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京都広布30周年記念勤行会 民衆こそ”大知識の人”

1986.6.15 「広布と人生を語る」第9巻

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16  大衆は賢明な存在
 明治・大正・昭和の三代にわたって活躍したジャーナリストであり、朝日新聞の「天声人語」の執筆者でもあった長谷川如是閑氏と、吉川英治氏との対談で、「大衆」がいかに賢明な存在であるかについてふれているところがある。
 この対談のなかで、吉川氏が語っている。「大衆っていうものは、ぼくら作家として見ると、大衆は実に大知識と思うしかありませんね」と。
 大衆ほど豊富な知識をもった存在はない。まことに賢明である。たとえばテレビで政治家の政見放送を見ていても、”この政治家は口はうまくても心が黒い”とか、表面的にはどんなに美貌で華やかでも”心根が卑しく貧しい”というように、大衆はじつに鋭く相対する人物の心を射ている。
 このように真実を見通す知恵と判断力をもった大衆は、別の意味からいえば、まことに恐ろしい存在と知るべきなのである。
 大衆はまた、すべてが赤裸々であり、そこには何の虚飾もない。学会が永遠に民衆の味方としての運動をくり広げている根拠もここにあるわけであり、これがまた、私の一貫して変わらぬ生き方でもある。
 吉川氏がつねに「大衆という大知識を対象にして筆を執っている」のに対して、長谷川氏も対談のなかで「それはそうなんだ。道徳でも宗教でも、大衆の採るものが一番正しいんですよ」と述べている。さらに吉川氏が「それを胡麻化したり、テクニックだけで維持することは出来ませんね。(中略)大衆は欺かれたりするものでないんです」と言えば、長谷川氏は「大衆が一番かしこいんでね。(中略)社会的生活が大衆によって保たれているということで、大衆が崩れちゃえは社会が崩れちゃう。インテリが死のうと生きようと関係はない」とまで断言している。
 そのゆえに吉川氏は「その大衆を相手にしているんだと思うと、こわくなっちゃうんですよ。厳粛にならざるを得ないですよ。自分の身を削らずにいられなくなっちゃうんです」と結論している。
 いうまでもなく私どもの広宣流布の運動は、民衆運動にはかならない。日本の未来、さらに世界の将来を明るくしていくためにも、私どもはこのことをいちだんと自覚していきたいものである。
17  「朝の来ない夜はない」を銘記
 未来を担いゆく若きリーダーに申し上げておきたいことは、吉川氏がいうように「朝の来ない夜はない」ということである。
 これは、頼朝が旗揚げをして一度敗れたときの模様を描いた一節である。
 「『――何しろ放けた』
 顧朝は、自分へむかっていいきかせる。(中略)
 『こういう目に遭ったのもよいことだったと、後にはいえるかもしれぬ。落命しては、おしまいだが、一命だけは、とりとめた。みろ、わしはまだ生きている』(中略)
 敗軍、破滅。当然あらゆるものは失った。けれどなお、この生命、三十四歳の若い五体。まだ、それがあると気づいたとき、惨たる不運のすべてが、ほのぼのとした、よろこびに変わっていたのだ」と。
 私も、この精神で、これまで進んできた。とくに若いリーダーの方々は、長い人生にあってさまざまなことがあるにちがいない。人生に挫折することも、また、大切な勝負に負けるなど、苦悩の波浪にあうこともあるだろう。しかし、どのような状況におかれたとしても「朝の来ない夜はない」との決意を心に刻んで、勇気をもって生きぬいていただきたい。
 最後に、京都広布三十五周年、そして四十周年の福徳が、皆さま方の生命と生活のうえに朝日のごとく輝きゆくことを心から祈りたい。本日お会いできなかった京都の各地域の方々に、よろしくお伝えいただきたい。

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