Nichiren・Ikeda
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アメリカ青年特別研修会
諸君の成長に広布の未来
1986.8.1 「広布と人生を語る」第9巻
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11 深き信心に所願満足の人生
広宣流布をめざし、真剣に信仰に励み、また人生を正しく生きようとしている人であっても、ときに、自分の希望どおりにいかず、思い悩む場合がある。たとえば、早く結婚したいと思っても、すぐに願いが叶わないこともあろう。また思わぬ病気に苦しむこともあるかもしれない。さらに自分の仕事や生活が思うようにいかないこともあるにちがいない。
それはどこの国にあっても同じである。しかし、けっして一時的な現象によって悲観する必要はないのである。
私どもは、少しでも先を、少しでも未来を知りたいと思うが、凡夫であるがゆえに目先のことしかわからない。しかし、仏は三世をすべて見通しておられる。信心強き人の願いが叶わないわけはない。一時期には叶わないようであっても、一生という長い目でみたときに幸せにならないわけがないし、また、そのことにかならず何らかの深い意味があったことがおのずからわかってくるものである。このことをけっして疑ってはならない。
12 たとえば一生のうち五年間が幸せであっても、その後が暗く不幸な人生であっては、哀れである。また、十年間、人々もうらやむような生活を送ったとしても、一生の最後が地獄のような苦しみとなれば、あまりにもはかない人生といわざるをえない。
これに対し、私どもは、たとえ一時的には不幸に見えるような場合があっても、最後はすべて所願満足の輝く境涯となって、今世を飾っていけるのである。ここに妙法が”不可思議の法”である一つの証左がある。
その意味において、現在、かりに、御本尊への祈りどおりにならなくても、そのことのみをもって信心がないとか、信心が弱いとかはけっしていうべきではない。いわんや妙法に力がないわけでは絶対にない。
この一点を確信できるか否か。そこに信心が強盛であるか否かの試金石がある。生涯たゆまぬ ”水の信心”であるか、いっときの”火の信心”であるかの分岐点があるといってよい。
この大切な信心の要諦を、これから長い人生を生きる、未来の広布の指導者である皆さま方に強く申し上げておきたい。