Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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大正七年  

若き日の手記・獄中記(戸田城聖)

前後
25  心の清き程世にうるわしきはなし。心清ければ楽しみ多く、安らかに眠り得るなり。
 大正七年十一月十三日、時計は正に午後の八時を報じ、後はただ四囲寂としてタクタクと時計の時をきざむ音のみかしましい。夕張郡真谷地小学校の午後八時は実に静寂だ。人里離れておるし小使が不在だから、自分以外には人気は更にない。
 この時静かに自分は我が身を思う。自分は今年は十九だ。顧望すれば(小)合資会社の奉公時代、その店内における勉学時代、放縦時代、計略(偽り)時代、奮闘時代、これを深く考えて味わえば、二、三年中に社会の万事を手にせし如き感じがする。しかしてここ一、二年をあんずるに自分は前途々々と焦った時代、前途に大なるものをもくろんだ時代、そのもくろんだ事を実現すべく焦った時代と、かつ実現すべく未だ万事に早く、手を焼かしめて兄上様がこれを自分に悟らして下された現在とにわけることができる。しかしてその現在はいかにや。
 詳細に省みれば、実に修養もせぬ見下げ果てた凡俗漢だ。修養すべく奮闘するべき時代と知りながら行なわぬ凡漢だ。かかることにしていかでか前途の大を得られましょうや。そんなら自分は、大なる仕事をばなし得ぬ人間か、いや自分も人間だ、彼西郷もカーネギーも人間だ。しからば自分も自己を満足せしむることはよもできぬ事はあるまいと思う。
 ただそれだけの報酬代価を支払って得んのみだ。その代価や何か。自己の欠点を補うて進むのだ。人たる道に心掛けてるのだ。
 しかし翻って自分をみれば、自分は彼等より劣等の点些少とせず、また普通人よりすぐれた点も自分にはなくして、かつ日常潔白でない。その欠点とするのところも甚だ多い。多弁だし怠惰だし不信実だし身体が弱いし意志が薄弱だ。偽善家だし、うそを言うし、悪事をする。実に見下げ果てた人間だ。
   (大正七年十一月)

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