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日蓮大聖人・池田大作

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第五章 生活環境の保障こそ健全な社会  

「子供の世界」アリベルト・A・リハーノフ(池田大作全集第107巻)

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1  子どもと老人――社会の二つの翼
 リハーノフ どこの国でも社会でも、他に頼らなければならない階層が二つあります。それは、もっとも傷つきやすくて無力な層で、社会の中心的な階層しだいで状況が左右されてしまう人々です。
 その人々とは、子どもと老人のことです。
 子どもは「まだ」無力で、老人は「すでに」無力です。
 ですから、どこの社会でも子どもと老人を守り、すこやかな生活環境を保障する義務があります。
 この子どもと老人の依存性について、もっと話したいとは思いますが、また後ほど戻ることにして、ここで逆に社会もまた、子どもと老人に左右されていることに目を向けてみたいと思います。
 この年少者と年長者は、強い大きな鳥の両翼に譬えられるのではないでしょうか。たとえ鳥の体のつくりがしっかりしていて、健康で力がみなぎっていたとしても、翼も同じように力強くて健康でなければ、空を長く飛んでいることなどできないでしょう。
 社会も同じです。体だけでなく、翼も健康でなければなりません。鳥が高く飛べるのは翼があるからであり、翼こそ鳥の誇りであり、強さなのです。
 社会や国家も、調和をめざすには、まず子どもと老人の地位向上のために最善を尽くすことが、最重要の社会的義務ではありませんか。
 池田 社会の健全なあり方を、鳥の飛翔に譬えられたのは、たいへんわかりやすく、美しい形容であると思います。
 私は、子どもと老人に、もう一つ、母を加えたいと思います。いずれも、社会的には弱い立場に置かれている人たちであり、そこにどうスポットが当てられているかが、鳥が高く飛べるかどうか、すなわちその社会の健全さの度合いがどうであるかを測るバロメーター(物差し、目印)と言えるでしょう。
 ゆえに、私はかつて、フランスの作家アンドレ・モーロアの「政治の役割は母と子を救うことである」(『初めに行動があった』大塚幸男訳、岩波書店)という言葉を取り上げ、ともすれば弱肉強食のエゴイズムや権力欲におぼれがちな政治に、警告を発したことがあります。
 みずからの栄達を追うのではなく、国や社会の未来を案ずるなら、何をおいても母と子(老人を含めて)を手厚く遇することこそ、政治の本質であるからです。政治の矛盾や欠陥を、もっとも迅速かつ的確に写し取るのは、そうした弱い立場の人たちであり、政治家たるもの、その点への目配りを片時も怠ってはなりません。
 リハーノフ おっしゃるとおりです。
 世界では、とくにイスラム圏やアフリカの一部の国では、子どもという翼が大きくなりすぎているところがあります。もっとも、子どもが多すぎるだなんてとんでもない言い方かもしれませんが。ただ私は統計上の事実を確認しておきたいのです。
 世帯当たりの子どもの数が多いこれらの国では、子どもの人口が、養い手である大人の二倍、三倍、四倍にもなっています。こういった国は経済でつまずいていて、子どもたちに必要な分だけの食糧生産が追いつかない状況です。
 しかもこれらの国は、エチオピアなどがいい例ですが、不安定な自然環境に囲まれている場合が多く、旱魃などの自然災害に襲われることがたびたびあり、その結果、疫病が発生するといった具合なのです。
 たとえそういう状況がなかったとしても、つまり子どもの人口の膨張は、国家という「鳥」の、子どもという「翼」があまりにも大きくなってしまった状態で、そうなると当然飛び方も変則的になり、ちゃんと飛べなくなってしまいます。
 池田 古来、“子宝”などと言われ、子どもは多ければ多いほどよいとされてきましたが、グローバル(地球的)に人口問題を考えた場合、おっしゃるとおりの現実ですね。
 このままでは、二十一世紀に必ずやってくるであろう人類の危機は、ジレンマならぬトリレンマ(三方塞がり)と言われています。
 人口爆発を背景に、①それを養うための経済発展、②それを可能ならしむる資源、エネルギーの大量消費、③それが不可避的にもたらす環境破壊――こうした閉塞状況は、まさに人類史的な大問題であり、すでにわれわれは、引き返し不能の点を超えたという、悲観論をものする識者もいるほどです。
 私は、基本的には楽観主義でいきたいと思っていますが、事態がそこまで深刻化してきているという、厳しい現状認識だけはもたなければならないと思います。
 先ほどの政治のあり方になぞらえて言えば、さしあたり、そうしたトリレンマの苦痛をもっとも受けているのが第三世界の人たちです。
 大量生産・大量消費・大量廃棄を軸にする、二十世紀型の工業文明のあり方の転換を図る責任は、いつに、その“恩恵”を独り占めにし、つかの間の快適さに酔いしれているアメリカや日本、ヨーロッパなどの先進工業国にかかってきます。
2  日本とロシアの“少子化”の現状は
 リハーノフ 逆に、「子ども」という社会の翼が、あまりにも小さい場合もあります。
 この傾向は、たいてい豊かな国に見られます。そこでは出生率を高めるために、国をあげての努力がなされています。たとえば、スウェーデンや中央ヨーロッパの一部では、子どもを産むように奨励するための手当が出されるようになりました。
 池田 日本でも“少子化”は、進んでいます。一九九〇年六月、一人の女性が一生に出産するであろう子どもの数が一・五七人という統計が発表され、「一・五七ショック」という言葉さえ生まれました。
 高齢化社会の到来と相俟って、国の前途を憂慮する声も多々ありましたが、その傾向は強まるばかりで、一九九五年度では一・四二人まで、落ち込んでいます。このままいけば、百年後には、日本の人口は半減してしまう、とさえ言われております。
 国の側でも、一定水準以下の収入の家庭には「児童手当」を支給していますが、漸減傾向に歯止めはかからないようです。
 ロシアでも、似たような現象があるのではないですか。
 リハーノフ 背景は異なるかもしれませんが、“少子化”という点では、ロシアも同じです。人口の再生産の法則では、各家庭に三人の子どもが必要で、そのうち、二人は両親の人数を補い、三人目が人口の増加を確保します。
 今、社会的事情により、一人しか子どものいない家庭が大半です。これは、国全体として人口の減少を意味しています。そのおかげで、現在ロシアでは、年間百万人、人口が減っています。
 日本はどうかわかりませんが、ロシアでは現在、子どもを産み、育て、教育していくというのは、非常にお金のかかる楽しみとなってしまいました。国を襲っている経済の不安定が、社会を豊かな者と貧しい者に分けてしまいました。
 多くの子どもが――こんなことは戦時中からなかったことですが――ごみ箱をあさって食べ物を探しています。その一方、ベンツで学校に送ってもらう子どもがいます。
 子どもを産まないわけにはいかないんだから、困難を克服しなければいけない、いつかはよくなるんだから、と言葉で言うことは簡単です。
 多くの人が、今、政府を信じておらず、困窮し、飢えています。こうしたすべてのことが、出生率や子どもの健康や教育に影響をおよぼしています。
 池田 痛ましいお話です。日本の“少子化”をもたらした要因は、そうした経済面というよりも、むしろ精神的な面にあるような気がしてなりません。
 そしてその背景には、家族像、家庭像というものの、崩壊とまではいかずとも、揺らぎという現象が横たわっています。この問題は、章をあらためて論じたいと思います。
 リハーノフ そこから派生してくる問題点は、はっきりしています。子どもが少ないということは、労働人口が減るということで、そうすると国家は移民を受け入れざるをえなくなるわけですが、それで事が解決するわけではありません。当然、社会的、倫理的な論議をかもしだすことになってしまうでしょう。
 というのも、移民も新たに祖国となったその国の発展に貢献するわけですから、移民の人々にも豊かさを分けあたえていかなくてはならなくなるのです。
 ドイツで騒がれたトルコ移民殺人事件も、結局はこの国の「子ども」という翼が小さくなってきたことが、引き起こした事件と言えるでしょう。こういう状況は、民族エゴや社会的不平等からくる紛争を誘発してしまい、そこにはファシズム的要素さえ出てきます。
 このような状況は、人口という観点から見た子どもの試練とも言えるものではないかと思います。
3  子どもの出生の権利をめぐる課題
 池田 人口爆発を避けるという点から見れば、“少子化”は必ずしも憂うべき現象ではないかもしれませんが、私は、そうは思いません。
 なぜなら、現在の“少子化”をもたらしているのが、人類の未来を見据えて、などという大局的な観点からの前向きの選択であるとは、とうてい言えないからです。
 日本でも、よく“ウサギ小屋”などと酷評される住宅事情などの物的要因もありますが、それとならんで無視できないのは、現代文明のもたらした豊かさ――モノや時間をもっともっと享受したいという、いわゆる安楽志向です。
 そこからは、家庭での子育てにまつわる苦労、わずらわしさなども、なるべく忌避されていくでしょう。
 そして私は、こうした傾向が、あのローマ時代の末期の衰亡を招いた精神的な要因と、多くの点で共通しているように思えてならないのです。周知のように、ローマ帝国の末期である二世紀ごろからの数百年は、人口の減少を民族の移動――今でいえば移民です――で補っていた時期です。
 リハーノフ なるほど、興味深いご指摘だと思います。
 国は平和なのに、子どもたちは死んでいく。あるいはそもそも生まれてこない……。
 人口政策というのは――人口の実態もそうですが――何百年、少なくとも何十年もの間にこんがらがってしまった結び目のようなもので、それをほどくのは途方もなくたいへんなことです。うまく解決された例など、私は聞いたことがありません。
 中国は上からの指令によって出生率を規制した結果、子どもの数は減らすことができましたが、それが中国社会にどのような精神的な傷跡を残したか、だれも正確にはわからないでしょう。
 池田 一人っ子をかわいがるのは、人情の常です。それが過保護となり、将来どのような形で社会に跳ね返ってくるか――たしかに、予断を許しません。
 リハーノフ 人口政策が、世界的に見て、グローバリズム(地球主義)や地政学(地理的条件と政治との関係を研究する学問)のもっとも重要な部分をなしているのは明らかです。
 またそれは、もっとも解決のむずかしい部分でもあります。このことは私たちに、産むべきか産まざるべきか、という中絶問題に対する倫理的結論をいやおうなく迫ります。
 国連で採択された「子どもの権利条約」には、生きる権利がうたわれていますが、しかしこれは、すでにこの世に生まれ出た生命を対象としています。一方、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世は、ロシア正教も同じですが、まだ子どもの姿をしていない受精卵の生存権を主張しています。
 こうなると、はっきりと対立する社会勢力ができていくことになります。フェミニズム(女権拡張論)は母親の選択権を主張します。中絶反対運動は、宗教の説くところを是とした、きわめて人道的なものではありますが、市民権のかなりの部分を否定してしまっています。
 子どもの出生の権利というのは、まったくむずかしいテーマだと慨嘆したくなるのですが、いかがですか。
 池田 私も、基本的には人工中絶には反対であり、受精卵の生存権を主張したいと思います。
 仏教医学の観点からは、受精の瞬間を、生命誕生の時ととらえています。したがって、母体が危機にさらされるときなど特殊な例外を除いて、安易な中絶行為は慎まなければなりません。
 とはいえ、人口爆発は避けなければなりません。おっしゃるとおり、子どもの出生の権利というものは、むずかしいテーマですね。やはり、内面的な、内発的な倫理性を磨いていく以外に王道はないのでしょう。

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