Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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四者代表幹部懇談会 令法久住の人材に育とう

1966.12.16 「池田大作全集」第3巻

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5  「たとへば餓鬼は恒河を火と見る・人は水と見・天人は甘露と見る、水は一なれども果報にしたがって見るところ各別なり、此の法華経の文字は盲目の者は之を見ず肉眼は黒色を見る二乗は虚空と見・菩薩は種種の色と見・仏種・純熟せる人は仏と見奉る」――餓鬼界は、大河を見ても火と感じ、人はそのまま水と見ます。なお天人は同じ大河の水であっても、天人は歓喜に燃えている生命ですから、甘露と見ます。コップ一杯の水でも、喜び勇んでいる人は、非常に清らかに見え、おいそうに飲み、自分もこのような清らかな心でいきたいものだと感ずるのであります。ところが、餓鬼道の人は、そんなゆとりはなく、アッというまに飲んでしまう。(笑い)「水は一なれども果報にしたがって見るところ各別なり」――創価学会はその本質は少しも変わりがない。しかし、ある人はファッショといい、ある人は左翼といい、またある人は右翼という。いずれも偏見なのであります。
 皆さん方も、最初は創価学会を単純だと思い、自分は利口であると思っていたこともあるでしょう。自分だったら、もっとすばらしい演説、講義をしてみせるなどと……。けれども、いざ会合で話をし、講義を行い、教学試験も受けてみると、なかなか大変だと。(笑い)だいたいそうではありませんか。物事の本質は、なかなかわかるものではありません。その本質をわきまえていくことが、如実知見になるのであります。善悪の区別を明確にし、本質を明らかにしようとする余裕と冷静さが、生活には必要であります。しかしながら、いまの社会では、本質を見きわめようとせず、いたずらに批判しあっております。これでは、やはり社会はよくなりません。
 これと同じように、この御本尊の文字も「盲目の者は之を見ず」であります。御本尊があっても、堕落している人、なんら人生の深い生き方を考えない者、仏法を知らない人などは、力のある御本尊として見ることはできません。「肉眼は黒色と見る」――衆生は肉眼ですから、黒い文字で、難しい文字が書かれているとしか見えない。だが「二乗は虚空と見」――二乗というのは、声聞・縁覚界の心境にはいった人です。その人々は虚空と見るのです。
 それから「菩薩は種種の色と見」――ということは「色」ですから、仏の生命の片りんを感ずることができます。また仏の生命の実体を、生命の働きを感じ取っていきます。また「菩薩は無量の法門と見る」という御金言もあります。全宇宙の法則が、きちんと羅列していると感ずるわけであります。「仏種・純熟せる人は仏と見奉る」――「仏種・純熟」とは、純粋な信心、強盛な信心を貫き通した人、および信行学の三原則を実践した人は、その信心によって、仏の生命と境智冥合し大聖人の生命と見奉ることができるのであります。すなわち大聖人の生命と感応することができます。さらに大聖人の生命が、わが身に湧現しているということを目に見えずとも実感することができます。
6  「されば経文に云く『若し能く持つこと有るは・即ち仏身を持つなり』」――法華経にいわく「若し能く持つこと有るは」――すなわち三大秘法の御本尊を受持することになります。この「持つ」とは、ただ御本尊を持っているという意義だけではなくして、あくまでも自行化他にわたる信心であります。実践のない持ち方は、真に「持つ」ということとはいえません。御本尊に、朝晩、題目を唱えているだけでは自行化他にはならないから、観念的な、実践のない持ち方となります。一往は、御本尊を持たない人からみれば「持つ」ことになりますけれども、再往は王仏冥合という大聖人のご遺命達成への信行学に励む人こそ、真に「持つ」ということになります。これは「即ち仏身を持つなり」――仏身を持ったということは、わが生命は事の一念三千の当体であると覚知することであります。
 どうか短い御書でありますけれども、一つには日蓮正宗・創価学会に師敵対する者は、三世十方の仏菩薩を敵にまわすことであって、その人が栄えていくことは絶対にないという確信で指揮をとっていただきたい。また大聖人の仰せどおりの信心、すなわち牧口初代会長、戸田前会長が、広宣流布のために前進に前進を重ねてこられた、あの死身弘法の精神に立ったときに、初めて御本尊を仏と見奉ることもできるし、わが身即仏身の生命活動になっていくことも確信して、深い、力強い、新しい信心の自覚を、奮い起こしていっていただきたい。皆さん方のご健闘とご健康を心からお祈り申し上げます。なお、また幹部会でお目にかかると思いますが、よいお正月をお迎えになっていただきたいと思います。(拍手)

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