Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

中部本部幹部大会 広布の堅塁・中部を築け

1967.7.10 「池田大作全集」第3巻

前後
8  御義口伝に勧持品の「作師子吼」との文を依義判文されていわく「師子吼とは仏の説なり説法とは法華別しては南無妙法蓮華経なり、師とは師匠授くる所の妙法子とは弟子受くる所の妙法・吼とは師弟共に唱うる所の音声なり作とはおこすと読むなり、末法にして南無妙法蓮華経をおこすなり」と。「説法とは法華別しては南無妙法蓮華経なり」とは、種脱相対の御文であります。すなわち、説法とは総じては法華経をさします。しかし別しては末法の法華経たる三大秘法の南無妙法蓮華経をさすのであります。すなわち、南無妙法蓮華経の説法が、最高の説法であり、師子吼であるとの仰せであります。
 次に、師匠の師とは、日蓮大聖人の御事であります。「授くる所の妙法」とは、大御本尊のことです。すなわち人法一箇を示されている御金言であります。「子とは弟子」とは、大御本尊を信ずる者のことであり「受くる所の妙法」とは、信心で受ける所の妙法、すなわち三大秘法の御本尊を信じて、わが己心に妙法を湧現していくということであります。「吼とは師弟共に唱うる所の音声なり」とは師弟不二をあらわしています。また、大御本尊に直結し、日蓮大聖人の仰せのままに、振舞えることが最も力強いことであるというご真意であります。百獣の王であり獅子が一度吠えると、他の獣類はすべて従うがごとく、師弟不二の信心を貫いていくならば、何ものにも支配されることなく、悠々と自在の行動をしきっていくことができるとの御金言であります。
 私どもは、いかなる三障四魔が前途に立ちはだかろうとも、この確信、決心で、悠々と打ち破り、師子王のごとく、生涯を乱舞していこうではありませんか。(拍手)また「作とはおこすと読むなり、末法にして南無妙法蓮華経を作すなり」とは、信心は受動であってはいけない。能動でなくてはならないということであります。広宣流布も他の人が戦うのを待つのであってはいけない。自らおこしていくとの御金言であります。かつて戸田前会長は「青年よ、一人立て」と呼号されました。これはまず第一歩は、自ら進んで実践していくとの方程式です。自分が実践せずして他人にやらせようというのは、卑怯という以外にはありません。自ら、自覚と責任をもち、核を作っていくとき、それがしだいに全体へと広がっていくのです。
 中部の人は、これまで保守的であり、またのんびりしているといわれてきました。だが、それは裏を返せば、堅実であり、誠実であるということであります。すなわち、皆さん方は、そのままの性格、そのままの姿でけっこうでよい。また、信心だけは遠慮があってはいけません。中部の皆さん方は能動的な信心に立ち、大きく目的観を開き、信心の名将として、全員が楽しく、和気あいあいと進んでいけるような、賢明な指揮をとっていただきたい。そして、この七年間、皆さんが中心となって、広宣流布のさらに大きな波動を、全国に巻き起こしていっていただきたいと思うのであります。(拍手)
9  最後に、四条金吾殿御返事にいわく「真実一切衆生・色心の留難を止むる秘術は唯南無妙法蓮華経なり」と。すなわち、題目こそ一切衆生の留難を止むる根本の秘術であるというご聖訓であります。題目を真剣に唱えていけば、生命力がまず湧現してきます。それによって、色法も心法も共に健全になっていくのです。したがって、病気を克服していくことができるし、事故も未然に防いでいけるとの原理であります。無価値な、惰性的な生活に終始し、健康を害したり、事故を起こしたりする人は、決して真実の信心を貫いているとはいえません。むしろ謗法となります。
 心豊かに題目をあげ、すがすがしい日々の人生を送ってください。この題目が一切の生活の根本であります。そのうえに、よく睡眠をとっていただきたい。そして、生活のうえに、道理正しいリズムをつくっていくのが妙法の信心であるということを忘れないでいただきたい。さる二月に起工式を行ないました名古屋文化会館も、来春には竣工する予定です。名古屋城とは、堀一つ隔てたところで、文化のかおりも高い絶好の地にあり、交通の便もよい。その完成を楽しみに、さらに、朗らかに、元気に前進してください。
 中部の皆さん方のご健康とご健闘とを心からお祈り申し上げまして、私の話を終わらせていただきます。(拍手)

1
8