Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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「5・3」記念関西代表幹部会 妙法の道を、平和と文化の橋を

1986.5.3 「広布と人生を語る」第8巻

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8  御書に「或時は人に生れて諸の国王・大臣・公卿・殿上人等の身と成つて是れ程のたのしみなしと思ひ少きを得て足りぬと思ひ悦びあへり、是を仏は夢の中のさかへ・まぼろしの・たのしみなり唯法華経を持ち奉り速に仏になるべしと説き給へり」と仰せである。
 仏法の、まことに深く幼い洞察であり、人間観、人生観であると拝する。人間と生まれて、どんなに社会的地位を得、権力を握り、名利と名聞でわが身を飾ろうとも、それらは無常をまぬかれえない。
 しょせん、「夢の中のさかへ・まぼろしの・たのしみ」なのであると大聖人は断言されている。
 すなわち「唯法華経を持ち奉り速に仏になるべし」とあるように、成仏以外に、真実の崩れざる絶対的な幸福はない。御本尊を受持し奉り、自行化他にわたる題目を一心に唱えきっていく人生の歩みのなかにしか、三世常恒にわたる幸福の実像を築いていく道はない。つまり、妙法によってのみ、生命の充実と歓喜を永続的に勝ちえていくことができる、との仰せなのである。
9  ゆえに、大法を護持していながら、うつろいやすき、目先のさまざまな現象に紛動されることほど愚かなことはない。表面的な華やかさや気楽さを幸福と錯覚したり、うらやんだりする必要もない。それらはしょせん、「夢の中の人生」「幻のごとき幸福」であるからだ。
 それに対し、正法広布ひとすじに進みゆく私どもの人生は「寤の人生」であり、「常楽我浄の幸福」への歩みなのである。
 つまり、信心の労苦、広布の労苦はそれじたいが、そのまま無上の大歓喜となり、「無量の福運」となっていくのであり、かけがえのないわが人生に、深き価値と意義とを刻みつつ、「無辺の福徳」を積んでいけるのである。
 どうか、皆さま方は生涯、御本尊の無量の功徳につつまれながら、自身の生命の宮殿をかぎりなく開きつつ、最高の人間道である、この信心の道、広布の道を、どこまでも堂々と、誇らかに歩みとおし、すばらしき一生を飾っていっていただきたい。

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