Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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あとがき  

小説「新・人間革命」

前後
6  小説『人間革命』も『新・人間革命』も、その主題は、ともに「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」である。
 では「宿命の転換」は、いかにしてなされるのか――。
 その方途を示したのが、戸田先生の「獄中の悟達」である。先生は、牢獄にあって、法華経の真理を知りたいと、精読と唱題を重ねた。そのなかで、法華経に説かれた虚空会の会座に、自身も日蓮大聖人と共に連なり、末法広宣流布の付嘱を受けた地涌の菩薩であることを悟達する。その大歓喜のなか、生涯を広宣流布に捧げることを誓う。
 御聖訓に、「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」と仰せのごとく、大聖人の御遺命のままに、広宣流布に生きる私たちは、まぎれもなく地涌の菩薩である。しかし、広布の聖業を果たす、その尊貴な菩薩である私たちが、なぜ、さまざまな苦しみの宿命をもって生まれてきたのか――。
 法華経法師品には次のようにある。
 「薬王よ。当に知るべし、是の人は自ら清浄の業報を捨てて、我滅度して後に於いて、衆生を愍れむが故に、悪世に生まれて、広く此の経を演ぶ」(法華経357㌻)――善業を積んで善処に生まれるべき人が、仏の滅後に衆生を哀れんで、あえて、願って悪業をもって悪世に生まれ、法を弘めるというのである。妙楽大師は、この文を、「願兼於業」(願、業を兼ぬ)と釈している。
 まさに、この原理のままに、私たちは、苦悩する人びとを救うために、誓願して、病苦、経済苦、家庭不和、あるいは孤独や劣等感等々、さまざまな宿命をもって悪世末法に出現したのである。しかし、南無妙法蓮華経と唱え、自行化他にわたる信心に励み、広布に生きるならば、地涌の菩薩の満々たる生命が、仏の大生命が、仏の大生命が涌現する。いかなる苦難、困難の障壁も乗り越える智慧が、勇気が、力が、希望が、歓喜が、わが生命にみなぎる。そして、「宿命」の嵐を敢然と勝ち超えることで、仏法の正義と偉大なる功力を証明し、広宣流布を進めていくことができるのである。いな、そのためにこそ、勇んで苦悩を担ってきたのだ。
7  つまり、「宿命」と「使命」とは表裏であり、「宿命」は、そのまま、その人固有の尊き「使命」となる。ならば、広布に生き抜く時、転換できぬ「宿命」など絶対にない。
 皆が、地涌の菩薩であり、幸福になる権利がある。皆が、人生の檜舞台で、風雪の冬を陽光の春へ、苦悩を歓喜へと転ずる大ドラマの主人公であり、名優である。
 小説『新・人間革命』では、この「『宿命』は『使命』である」ことを基調に、物語を展開してきた。仏法の精髄の教えは、物事を固定的にとらえるのではなく、「煩悩即菩提」「生死即涅槃」「変毒為薬」等々、一切を転換しゆく生命のダイナミズムを説き明かしている。そして、苦悩する人間の生命の奥深く、「仏」すなわち、人間のもつ尊極の善性、創造性、主体性を覚醒させ、発現していく道を示している。その生命の変革作業を、私たちは「人間革命」と呼ぶ。
 社会も、国家も、世界も、それを建設する主体者は人間自身である。「憎悪」も「信頼」も「蔑視」も「尊敬」も「戦争」も「平和」も、全ては人間の一念から生まれるものだ。したがって、「人間革命」なくしては、自身の幸福も、社会の繁栄も、世界の恒久平和もあり得ない。この一点を欠けば、さまざまな努力も砂上の楼閣となる。仏法を根幹とした「人間革命」の哲学は、「第三の千年」のスタートを切った人類の新しき道標となろう。
 「不滅の魂には、同じように不滅の行いが必要である」とは、文豪トルストイの箴言である。小説『新・人間革命』の完結を新しい出発として、創価の同志が「山本伸一」として立ち、友の幸福のために走り、間断なき不屈の行動をもって、自身の輝ける『人間革命』の歴史を綴られんことを、心から念願している。
 この世に「不幸」がある限り、広宣流布という人間勝利の大絵巻を、ますます勇壮に、絢爛と織り成していかねばならない。ゆえに、われらの「広布誓願」の師弟旅は続く。
 結びに、装画を飾ってくださった故・東山魁夷画伯、25年間の長きにわたって挿絵を担当していただいた内田健一郎画伯、聖教新聞社の編集・出版担当者をはじめ、すべての関係者、そして、全読者の皆様方に、心から御礼、感謝申し上げたい。
                  著者
  2018年(平成30年)9月8日
  小説『新・人間革命』新聞連載完結の日に
  東京・信濃町の創価学会総本部にて
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