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心影余滴 昭和二十年七月~昭和二十八年

若き日の手記・獄中記(戸田城聖)

前後
2  南無阿弥陀仏の信仰は、阿弥陀仏を以って最高の理想とする。即ち、その行くべき道の極点が示されている。科学についてこれを言うならば、原子爆弾の発明を以って、その極点とするの法である。原子爆弾の発明を究極の理想とし、明日の希望として、今日の夕方に明日を祈念し、楽しみとしての人生である。
 南無妙法蓮華経の信仰は、向上を意味する、無限の向上である。朝に今日一日の伸びんことを思い、勇躍して今日一日を楽しむ。しかして無限に向上して行く、究極を見ない。原子爆弾を以って最高とはしない。
 まだまだ、その上へその上へと向上して行く法である。ーは最高を指示され、ーは向上の法を指示さる。
   (昭和二十年九月二十二日)
 ☆「心影余滴」より。
3  自分は妙法蓮華経が、仏陀の命であり、我等衆生の命であると確心している。この確心は、釈尊の自ら、自分に教えられたところであり、日蓮の自ら、我が身にささやかれたところである。自分は少なくとも日本国において、法華経を読める者の一人たるを確信する。
 人曰く「あなたは、どこにて法華経を知りましたか」と。
 自分は答えて曰く「五百塵点劫以前に釈尊に教えを聞き、現世において、しかも、牢獄以来これを思い出しました」と。
 しかし、人のよくこれを信ずるものはない。
 経に日く「一切の声門辟支仏の知る能わざるところ」と。また、人のよく至るなしと。人の信ぜざるもまたむべなるかな。
 深く過去遠々劫より、この五体のまま経を聞きたりとするも、だれかよく信ぜん。されど我れは、深く了解せり。この五体このままに仏に遇い教えを聞き、今ここに受持すと。
 独房にての歌を想い出せるままに。
  
  つかれ果て 生きる力も 失いて
     独房の窓に 母を呼びにき
 この境地は弱かった。もし父人を知りなば,この歌はなかったであろうか。それともこんなに弱くなってこそ、真の父を知ったのであろうか。
 永久の生命を感得する前、仏の姿を見る前の境地であったろうか。
  
  友もなく 屋根に花咲く 野辺の草
     力強きを 誇りてぞある
 まだ法華経を知らざる前、Lさんを想って、自分の力を、生命力を、誇ったものだが、妙法を知らざる生命は、その後一年で前記の歌となった。
 やはり妙法の命でなくては、強い強い生命に生きられまい。
  
  安らかな 強き力の 我が命
     友と国とに 捧げてぞ見ん
   (昭和二十一年三月三日)
 ☆「心影余滴」より。
4  妹の主人宛て
 k雄さん、城聖は(城外改め)三日の夜拘置所を出所しました。思えば、三年以来、恩師牧口先生のお伴をして、法華経の難に連らなり、独房に修業すること、言語に絶する苦労を経てまいりました。おかげをもちまして、身「法華経を読む」という境涯を体験し、仏教典の深奥をさぐり遂に仏を見、法を知り、現代科学と日蓮聖者の発見せる法の奥義とが相一致し、日本を救い、東洋を救う一代秘策を体得いたしました。
 これは一に私の心境を開発するとともに、戸田一家の幸福を増進するものと確心しております。
 このことは、一つには日常の生活に表れ、一つには事業の形成に表れ、目前半年或いは一年間に、この三年間の留守を相当取りかえす決心をいたしております。
 留守中にあなた方夫婦が、献身的な親切を私の為にしてくださったその厚意は、拘置所にいる間、私の心境が澄めば澄むほど、胸に写り、感謝に堪えませんでした。日に一度、毎日お礼を申しておりました。この私のお礼は、あなた及びG子(妹)の、法性浄妙の仏性、即ち、「南無妙法蓮華経」に写ったことと確信しております。さりながら、今ここで改めて文字として、私の心を表現して感謝を申し述べることは、実にうれしいことでございます。
 ありがとう。
 この一言、万感をこめてお礼を申し述べます。
 ツネ姉さんは、死んだお母さんの代理として私の家にいてくれます。いままで、姉さんをたいせつにしなかった私の馬鹿が、拘置所でつくづくと後悔せられました。うめあわせに、死んだお母さんの分まで姉さんをたいせつにするつもりです。ともにK雄さん、あなたを弟として遇しなかった私の傲慢な心を、拘置所でつくづく後悔してまいりました。
 しかし、この点をよく反省したおかげで、あなたというりっぱな弟を一人、この四六になって急にできたことをうれしく思います。K雄さん、いままでの私の失礼を許してください。
 そして、私にK雄さんとなれなれしく呼ばして弟として私にかわいがられてください。およばずながら、いたらぬ兄として仲よく、あなたと、この急迫した時勢を生き抜きたいと思います。A子(姪)にも、G子(妹)にも、会いたい心は一ぱいですが、時機がくれば会えると信じておりますから、その時機を待って、二人をよくかわいがりたいと思っております。
5  私のこのたびの法華経の難は、法華経の中のつぎのことばで説明します。
 在々諸仏土常与師
 倶生と申しまして、師匠と弟子とは、代々必ず、法華経の供力によりまして、同じ時に同じに生まれ、ともに法華経の研究をするという、何十億万年前からの規定を実行しただけでございます。
 私と牧口常三郎先生とは、この代きりの師匠弟子ではなくて、私の師匠の時には牧口先生が弟子になり、先生が師匠の時には私が弟子になりして、過去も将来も離れない仲なのです。こんなことを言いますと、兄貴は夢のようなことを言っている、法華経にこりかたまっていると一笑に付するでしょう。
 しかし、哲学的に電気化学の原理、電子論に原子論に研究を加えれば、加えるほど、生命の永久を確心しなくてはならないのであります。K雄さん、人の一生は、この世きりではありません。また親子、兄弟、夫婦、主従、子弟の因縁ではありません。その中の子弟の因縁の法華経原理を身をもって読むといいまして、自分の身に休験し体現したのが、私の事件です。深遠な教理と、甚深な信仰と熱烈な東洋愛、燃えた私の心境をつかんでまいりました。
   (昭和二十年九月)
 ☆これは一ノ関の妹の主人宛てのものである。下書きのままになっており、投函されたかいなかは不明である。戸田が獄にいるあいだ、一人むすこはこの一ノ関に疎開していた。出獄後すぐ感謝の意をこめて書いたものである。
6  夫人の弟宛て
 三年間の独房の生活。ついに確心取った。弟子本尊の本当の生活意識をとりもどした。その日のくるまで、御本尊様からお許しはいただけなかった。七月三日午後八時、ついにお許しを得て、七二九日目で台町の家に帰った。
 思えばその間、始終、君のことを忘れなかった。僕の為に本当に心配してくれる味方と信じ、帰ったならば手を握り、体をいだいて感謝をしたいと思っておりましたのに、社の為にご出張、相見ることができない。まことに残念だった。
 永い留守の間、ありがとう。何から何まで頼って、兄顔してわがままを言い、申しわけない。留守中の私のわがままを許してください。ただただ、留守中のことを感謝しております。非常に弱って帰ったけれども、心は非常に強く、信仰の何たるかをすっかり握り、国家の為に今後の生命をなげださん一大決心の上に、一大事業を心に計画して帰ってまいりました。
 法華経の研究を重ねてみると、君と僕との兄弟関係は、世間の普通の考えではこの世で始まったようにしか考えられないが、それは法華経迹門の考え方で、本門の考え方によると、過去遠々劫々から兄弟であったことになります。しかし、それは二つとも考えであって、本当であるかどうかは、ただ考えただけのことになります。うそだと思えばうそだし、本当だと言えば本当だし、その人の信念の問題になることになります。
 ところが、私どもの信仰している(本門下種の本尊の信仰)は、理論のものではありません。私の心に、君が過去遠々劫々の昔から私の兄弟であったという、信実性を植えつけずにはおかないのであります。言いかえれば、私の先見的悟性が、君と私の兄弟関係が昔からのものであり、今後も生死を離れて永久のものだと教えるのであります。証明はできませぬ。説明もできませぬ。ただ、それが真なのであります。ちょうど二点間の距離が最短距離であり、二はどこまでも二つである以外には説明も証明もなしに、私どもの悟性がみとめなければならないように、君と僕とが永久の兄弟であるという真実をみとめなければならない、この信仰が下種の本尊の信仰です。
 この尊い確心が、私の人性が信仰確心となった時に、私が帰って来られたのであります。私のまる二年間、足かけ三年間の独房生活がつらかったとともに、こんなに一大確心のもとに、君と永久に兄弟たるということを発見した事を思えば、独房の生活は無駄ではなかった。むしろありがたかったと思わざるをえないのであります。
 Tちゃん、会いたいね。社用で東京へくることも願うし、また、このたびの転勤を功成り、名をとげて、しかして後、東京へ栄転することを望むし、いずれかの場合と、面会のうれしい日を待望します。
 信仰おこたりなさるな。日夜ひまにまかせて題目をとなえ奉ることが、仏の境涯を開発することで、仏の境涯を開発するということは日常生活を最も合理的にし、最も健全にし、最もほがらかに、安心しておのれの職業に献心することで、ロでは言えるけれども、身に表すことがなかなか困難なことです。これができるということです。そうならなければ本当の信仰ではありません。そうなってください。若い者の生活こそ本当の信仰の生活でなければならない。兄さんも、もりもりと、若人の血に燃えて永久の生命を感得して、強くほがらかに生きています。ために台町の一家もほがらかです。
 安心してください。空襲下、感謝の生活を送っております。
   (昭和二十年八月)
 ☆夫人の弟宛てのものである。獄中の礼と、今後の意欲について述べられている。
7   夫婦して 酒のむ朝の 静けさに
     人の世の幸を 共にたのしむ
   (昭和二十八年)
 ☆波乱に満ちた人生であった。毎日がたたかいの人生であった。そのなかで、ほんのひととき人並みの時間を持つことがある。彼はその時間を、このうえなく貴重なものとして味わった。

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