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日蓮大聖人・池田大作

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善無畏三蔵抄  (2/10) 南北の智人等・雲の如く起り東西の賢哲等・星…
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見たがへて申すか又人の私に我と経文をつくりて事を仏説によせて候か、智慧おろかなる者弁へずして仏説と号するなんどと思食すべし、慧能が壇経・善導が観念法門経・天竺・震旦・日本国に私に経を説きをける邪師其の数多し、其の外私に経文を作り経文に私の言を加へなんどせる人人是れ多し、然りと雖も愚者は是を真と思うなり、譬えば天に日月にすぎたる星有りなんど申せば眼無き者は・さもやなんど思はんが如し、我が師は上古の賢哲・汝は末代の愚人なんど申す事をば愚なる者はさもやと思うなり、此の不審は今に始りたるにあらず陳隋の代に智顗法師と申せし小僧一人侍りき後には二代の天子の御師・天台智者大師と号し奉る、此の人始いやしかりし時・但漢土・五百余年の三蔵・人師を破るのみならず月氏・一千年の論師をも破せしかば南北の智人等・雲の如く起り東西の賢哲等・星の如く列りて雨の如く難を下し風の如く此の義を破りしかども終に論師・人師の偏邪の義を破して天台一宗の正義を立てにき、日域の桓武の御宇に最澄と申す小僧侍りき後には伝教大師と号し奉る、欽明已来の二百余年の諸の人師の諸宗を破りしかは始は諸人いかりをなせしかども後には一同に御弟子となりにき、此等の人人の難に我等が元祖は四依の論師・上古の賢哲なり汝は像末の凡夫愚人なりとこそ難じ侍りしか、正像末には依るべからず実経の文に依るべきぞ人には依るべからず専ら道理に依るべきか、外道・仏を難じて云く「汝は成劫の末・住劫の始の愚人なり我等が本師は先代の智者・二天・三仙是なり」なんど申せしかども終に九十五種の外道とこそ捨てられしか。

日蓮八宗を勘へたるに法相宗・華厳宗・三論宗等は権経に依つて或は実経に同じ或は実経を下せり、是れ論師人師より誤りぬと見えぬ、倶舎・成実は子細ある上・律宗なんどは小乗最下の宗なり、人師より論師・権大乗より実大乗経なれば真言宗・大日経等は未だ華厳経等に及ばず何に況や涅槃・法華経等に及ぶべしや、而るに善無畏三蔵は華厳・法華・大日経等の勝劣を判ずる時・理同事勝の謬釈を作りしより已来或はおごりをなして法華経は華


厳経にも劣りなん何に況や真言経に及ぶべしや、或は云く印・真言のなき事は法華経に諍ふべからず、或は云く天台宗の祖師多く真言宗を勝ると云い世間の思いも真言宗勝れたるなんめりと思へり、日蓮此の事を計るに人多く迷ふ事なれば委細にかんがへたるなり、粗余処に注せり見るべし又志あらん人人は存生の時習い伝ふべし人の多く・おもふには・おそるべからず、又時節の久近にも依るべからず専ら経文と道理とに依るべし、浄土宗は曇鸞・道綽・善導より誤り多くして多くの人人を邪見に入れけるを日本の法然・是をうけ取つて人ごとに念仏を信ぜしむるのみならず天下の諸宗を皆失はんとするを叡山・三千の大衆・南都・興福寺・東大寺の八宗より是をせく故に代代の国王・勅宣を下し将軍家より御教書をなして・せけどもとどまらず、弥弥繁昌して返つて主上・上皇・万民・等にいたるまで皆信状せり。

而るに日蓮は安房の国・東条片海の石中の賤民が子なり威徳なく有徳のものにあらず、なににつけてか南都・北嶺のとどめがたき天子の虎牙の制止に叶はざる念仏をふせぐべきとは思へども経文を亀鏡と定め天台・伝教の指南を手ににぎりて建長五年より今年・文永七年に至るまで十七年が間・是を責めたるに日本国の念仏・大体留り了ぬ眼前に是れ見えたり、又口にすてぬ人人はあれども心計りは念仏は生死をはなるる道にはあらざりけると思ふ、禅宗以て是くの如し一を以て万を知れ真言等の諸宗の誤りをだに留めん事手ににぎりておぼゆるなり、況や当世の高僧・真言師等は其の智牛馬にもおとり螢火の光にもしかず只死せるものの手に弓箭をゆひつけ・ねごとするものに物をとふが如し、手に印を結び口に真言は誦すれども其の心中には義理を弁うる事なし、結句・慢心は山の如く高く欲心は海よりも深し、是は皆自ら経論の勝劣に迷ふより事起り祖師の誤りをたださざるによるなり、所詮・智者は八万法蔵をも習ふべし十二部経をも学すべし、末代濁悪世の愚人は念仏等の難行・易行等をば抛つて一向に法華経の題目を南無妙法蓮華経と唱え給うべし、日輪・東方の空に出でさせ給へば南浮の空・皆明かなり大


光を備へ給へる故なり、螢火は未だ国土を照さず宝珠は懐中に持ぬれば万物皆ふらさずと云う事なし、瓦石は財をふらさず念仏等は法華経の題目に対すれば瓦石と宝珠と螢火と日光との如し。

我等が昧き眼を以て螢火の光を得て物の色を弁ふべしや、旁凡夫の叶いがたき法は念仏・真言等の小乗権経なり、又我が師・釈迦如来は一代聖教乃至八万法蔵の説者なり、此の娑婆・無仏の世の最先に出でさせ給いて一切衆生の眼目を開き給ふ御仏なり、東西十方の諸仏・菩薩も皆此の仏の教なるべし、譬えば皇帝已前は人・父をしらずして畜生の如し、堯王已前は四季を弁へず牛馬の癡なるに同じかりき、仏世に出でさせ給はざりしには比丘・比丘尼の二衆もなく只男女二人にて候いき、今比丘・比丘尼の真言師等・大日如来を御本尊と定めて釈迦如来を下し念仏者等が阿弥陀仏を一向に持つて釈迦如来を抛てたるも教主釈尊の比丘・比丘尼なり元祖が誤を伝え来るなるべし。

此の釈迦如来は三の故ましまして他仏にかはらせ給ひて娑婆世界の一切衆生の有縁の仏となり給ふ、一には此の娑婆世界の一切衆生の世尊にておはします、阿弥陀仏は此の国の大王にはあらず釈迦仏は譬えば我が国の主上のごとし先ず此の国の大王を敬つて後に他国の王をば敬ふべし、天照太神・正八幡宮等は我が国の本主なり迹化の後・神と顕れさせ給ふ、此の神にそむく人・此の国の主となるべからず、されば天照太神をば鏡にうつし奉りて内侍所と号す、八幡大菩薩に勅使有つて物申しあはさせ給いき、大覚世尊は我等が尊主なり先づ御本尊と定むべし、二には釈迦如来は娑婆世界の一切衆生の父母なり、先づ我が父母を孝し後に他人の父母には及ぼすべし、例せば周の武王は父の形を木像に造つて車にのせて戦の大将と定めて天感を蒙り殷の紂王をうつ、舜王は父の眼の盲たるをなげきて涙をながし手をもつて・のごひしかば本のごとく眼あきにけり、此の仏も又是くの如く我等衆生の眼をば開仏知見とは開き給いしか、いまだ他仏は開き給はず、三には此の仏は娑婆世界の一切衆生の本師な