Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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生命光る”華冠”の友(下) 自身を磨け 麗しき同志と進め

2002.11.12 随筆 新・人間革命5 (池田大作全集第133巻)

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1  少々、古い言葉であるが、中国の名言にこうある。
 「英華発外」──”内面の優れた精神や美しさが外に表れる”という意味である。
 ともあれ、日蓮仏法の根本は御本尊である。その本尊は、わが身の当体にある。それを境智冥合して、引き出してくれるのが「信心」だ。そこには幸いを招き寄せ、必ず福徳に包まれ、守られていく人生となると、御断言なされている。
 ゆえに私たちは、信仰するのだ。信仰は全部、汝自身のための宝だ。
 さらに、そのすばらしき人生のために、大聖人は、心して「悪知識を捨てて善友に親近せよ」と結論なされている。
 「悪知識」は正邪を知らぬ悪友である。それに従っては、妙法を誹謗しゆく邪道の人生だ。
 「善友」とは、”わが身が宝塔なり”との極善の人生の人である。その人と親しく大法の道を歩んでいけ、との大意であった。
 ブラジルの探検家、開拓者として著名なロンドン元帥は、「命そのものより大切なもの。それは、その命を生きるための精神である」と喝破した。
 全く、その通りだ。
 ご存じの通り、現実の社会は厳しく、矛盾だらけであり、誰を信用していいかわからない。騙される場合も多い。なんのための人生かと嘆く人も多い。
 そのなかにあって、根本の人生の指針をもてば、人生を勝ち抜き、楽しく生き抜く方法は、いくらでもある。
 友よ、毅然として、自分の周りから悪を退け、善の連帯を拡大することだ。何があろうとも、創価学会という正義の善友のスクラムから離れないことだ。
 同志の世界には、友情があり、信頼がある。触発があり、励ましがある。
 この雄々しき同志と生き抜くなかに、「共々に成長しよう!」「困難に負けないで、挑戦し抜いてみせる!」と勇気がわき、力がみなぎる。これこそ生涯にわたる幸福の大道である。
2  華冠グループの”出発の原点”といえば、北海道・大沼の函館研修道場であった。この地には「華冠の碑」が、今でも微笑するかのように立っている。
 碑の起工式は一九七八年(昭和五十三年)の六月二十三日。私たち夫婦も参列し、妻が日頃の感謝を込めて、クワ入れをさせていただいたことも懐かしい。
 この時、私たちは華冠の木として、「ドウダンツツジ」を記念植樹した。
 「ドウダン」は「満天星ドウダン」と書かれる。なんと理想も高く輝く、ロマンの名前であろうか。
 思えば、妙楽大師の有名な言葉に、わが身と天地とを関連づけて、たとえば、眼は日月に、髪は星辰に、眉は北斗七星に、また皮膚などは大地にあたると説かれている。(「止観輔行伝弘決」)
 いわば、私たちの身体は、それ自体、大宇宙(マクロコスモス)の美が結晶した、荘厳なる小宇宙(ミクロコスモス)と捉えられているのである。本来、生命は最極に美しいものだ。
 そのなかで、不思議にも、多くの華冠の皆様にとって最もかかわりの深い「髪」や「眉」を、天上の星々になぞらえているのだ。
 満天を彩る星々のごとく、わが華冠の友の頭上に、無量の福光よ輝きわたれ、と祈りたい。そして、皆様こそが、濁った社会を、燦然たる善美の光で浄化しゆく方々なのだ!
3  ドイツの大詩人シラーが、高邁な魂の詩をもって、かのジヤンヌ・ダルクへの中傷を打ち砕いたごとく!
 「光かがやくものを黒く塗り、/高貴なるものを塵芥に委ぬるは、人の世の好むところ。/されど恐るる勿れ! なほ美はしき心はありて、/高きもの栄えあるもののため心を燃え立たしむ」(「オルレアンの少女」大野敏英訳、『シルレル詩全集』下所収、白水社)と、彼は歌った。
 一九八三年(昭和五十八年)の夏、華冠の代表と、再び函館研修道場で、お会いした。
 その夏は雨続きだったが、皆様の到着を待っていたかのように雨はやみ、満月が皓々と昇った。それは、あまりにも美しき華冠の使命を象徴しているようだと、妻と共に語り合った。
 その翌日、私たちは、「華冠の碑」の前で記念撮影し、道場内を三々五々と語らいを弾ませながら散策した。皆の胸には、広宣流布、妙法流布という夢と希望が、自然の姿のなかに漂っていた。
 今もその方々は、健康美に包まれながら、第一線で戦っておられるということも伺っている。本当に嬉しい。

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