Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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四者代表幹部懇談会 令法久住の人材に育とう

1966.12.16 「池田大作全集」第3巻

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2  「されば十方世界の諸仏は自我偈を師として仏にならせ給う世界の人の父母の如し、今法華経・寿量品を持つ人は諸仏の命を続ぐ人なり、我が得道なりし経を持つ人を捨て給う仏あるべしや、若し此れを捨て給はば仏還つて我が身を捨て給うなるべし、これを以て思うに田村利仁なんどの様なるつわものを三千人生みたらん女人あるべし、此の女人を敵とせん人は此の三千人の将軍をかたきに・うくるにあらずや、法華経の自我偈を持つ人を敵とせんは三世の諸仏を敵とするになるべし、今の法華経の文字は皆生身の仏なり我等は肉眼なれば文字と見るなり、たとへば餓鬼は恒河を火と見る・人は水と見・天人は甘露と見る、水は一なれども果報にしたがつて見るところ各別なり、此の法華経の文字は盲目の者は之を見ず肉眼は黒色と見る二乗は虚空と見・菩薩は種種の色と見・仏種・純熟せる人は仏と見奉る、されば経文に云く「若し能く持つこと有るは・即ち仏身を持つなり」等云云
 「されば十方世界の諸仏は自我偈を師として仏にならせ給う世界の人の父母の如し」――十方は四方八方に上下を加えて十方になり、「十方世界」とは、現代語でいえば、世界ならびに全宇宙ということであります。その十方世界の諸仏は、全部、自我偈を師匠として仏身を成就した。それは世界の人々の父母のようなものであるとの意味であります。自我偈とは、自とは九界、我とは仏界、すなわち「自我偈」とは、九界即仏界の永遠の生命を説いており、それはまた仏の重恩を明かしております。この自我偈は、最初の「自我得仏来」の“自”と、最後の「速成就仏身」の“身”で“自身”のことを説いているのであります。この自我偈の解釈については御義口伝下(御書全集756㌻)に詳しく出ております。
 「今法華経・寿量品を持つ人は諸仏の命を続ぐ人なり」――ここでいう「寿量品」は、文底から拝するならば「我が内証の寿量品」すなわち大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経であります。したがって、観心釈で読めば、三大秘法の御本尊を持つ人は、諸仏の命をつぐ人であり、令法久住の人となるのであります。すなわち、仏法を守護し、正法を永遠に伝え、広宣流布していく人であるとの意味であります。「我が得道なりし経を持つ人を捨て給う仏あるべしや」――三世十方の仏が、自分が得道した三大秘法の南無妙法蓮華経を信じ実践する人を捨てるはずはない。したがって、その三大秘法の南無妙法蓮華経を護持する人を三世十方の諸仏は必ず守るのであります。
3  「若し此れを捨て給はば仏還って我が身を捨て給うなるべし」――もし三大秘法の仏法を護持する人を捨てて顧みることがないようなことがあれば、諸仏がかえって、わが身を捨てることになります。
 「これを以て思うに田村利仁なんどの様なる兵を三千人生みたらん女人あるべし」――田村利仁とは、坂上田村麻呂のことで、歴史上、最も強い将軍とされていますが、その田村麻呂のごとき大将軍を三千人も生んだ女人があったとすればとの意であります。「此の女人を敵とせん人は此の三千人の将軍をかたきに・うくるにあらずや」――その母である女人を、もしも敵としたならば、その子である三千人の将軍をかたきとし、敵にまわすのと同じことになってしまう。すなわち御本尊を敵としたならば、三世十方の仏菩薩を敵にしたことになり、その人が、幸せな人生を生きられるはずはないとの大確信もつべきであります。
 同じく創価学会を敵にし、創価学会を批判する人は一千万人の仏を敵とし、批判したのと同じ結果になるではありませんか。たとえ一人の仏を敵にしても地獄に落ちます。それが御本尊を持つ一千万人の学会員、すなわち一千万人の仏を敵にしたならば、どういう結果になるか。ことごとく不幸になり、地獄に落ちることは明らかであります。だからといって、御本尊や創価学会の力を利用して、権力をふるったり、悪事を働けば、その人自身が地獄に落ちます。仏法はあくまで誰もが納得していける道理であり、そのうえに立った信心であり社会活動でなくてはなりません。
4  「法華経の自我偈を持つ人を敵とせんは三世の諸仏を敵とするになるべし」――「法華経の自我偈」とは三大秘法の御本尊と拝します。学会員は御本尊に向かって法華経の自我偈を、読誦しているがゆえに境智冥合の原理によって、わが身は事の一念三千の当体になるのであります。したがって、私たち学会員を批判し、敵にした場合には、三世の諸仏を敵にしたことに通ずるとの御金言であります。私どもはこの一行を色読していくべきであり、なにも恐れることはないのであります。まだ入信したばかりで信心のこともよくわからず、世間に迷惑をかけ、学会に大きな損失を与える人がいますが、これはよくないことであります。しかし、半面これらの問題を取り扱うジャーナリストの態度も問題であります。ことさらに創価学会員であることを書きたてるような態度があることは「猶多怨嫉」という経文どおりなのであります。
 本来ならば、これから信心して幸福になっていこうとする人が、なにかで挫折しても、それを激励し暖かく見守っていくならば、信心に奮い立ち、人間革命しきっていく場合が多くあると思います。それをわざわざ社会が攻撃して、せっかく立ち上がれる人もだめにしてしまう。そればかりでなく、その人を激励し人間革命させて応援してあげようと努力している創価学会まで攻撃し押えようとします。もっともっとまじめな人、まじめな指導者が、お互いに責任をもって謙虚に応援しあいながら、進んでいける社会でなければならないと思います。あまりにも利己主義で、無責任で、人をけおとしていくような社会の姿を見るとき、まことに残念でなりません。
 「今の法華経の文字は皆生身の仏なり我等は肉眼なれば文字と見るなり」――「法華経の文字」とは御本尊です。大聖人の法華経即御本尊の文字は、すべて生身の仏であります。大持国天、毘沙門天、十羅刹女、舎利弗、釈迦牟尼仏、多宝如来等々、そのうえに、序分、流通分として、釈迦の法華経の文字も生身の仏とみることができます。
 「我等は肉眼なれば文字と見るなり」――たしかに、私たちの目では御本尊は文字としか見えない。しかし、たとえば紙幣であれば、千円という文字がわからなくても「お札だ」と切実に感じます。(笑い)と同じように、御本尊が文字にしか見えなくとも、信心をもって仏であると感ずることができるわけであります。
5  「たとへば餓鬼は恒河を火と見る・人は水と見・天人は甘露と見る、水は一なれども果報にしたがって見るところ各別なり、此の法華経の文字は盲目の者は之を見ず肉眼は黒色を見る二乗は虚空と見・菩薩は種種の色と見・仏種・純熟せる人は仏と見奉る」――餓鬼界は、大河を見ても火と感じ、人はそのまま水と見ます。なお天人は同じ大河の水であっても、天人は歓喜に燃えている生命ですから、甘露と見ます。コップ一杯の水でも、喜び勇んでいる人は、非常に清らかに見え、おいそうに飲み、自分もこのような清らかな心でいきたいものだと感ずるのであります。ところが、餓鬼道の人は、そんなゆとりはなく、アッというまに飲んでしまう。(笑い)「水は一なれども果報にしたがって見るところ各別なり」――創価学会はその本質は少しも変わりがない。しかし、ある人はファッショといい、ある人は左翼といい、またある人は右翼という。いずれも偏見なのであります。
 皆さん方も、最初は創価学会を単純だと思い、自分は利口であると思っていたこともあるでしょう。自分だったら、もっとすばらしい演説、講義をしてみせるなどと……。けれども、いざ会合で話をし、講義を行い、教学試験も受けてみると、なかなか大変だと。(笑い)だいたいそうではありませんか。物事の本質は、なかなかわかるものではありません。その本質をわきまえていくことが、如実知見になるのであります。善悪の区別を明確にし、本質を明らかにしようとする余裕と冷静さが、生活には必要であります。しかしながら、いまの社会では、本質を見きわめようとせず、いたずらに批判しあっております。これでは、やはり社会はよくなりません。
 これと同じように、この御本尊の文字も「盲目の者は之を見ず」であります。御本尊があっても、堕落している人、なんら人生の深い生き方を考えない者、仏法を知らない人などは、力のある御本尊として見ることはできません。「肉眼は黒色と見る」――衆生は肉眼ですから、黒い文字で、難しい文字が書かれているとしか見えない。だが「二乗は虚空と見」――二乗というのは、声聞・縁覚界の心境にはいった人です。その人々は虚空と見るのです。
 それから「菩薩は種種の色と見」――ということは「色」ですから、仏の生命の片りんを感ずることができます。また仏の生命の実体を、生命の働きを感じ取っていきます。また「菩薩は無量の法門と見る」という御金言もあります。全宇宙の法則が、きちんと羅列していると感ずるわけであります。「仏種・純熟せる人は仏と見奉る」――「仏種・純熟」とは、純粋な信心、強盛な信心を貫き通した人、および信行学の三原則を実践した人は、その信心によって、仏の生命と境智冥合し大聖人の生命と見奉ることができるのであります。すなわち大聖人の生命と感応することができます。さらに大聖人の生命が、わが身に湧現しているということを目に見えずとも実感することができます。
6  「されば経文に云く『若し能く持つこと有るは・即ち仏身を持つなり』」――法華経にいわく「若し能く持つこと有るは」――すなわち三大秘法の御本尊を受持することになります。この「持つ」とは、ただ御本尊を持っているという意義だけではなくして、あくまでも自行化他にわたる信心であります。実践のない持ち方は、真に「持つ」ということとはいえません。御本尊に、朝晩、題目を唱えているだけでは自行化他にはならないから、観念的な、実践のない持ち方となります。一往は、御本尊を持たない人からみれば「持つ」ことになりますけれども、再往は王仏冥合という大聖人のご遺命達成への信行学に励む人こそ、真に「持つ」ということになります。これは「即ち仏身を持つなり」――仏身を持ったということは、わが生命は事の一念三千の当体であると覚知することであります。
 どうか短い御書でありますけれども、一つには日蓮正宗・創価学会に師敵対する者は、三世十方の仏菩薩を敵にまわすことであって、その人が栄えていくことは絶対にないという確信で指揮をとっていただきたい。また大聖人の仰せどおりの信心、すなわち牧口初代会長、戸田前会長が、広宣流布のために前進に前進を重ねてこられた、あの死身弘法の精神に立ったときに、初めて御本尊を仏と見奉ることもできるし、わが身即仏身の生命活動になっていくことも確信して、深い、力強い、新しい信心の自覚を、奮い起こしていっていただきたい。皆さん方のご健闘とご健康を心からお祈り申し上げます。なお、また幹部会でお目にかかると思いますが、よいお正月をお迎えになっていただきたいと思います。(拍手)

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