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日蓮大聖人・池田大作

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幹部指導会・小樽会館 純粋な信心で永遠の幸福を

1965.9.7 「池田大作全集」第3巻

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2  さきほどの「三国志」に話がもどりますが、まず諸孔明のことを思い出します あるときに諸孔明に大事な戦いがあった。そのときに、諸孔明の胸中は、馬謖を行かせたくなかった。とかし、魏の仲達が大軍を率いて攻めてきたので、それ相当な人物を行かす以外にないと考えていたのです。その時あまり馬謖が自分で買って出るので、つい情にほだされ、許したのです。そこで諸孔明は、細やかにあらゆる作戦を授け万全の処置を与えて行かせました。けれども馬謖は“おれはみんなの先輩なのだ”という驕慢のために、諸孔明のいうことが聞けなくなっていました。「いちいちそんな細かいところまで、手をまわしすぎて、神経質になって、本当に孔明という人はめんどうくさい」といって、いうことのを聞かなかった。所詮、驕慢になって、いうことのを聞かない者は全部、失敗していくのです。
 馬謖は、そのとき「もし負けたならば自分の首を斬ってもよい。一族全部、斬ってもよい」こういって出かけて行くのです。そこに“陣中に戯言なし”の言葉があり、戯れの言葉はないという意味なのです。ついに馬謖は孔明のいうことを全く無視して、その結果、大敗北をし、仲達の軍に全滅されてしまうのです。蜀の軍勢も立ち上がれないほどの大打撃をうけてしまった。孔明はやむをえず、全軍のために、大勢の同志のために、馬謖を斬るのです。本当は人物もいないし、斬りたくはない。しかし斬らなければ、これは軍律に反してしまう。あれだけ強言を吐き、あれだけ大勢の人間を犠牲にし、蜀の確立すべき体制を妨げてしまった。それで“泣いて馬謖を斬る”という言葉になるのです。
 いくらかかわいがられ、信頼されても、皆さん方は、馬謖になってはいけない。
 特に大幹部は馬謖にならぬよう、厳しく自覚していただきたい。かわいがられ、信頼されればされるほど、力を養い、信心を深め、そして広宣流布のために尽くしていかなければならない。最も帷幕の中にある人間が、もう自分は大幹部になったのだと満足し、驕慢になることは恐ろしいことです。たいてい脱落している人は、驕慢謗法になっております。“もうこれだけ信心しているのだから”と思いあがり、驕慢になり増上慢になって行き詰まり退転してしまう。結局は、信心がないといえます。組織のうえの役職にあぐらをかき、先輩風を吹かせて、後輩に信心で接する心を失い、部下扱いするのは大変な間違いであり、そうした権威主義になった場合には、もう大聖人の仏法の精神からはずれております。創価学会の真実の組織からもはずれております。こういう人には、一人もなっていただきたくありません。
 次に魏延という人は、これまた力のあった人物で、やはり大幹部中の大幹部の立ち場にあった。しかし、この魏延もやはり驕慢、増上慢になってしまった。“おれがいなければ蜀の国はどうにもならない”と思い上がっていた。魏延については諸葛孔明も、心の中で非常に心配していたが、しかし“いまいい気にさせておかないと団結を乱される。また人材が少なく、戦闘にも非常にさしつかえがある、がまんしよう”というわけで、隠忍自重してきた人物なのです。この魏延の根性は、いまでいえば、自民党とか、社会党とか、今日の日本の指導者階層がもっている根性に全部通じます。学会だけは永久にそうなってはならない。だから厳しくいうのです。それはどういう根性であるか。魏延は諸孔明さえ死んでしまえば、おれが自由にできると、そう心の中で考えている人物です。いまでいえば、厳しい信心指導をしてくれる幹部に対して「あれさえいなければよい。なんでもわがままに自由になる」という考え方を魏延というのです。
 こうした考え方をもつということは、人間として最も野獣的であり最も忘恩の徒というべきであります。これは仏法でいえば堤婆達多にたとえられます。堤婆達多は、釈迦が死ぬことを待っていた。また殺そう殺そうと思っていた。そういう人になってはいけない。大なり小なり、信心が止まってくると、そういう心は働くものです。どうか皆さんは、一生成仏のために、一家和楽のためにも、人間革命をしきるためにも、信心のことだけは、純粋にいきなさい。そうでなければ、自分で全部、功徳を破壊します。たとえ功徳はあるように見えても、それは功徳に似せた魔の働きのです。いつかは苦しみを感じ、しかも永遠にその苦しみは続くものです。これが因果の理法であります。
 私皆さん方を守ってまいります。皆さん方は御本尊を守り、そしてまた、学会のために広宣流布のために、真剣に戦っている同志の人々を心から守ってあげて下さい。きょう集まった方々が、一人も残らず最後の最後まで退転なく、いつ会っても朗らかに、いつ会っても向上し、そして、手を取り合って喜び合えるような、この一生を貫き通していただきたい。
 いままでは心ならずも堕落し退転ぎみの人もあったかもしれない。いまそれを悔いている人もあるでしょう。また、いままで真剣に戦ってきて、やっときょうまでたどりついた人もいるかもしれない。しかし過去は過去として、きょうから新しく自分は信心したのだ、これからが第二の青春であるという気持ちで未来へ向かって堂々と進んでいただきたい。

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