑞は怪むべし、一度二度にあらず一返二返にあらず年月をふるままに弥盛なり、之を以て之を察すべし先代の失よりも過ぎたる国主に失あり、国主の身にて万民を殺し又万臣を殺し又父母を殺す失よりも聖人を怨む事・彼に過ぐる事を、今日本国の王臣並びに万民には月氏・漢土総じて一閻浮提に仏滅後・二千二百二十余年の間いまだなき大科・人ごとにあるなり、譬えば十方世界の五逆の者を一処に集めたるが如し、此の国の一切の僧は皆提婆・瞿伽利が魂を移し国主は阿闍世王・波瑠璃王の化身なり、一切の臣民は雨行大臣・月称大臣・刹陀耆利等の悪人をあつめて日本国の民となせり、古は二人・三人・逆罪不孝の者ありしかばこそ其の人の在所は大地も破れて入りぬれ、今は此の国に充満せる故に日本国の大地・一時にわれ無間に堕ち入らざらん外は一人二人の住所の堕つべきやうなし、例せば老人の一二の白毛をば抜けども老耄の時は皆白毛なれば何を分けて抜き捨つべき只一度に剃捨る如くなり、問うて云く汝が義の如きは我が法華経の行者なるを用いざるが故に天変地夭等ありと、法華経第八に云く「頭破れて七分と作らん」と、第五に云く「若し人悪み罵れば口則ち閉塞す」等云云、如何ぞ数年が間・罵とも怨とも其の義なきや、答う反詰して云く不軽菩薩を毀訾し罵詈し打擲せし人は口閉頭破ありけるか如何、問う然れば経文に相違する事如何、答う法華経を怨む人に二人あり、一人は先生に善根ありて今生に縁を求めて菩提心を発して仏になるべき者は或は口閉ぢ或は頭破る、一人は先生に謗人なり今生にも謗じ生生に無間地獄の業を成就せる者あり是はのれども口則ち閉塞せず、譬えば獄に入つて死罪に定まる者は獄の中にて何なる僻事あれども死罪を行うまでにて別の失なし、ゆりぬべき者は獄中にて僻事あれば・これをいましむるが如し、問うて云く此の事第一の大事なり委細に承わるべし、答えて云く涅槃経に云く法華経に云く云云。

                            日蓮花押