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日蓮大聖人・池田大作

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第二回神奈川県支部長会 ″精神の力″で文明を蘇生

1988.7.19 スピーチ(1988.5〜)(池田大作全集第71巻)

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2  ところで、何人かの通訳の方と懇談した折、各国の青年から幾つかの質問が寄せられたことを聞いた。そのうちの一つは、「臓器移植」の問題である。
 世界的な大きな課題であり、その是非ぜひ、基準等をめぐって、各界の論議も盛んである。これについては、人類の未来にとって、まことに重要なテーマであるだけに、十分に検討を重ねていくべきであろう。私も「永遠の生命観」「生命の尊厳観」を説いた日蓮大聖人の仏法に基づき、慎重に、また慎重に、結論を出すべき重要な問題と思っている。
 質問のもう一つは「天台てんだいの仏法」に関してである。
 ──「釈尊の仏法」については、学ぶ機会が多い。「日蓮大聖人の仏法」については、行学ともに日々、励んでいる。しかし、何となく″谷間″というか「天台の仏法」については、よくわからないままであると。
 御書を拝すると、天台・伝教でんぎょうの名が繰り返し記されているが、先輩に、どういう人物かと質問しても、うまく、はぐらかされたり、「昔の像法時代のことだから、末法の我々には関係ない」と″指導″されたりして、十分には納得できない──と、こういう趣旨しゅしであった。
 諸外国の人々は多くの場合、理論的にも、きちんと「納得」したいという真剣な探究心が日本人以上に強いようである。
 私は指導者として、こうした問いに答える責任がある。そこで本日は、この天台の仏法に関して少々、述べてみたい。あまり難しくないように気くばりするつもりであり、ご安心願いたい。また時間の都合上、とくに天台の仏法の「興亡こうぼう」に焦点を当てて、語らせていただく。
3  あれは昭和二十九年の夏八月のことであった。私は戸田先生のお供をして、北海道へ行った。当時、先生は五十四歳。私は二十六歳。
 ──若く、希望に燃えていた。日蓮正宗創価学会を、これから、どのように大発展させていくか。そのことを先生のもとで、先生に一つ一つ教わりながら、ひたすら考え、展望していた。未来への、そうした壮大な心をもって、懸命に戸田先生に仕えていた。すばらしい青春時代だったと、かえりみて私には、いささかのいもない。
 この折、先生は故郷の厚田村へも私を連れていってくださった。
 当時、東京の羽田から北海道の千歳ちとせまでは、飛行機で約三時間──。先生と私、ただ二人しての旅であった。
 さて機中では「禁酒」である。これが大変だった。酒豪の先生が、「苦しいなぁ」と笑っておられた姿が今も目に浮かぶ。いつも、ありのままの、人間性そのものの先生であった。
 しかも、まだジェット機ではない。機体もよくゆれた。あんまり、激しくゆれるので、先生が突然、「大作、勤行しろ」と言われた時には、本当にこまった。そんな非常識なと思ったが、今なおなつかしい思い出である。
 ともあれ、その折に、戸田先生が言われた一言が忘れられない。
 「大作、君たちのまごの孫の代までの構想は教え残しておくからな」と──。
 あとは全部、その通りに、お前がやっていけとの″遺言″のお心であった。自分はいつ死ぬかもしれない。託すのは若い青年しかない──と。
 美しき雲海を見おろす機上にあって、先生は学会の未来、広布の未来を、はるかに思いめぐらしておられた。窓の外には、白雲の輝きがてしなく続いていた。
 そうした戸田先生のご構想を、私は熟知していた。そして、すべて実現してきた。霊鷲山りょうじゅせんで再び戸田先生の御前にいっても、私は胸を張って、「先生、お言葉の通り、広宣流布をやってきました」と申し上げられるつもりである。
4  戸田先生の教えは常に、抽象論では絶対になかった。現実の「急所」を押さえた、生きた知恵であった。
 歴史を論じても、たとえば「あの民族は、なぜ興隆したのか」「この国家は、どうして衰亡したか」、また「あの宗教は、なぜ栄えたのか」「なぜ衰退したのか」等々、個人についても、集団についても、様々な「興亡の歴史」に焦点しょうてんを当てられた。そのようにして、青年に鋭く、深い「史観」を養わせながら、広布の万代にわたる発展の歴史を、どう築いていくかを教えられたのである。
 あらゆる時代の変化に対応しながら、どのようにして正法の世界を永遠たらしめていくか。戸田先生の心をうけて私も今、すべて「千年」を一つの基準にして、あらゆる角度から万年の盤石ないしずえを築いている。ゆえに、一時の目先の風評など、もとより、まったく眼中にない。
 今日、お話しする天台の仏法の「興亡の歴史」も、とくに世界の青年の諸君に、これから限りなき広布の未来を開きゆく何らかのかてにしていただければ幸いである。
 もちろん、このテーマ一つとっても、多くの議論が可能であるが、ここでは、あくまでも大聖人の「御書」ならびに日寛上人の「文段」を拝しつつ、その一端に触れたい。
5  権威に挑み、正義を証明した天台の法戦
 仏教史上、中国の天台大師(五三八〜五九七年)が、いかに偉大な存在であったかは、言うまでもない。私もかつて『私の天台観』の中で、るる論じさせていただいた。
 「末法下種の教主」であられる日蓮大聖人──。いわゆる「像法熟益じゅくやくの教主」の立場となる天台は、大聖人より、ほぼ七百年、先立って出現している。不思議なる仏法のリズムといえよう。
 天台は、釈尊の一代聖教を明快に体系化し、「法華経第一」とする教判を完璧かんぺきに打ち立てた。さらに出世の本懐として『摩訶止観まかしかん』を講じ、「理の一念三千」の法門を確立したことは、ご存じの通りである。
 天台の生きた時代、それは中国の「魏晋ぎしん南北朝時代」すなわち短命の王朝が、次々に興亡を繰り返した分裂の時代の末期に始まる。そして混乱を統一した「ずい」王朝にかけての、大動乱の世であった。
 この分裂と抗争の社会と軌を一にして、当時の仏教界も、いわゆる「南三北七なんさんほくしち」という、あわせて十派にも分裂し、雑乱ぞうらんをきわめていた。揚子江ようすこうをはさんで、南(江南)に三派、北(河北)に七派に分かれて、それぞれが互いに正義を主張していた。天台の法戦は、その真っただなかで、敢然と、繰り広げられたのである。
 その様子について、大聖人は「善無畏三蔵ぜんむいさんぞう抄」で、次のように述べられている。
 「此の人始いやしかりし時・但漢土・五百余年の三蔵・人師を破るのみならず月氏・一千年の論師をも破せしかば」──この人(天台)は、はじめ(まだその権威が認められず)仏教界での地位も低かった時、ただ中国の五百余年間の、経・律・論の三蔵に通達しているとされる法師や人師を破折はしゃくしただけでなく、インドの(正法時代)一千年間の論師をも破折したので──。
 そうした大法戦に対して「南北の智人等・雲の如く起り東西の賢哲等・星の如く列りて雨の如く難を下し風の如く此の義を破りしかども終に論師・人師の偏邪の義を破して天台一宗の正義を立てにき」──南北の智人等は雲のごとく起こり、東西の賢人・哲人等は星のごとくつらなって、天台に対し、雨のように非難をあびせ、風のごとく天台の義を破ろうとした。しかし天台は、そうした論師・人師のかたよったよこしまな法義を、ついに、すべて打ち破って、天台一宗の正義しょうぎを立てたのである──と。
 すなわち天台の戦いは、同時代の論客はもちろんのこと「中国五百年」「インド一千年」にわたる、釈尊以後のありとあらゆる邪義を論破しゆく壮大な法戦であった。
 その壮絶なる思想戦、言論戦に対し、当時の最高の権威という権威が、「雨のごとく」「風のごとく」天台を総攻撃した。今でいえば民衆に全幅の信頼を寄せられている学者や言論人による非難に当たろう。
 その連戦につぐ連戦のなかで、正義の哲理は、いやまして鍛えられ、磨きぬかれていった。圧迫が激しければ激しいほど、天台はそれを上回る大いなる力を発揮して、正義を証明し、宣揚していったのである。
6  悪世にあって、正しきものには妨害がある。進むものには抵抗がある。当然の道理である。像法時代の天台ですら、あれだけの風雨をうけた──。
 仏法の目的は「成仏」にある。そして大聖人は、身命を捨てるほどの難との戦いがあってこそ成仏できると仰せである。難ありて、はじめて成仏がある。悪口されればされるほど、「仏」の境界に近づける。これほど、ありがたいことはない。
 その意味で、むしろ苦難があればあるほど、心から喜び勇んでいく心が、まことの信心である。建物も地震の時に、その堅固さがわかる。どんなに立派そうな外見であっても「震度2」でグシャグシャにつぶれたのでは仕方がない。
 相撲すもうや柔道、レスリングなどのスポーツにおいても、強い相手がいてこそ成長できる。一人で、空気を相手に、いくら頑張っても、本格的な修業にはならない。
 仏道においても「強敵を伏して始て力士をしる」という厳しい修行を繰り返してこそ、成仏があり、自身の生命の完成がある。
7  ともあれ、釈尊以後に出た古今の邪義をことごとく打ち破った天台は、こころざしのスケールが余りにも大きい。
 青年部の諸君も、相手にすべきは世界であり、悠久ゆうきゅうの歴史である。また古今東西の第一級の思想・哲学である。大きなものに取り組んでこそ、こちらもきたえられ大きくなる。崇高すうこうな精神とまじわってこそ、我が精神も高められる。
 反対に、言論の名にもあたいしない低次元の悪口など、いちいち相手にするだけ、自身の損失そんしつである。また法を下げてしまう。
 そして、もはや学会のスケールと存在は、日本の、そうしたちっぽけな心のうつわとは、あまりにもかけはなれ、とても入りきらなくなってしまった。これが近年の実相である。
 ゆえに諸君は、どこまでも世界の「本物」と「一流」を相手に、勇んで打ち合い、また切り結びながら、自身の「精神の世界」をどこまでも広げ、深めていっていただきたい。
8  ところで先日、フランスで美術史家のルネ・ユイグ氏にお会いした方から、その折の、私への伝言として、次のような言葉が届けられた。
 「先生は、精神の戦いをされている方です。西洋では、もはや精神性の目的はなくなってしまっています。先生はその目的を大きく開く戦いをされており、さらに創価学会がその運動を幅広く展開している。まさに先生こそ、未来に向けて精神の戦いをされている方であり、私はその先生に、深く共鳴しているのです」と。
 まことに、ありがたい言葉であり、恐縮しているが、″精神の戦い″──このユイグ氏の言葉のもつ意味は重い。広布という大いなる理想に向かって進みゆく私どもの運動は、物質文明の偏重へんちょうによって様々な″やまい″におかされつつある時代・社会に、「蘇生そせい」と「希望」の曙光しょこうをもたらしゆく人間精神の挑戦の歩みである。
 ゆえに私どもは、人類の未来を開くため、いかなる苦難や障害があろうと、この″精神の戦い″を止めるわけにはいかない。
9  さて先に述べたように、天台大師にも、数々の悪口や怨嫉おんしつが嵐のごとくおそいかかった。しかし天台は、論難にも、いささかも動じることはなく、恐れもしなかった。その姿を、大聖人は次のように仰せである。
 「天台大師の御気色は師子王の狐兎の前に吼えたるがごとし鷹鷲の鳩雉をせめたるににたり」──天台大師の堂々たる態度は、まさに師子王がきつねうさぎの前でえるようであり、鷹や鷲が鳩や雉を攻めているような姿であった──と。
 また天台大師は、「法華玄義」の中で「法華折伏・破権門理ほっけしゃくぶく・はごんもんり(=法華は折伏にして権門の理を破す)」と述べている。
 すなわち、あらゆる権門の理(仮の教えである権教)を論破し、呵責かしゃくしていく折伏こそ、法華経の修行の肝要である。
 天台は、まさに″獅子″であった。常に師子王のごとき本物の勇者が「一人」立ち上がるとき、必ずそこから正法が興隆こうりゅうし、広宣流布の波は無限に広がっていくにちがいない。
 思えば、牧口先生も、戸田先生も、「一人」から法戦を開始された。私もまた、牧口、戸田両先生のあとをうけ、「一人」で全責任を担う覚悟で今日まで広布に進んできた。
10  さらに大聖人は、次のように仰せになっている。
 「一念三千の観法に二つあり一には理・二には事なり天台・伝教等の御時には理なり今は事なり観念すでに勝る故に大難又色まさる」──一念三千の観法に二つある。一つには「理」であり、二つには「事」である。天台・伝教等の時には「理」であり、今、日蓮の時は「事」である。一念三千の観法において、すでに日蓮の方が勝っているので大難もまたさらに盛んなのである──と。
 すなわち、大聖人の仏法は、天台の法門よりはるかに深い「事の一念三千」の法門である。それだけ「難」も大きい。これが仏法の道理である。「大難」こそ「大法の証明」なのである。どうか皆さま方は、大聖人門下として、この無上の「大法」に生きゆく「誇り」と「覚悟」を胸に、生涯、「不退」の信心を貫いていただきたい。
11  師なきあとに弟子の真価
 さて、天台大師の師子吼ししくに、ただ一人続いたのが、その弟子・章安しょうあん大師であった。章安は、師の甚深じんじんの法門とその生涯を、一切、余すところなく、またいささかも誤(あやま)つことなく、後世に伝え残しゆくために、わが人生を(か)けた。
 大聖人は、章安大師の求道の姿を次のように仰せになっている。
 「天台大師の御弟子に章安と申せし人は万里をわけて法華経をきかせ給へり
 ──天台大師の御弟子の章安という人は、万里の道をみ分けて法華経を聴聞ちょうもんされた──と。
 かの「天台の三大部」といわれる「法華玄義ほっけげんぎ」「法華文句ほっけもんぐ」「摩訶止観まかしかん」は、天台が講義した内容を章安が筆録し、編さんしたものである。
 ちなみに、その一つ「法華文句」(法華経の文々句々について解釈したもの)の講義がなされたのは、師・天台大師が五十歳、弟子・章安が二十七歳の時であったという。
 そして、その講義録の最終的な完成をみたのは、実に章安が六十九歳──亡くなる三年前のことであった。すなわち章安は、師の講義を完璧に総仕上げするために、青春期から人生の最終章に至るまで、なんと四十二年もの歳月を費やして、添削てんさくに添削を重ねた。その完成は師・天台大師の入滅から、三十年以上も後のことであった。
 章安の「講義録」完成への道のりの陰には、どれほど血のにじむような苦労の積み重ねがあったか、計り知れない。しかし、彼の「令法久住りょうぼうくじゅう」への戦いがあったからこそ、天台の三大部は後世に残ることになった。
 私も、戸田先生との出会いから、この夏で四十一年になる。また、戸田先生の逝去せいきょから三十年が過ぎた。今の私にも、章安の胸中がわかる気がする。
 第二祖・日興上人は、章安について、「天台大師に三千余の弟子有り章安朗然として独り之を達す」──天台大師には三千人余りの弟子がいたが、そのなかで、ただ章安一人だけが師の教えを明々あかあかと悟り、継承した──と、仰せになっている。
 これは、師敵対した五老僧に対し、厳しく破折の意を込めていわれた御言葉でもある。章安大師の生涯に思いをせながら、ただ御一人、真の弟子の道を歩まれた日興上人の御心境が、強く胸に迫ってきてならない。
 特に青年部の諸君に私は、「従藍而青じゅうらんにしょう(青は藍より出でて、しかも藍よりも青し)」の精神を絶対に忘れてはならない、と申し上げたい。この言葉は、天台の『摩訶止観』にも述べられている。私が諸君に寄せる思いは、まさにこの言葉のごとく、何としても広宣流布の立派な指導者に成長してもらいたい、との一点にほかならない。
 章安が天台大師に師事したのは二十五歳であった。以来、″後継の精神″に徹して一人、生ききったのが、彼の生涯であったといってよい。
 皆さま方は栄(は)えある大聖人の門下として、また歴代会長が身をもって示してきた「広布の精神」の継承者として、一人ももれなくその「誓い」と「誉(ほま)れ」の生涯を、堂々と生き抜いていただきたい。
12  天台・章安の師弟の法戦によって、中国の天台宗は大いなる興隆をとげた。
 しかし、天台から数えて第二祖の章安大師が亡くなり、「第三祖」以後になると、いわゆる「第一期暗黒時代」と呼ばれる衰亡の時に入ってしまう。それは中興ちゅうこうの祖・妙楽大師が登場するまで、約百年間も続く。
 では、なぜ「第三祖」の代から衰亡していったのか。その原因はどこにあったのか。この重大な問題は、戸田先生が、青年たちに鋭く直視させたテーマでもあった。
 天台大師と、後継の弟子・章安大師が亡くなるや、その逝去を待ちかまえていたかのように、さまざまな邪義がはびこってきた。
 すべてのたてとなり、厳然と守ってくれる師のいる間はよい。だが、師の亡きあと、いかに師の正義を守り、その理想を事実の上で実現していくか──これが、いつの時代にあっても、重要な課題となる。
13  第三祖からの天台仏法興亡の歴史
 章安大師の逝去は、西暦六三二年。その十余年の後、有名な僧・玄奘げんじょうが、インドならびに西域の旅から帰国する。
 玄奘の大旅行は、後に小説『西遊記さいゆうき』の素材ともなる。皆さまもよくご存じの、孫悟空そんごくうで有名な物語である。帰国した玄奘は、世間の脚光をあび″時の人″となった。そして、当時の唐の皇帝・太宗たいそうの絶大な庇護ひごを受けつつ、新たに法相宗をおこした。
 法相宗について、簡単にいえば、解深密経げじんみつきょうなどを依経として、万法の相性そうしょうを判じようとするところから、この名がある。
 唯識を教義の根本とするが、大聖人が「四条金吾殿御返事」(御書1119㌻)などで破折されているごとく「五性各別」などを説く。「五性各別」とは、衆生の機根は五種類に区別され、それぞれなるべき性分が決まっており、すべての人が仏になることはできないとする。ここから三乗真実・一乗方便、つまり、一仏乗は方便であって、三乗(声聞乗・縁覚乗・菩薩乗)の各種性に応じて修行するのが真実であるという悪見を立てている。
 また法相宗では、「八界」しか明かしていないと大聖人は仰せであり、「十界互具・一念三千」の法理を明かし、一切衆生の成仏を説き示した法華経には、足元にも及ばない権門ごんもんの教えである。
 だが、この法相宗に対して、当時の天台門下は、誰一人として、その「権門の理」を打ち破ろうとはしなかったという。
 それはなぜか。大聖人は、次のように仰せである。
 「而るを天台は御覧なかりしかば天台の末学等は智慧の薄きかのゆへに・さもやとおもう、又太宗は賢王なり玄奘の御帰依あさからず、いうべき事ありしかども・いつもの事なれば時の威をおそれて申す人なし
 ──(法相宗の依経である解深密経は、玄奘が持ってきたもので)天台は、御覧になってはいなかった。それを天台の末学(門下)たちは、智慧が薄かったためか″天台大師は、この解深密経を御覧になっていなかったのだから、玄奘のいうことも正しいかもしれない″と思い、そのまま受け入れてしまった。また、唐の太宗は賢王とされ、その太宗が玄奘に浅からず帰依していた。そのため、玄奘に対して反論を持った人も、世の常として時の権力を恐れてしまい、堂々と言い出すことができなかった──と。
 すなわち、当時の天台門下たちは、天台・章安が厳として確立した法門に対し、本当の理解も、確信も持っていなかった。また、内心は相手の非を知りつつも、権力の迫害を恐れ、口を閉じて、自己の保身を図ったわけである。
 こうして法相宗は、ますます勢いを得、増長していく。それとは逆に、天台宗の方は「法華経の実義すでに一国に隠没しぬ」──法華経の実義は、すでに一国に隠れ失われてしまった──という状況になった。破壊はあまりに早い。まさに″建設は死闘、破壊は一瞬″である。
14  大聖人の御文を受けて、日寛上人は「なぜ天台門下が邪義を破折できなかったか」について、「文段」で簡潔かんけつ明瞭めいりょうにまとめておられる。つまり「初めには智慧ちえうすきがゆえに。次に権威を恐るるが故に」と。
 天台宗が歩んだ、この歴史の教訓を、皆さま方、特に青年部の諸君は、胸に刻みつけていただきたい。
 いかに巧妙に仕組まれた策謀や邪義をも、鋭く見破っていく「智慧」、そして、いかなる権威をも恐れずに、堂々と正義を叫びきっていく「勇気」──この二つを兼ねそなえてこそ、本物といえる。
 もし、後継の門下に「智慧」と「勇気」がなければ、もはや法戦には勝てない。また「信」は「智慧」の源泉である。浅き信には、浅き智慧しかそなわらない。深き信があってこそ、深き智慧も限りなくわいてくる。ゆえに若き諸君は、何よりも信心の利剣を磨いてもらいたい。
15  中国の天台宗は、このように「第三祖」から、急速に衰亡すいぼうの坂をころげ落ちる。とともに、日本の天台宗も、その転落の方程式は、よく似たものであった。
 ご存じのように、伝教大師亡きあと、天台宗は真言宗の影響を強く受け、密教化していくが、その傾向を急速に強めたのが、円澄えんちょう座主ざすとする時代であった。円澄は、比叡山ひえいざんの座主としては第二代だが、伝教から数えるとやはり第三祖となる。
 御書には、円澄の変節について、「円澄は半は伝教の御弟子・半は弘法の弟子なり」と述べられ、その本質を喝破かっぱされている。
 第二祖日興上人は、「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事」と遺誡ゆいかいされた。
 第三祖の日目上人は、まさにこの御遺誡そのままに、七十四歳の御入滅まで「死身弘法」の生涯をまっとうされている。こうした御姿こそ大聖人門下としての″かがみ″であり、ここに、万代にわたる令法久住りょうぼうくじゅうの″いしずえ″があったと拝されてならない。
 もとより次元は異なるが、戸田先生は、学会万代の発展のためには、第三代こそ重要であることを、つねづね話しておられた。私自身、その使命の重みを日々かみしめながら、今日まで、正法護持と世界広布のために、走りに走ってきたつもりである。
16  「正法」の後退に「悪法」は増長
 中国における天台亡きあとの諸宗の動きについて、少々、見ておきたい。
 法相宗に続いて、かつて天台が完膚かんぷなきまでに破折した華厳けごん第一の邪義も、唐の女帝・則天武后そくてんぶこう帰依きえを受け、再び勢力を盛り返した。
 さらに、いわゆる「三三蔵さんさんぞう」と呼ばれる善無畏ぜんむい三蔵、金剛智こんごうち三蔵、不空ふくう三蔵の三人の密教僧が、相次ぎインド方面から中国を訪れ、真言宗を開いた。これも、玄宗げんそう皇帝らの保護のもと、勢力を得、興隆していった。
 華厳宗も真言宗も、かつての法相宗と同じく、時の権力に取り入り、力を伸ばした。とともに、いずれも、天台の精緻せいちな法門を巧妙にぬすみ取り、法義を構築し、理論武装していった。
 これに対し天台の末学たちは、まことに浅はかというべきか、なすすべもなく、黙って悪法の栄えを許していた。ひとたび「正法」「正師」が後退してしまえば、そのスキにつけこんで、「悪法」「悪師」が際限なく増長し、はびこっていく。これが、いつの世も変わらぬ現実である。この鉄則から目をそらし、天台門下は邪義の跳梁ちょうりょうを黙視した。
 それは、もはや「門下」の名にもあたいしない、はかない″敗者″の姿である。深き鍛錬なき人ほど、時とともに世間に迎合し、時流に押し流されていく。若き日に、信心の鍛えをおこたってはならないと、私がいつも申し上げる理由がここにもある。
 天台門下の堕落だらくについて、大聖人は次のように仰せである。
 「墓ないかな天台の末学等華厳真言の元祖の盗人に一念三千の重宝を盗み取られて還つて彼等が門家と成りぬ章安大師兼ねて此の事を知つて歎いて言く「斯の言若し墜ちなば将来悲む可し」
 ──情けないことには、天台の末学たちは、華厳宗や真言宗の元祖に「一念三千の法門」という重宝を盗み取られ、かえって彼らのごとき盗人の門家となりさがってしまった。章安大師は、かねてこのことを予見し、嘆いていうには、「この一念三千の法門が、もし将来、失墜しっついすることがあれば、実に悲しむべきことである」と──。
 永遠にわたる広布の繁栄を願う私どもにとっては、まさに肺腑はいふをえぐられるような御文である。
 中国の人々にとっては「外来」であり、また「新興」の宗教でもあった真言宗が、いつの間にか蔓延まんえんしていった。それは、なぜか。
 その点について、日寛上人は「報恩抄文段」で、大聖人の仰せについて四点に整理されている。
 まず「初めに近きをいやしみ遠きをとうとぶにる」と。すなわち、真言宗をおこした「三三蔵」と呼ばれる三人は、いずれも「月氏(インド)の人」であった。そのため、人々には、身近な中国の仏教者より、遠くの彼らの方が立派そうに思えた。
 次に「二に法を貴ばず種姓すじょうを貴ぶに由る」──。「三三蔵」は、王族等、高貴な家柄の出身であった。そのため人々は、法の内容以前に、高貴な身分、その社会的な地位に眩惑げんわくされてしまった。
 さらに「三に内智を貴ばず外相げそうを貴ぶに由る」──。この真言の開祖たちは、姿や振る舞いが、とても立派そうに見えた。その外見に心奪われ、人々は、目に見えない内面の境涯、心根というものを見きわめることができなかった。
 最後に「四にふるきを捨てて新しきを取るに由るなり」──。真言の教えは、当時の人々には目新しく、新鮮にうつった。人々は、その新しさに飛びつき、以前からの信仰を捨て去った。
 まことに人間の心理、人情のあやを極めた御指南と拝されよう。
 さらに日寛上人は「此等の人情は古今一同なり」と。
 こうした人間の心理は、今も変わらないし、信心を失い、正しき法を見失う″落とし穴″となる。また、それを利用して、新しい一派を立てようとする動きも起きてくる。若きリーダーの諸君は、こうした構図を冷徹に見抜き、とらえていく、確かな″眼力″をもたねばならない。
17  さて、真言宗の興隆と中国社会とのかかわりについて、大聖人は、次のように御指南されている。
 「漢土にこの法わたりて玄宗皇帝ほろびさせ給う」──中国に真言宗がわたって、それを用いた玄宗皇帝は滅びてしまった──と。
 玄宗は当初、優れた治政を行い、唐の黄金期を築き上げた名君であった。それにもかかわらず、晩年には楊貴妃ようきひへの寵愛ちょうあいにおぼれ、政治への情熱を失ってしまう。こうした皇帝の無気力は、社会の腐敗ふはいと混乱をまねき、やがて「安史あんしの乱」(七五五年)が起きるなど、世の乱れは頂点に達する。こうしたなか、玄宗自身、失意と苦悶くもんのうちに死を迎える。「立正安国論」に仰せのままの姿が、ここにある。
 「下山御消息」には「大悪法を尊まるる故に理不尽の政道出来す」──大悪法を尊むゆえに理不尽な政治が現れた──と。
 指導者が「悪法」「悪師」につくことが、社会全体に、どれほど深刻な混迷をもたらすか。また、それが、どれほど民の苦しみと不幸の原因となるか。ここに、正法をたもった私どもが断じて勝利していかねばならない所以ゆえんがある。
18  インドにおいて仏教が衰退した原因について、「民衆からの遊離」に、その最大の理由があったことは、以前にも申し上げた。こうした事情は、中国の天台宗にも、そのまま当てはまる。
 その一例として、いわゆる「暗黒時代」のある天台座主は、ひたすら山中にあって、静寂せいじゃくを求めた。自身の世界に閉じこもり、人間社会の現実と積極的に関わろうとしなかった。
 民衆の大地から離れ、民衆に根を張りゆく労苦を忘れてしまえば、もはや発展も、繁栄も、絶対にありえないのは道理である。
19  使命の国土から人材の大河
 最後に、「閻浮提中えんぶだいちゅう御書」の一節を拝したい。
 「願くは我が弟子等は師子王の子となりて群狐に笑わるる事なかれ、過去遠遠劫より已来日蓮がごとく身命をすてて強敵のとがを顕せ・師子は値いがたかるべし
 大聖人は門下の私たちに、師子王の子となって、群狐(群れをなすキツネ)に笑われることがあってはならない。過去遠々劫より以来、大聖人のように、身命を捨てて、強敵のつみを明らかにし、打ち破ってきた師子王にあうことは難しい、と仰せである。
 この崇高なる精神こそ、「師子の道」であり、「創価の道」である。この信心の大道を、皆さま方は堂々と疾駆しっくし、「人生」と「広布」の永遠なる凱歌がいかの歴史を飾っていただきたい。
20  「人材の大河」神奈川の地からは、日本はもとより、世界各地に広布のリーダーがおどり出ている。
 たとえば、
 神奈川は、世紀へ、世界へと人材を育てゆく使命深き国土であると、私は確信してやまない。これからも、なお一層、人材乱舞、人材輩出の大拠点であれと申し上げ、本日のスピーチとさせていただく。

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