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「5・3」記念関西代表幹部会 この七年、吹雪を越え輝く太陽

1986.5.2 「広布と人生を語る」第8巻

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6  末法弘通に偉大な功徳
 報恩抄に「極楽百年の修行は穢土えどの一日の功徳に及ばず、正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか」と仰せである。
 まことに有名な御金言であり、「極楽百年」云々とは、いわゆる極楽浄土での楽な修行と、「穢土」すなわち、この煩悩で汚れた現実世界での修行とを比較相対して論じられたものである。
 それをふまえたうえで、この現実世界での人生の生き方についての重要な御教示とも拝することができると思う。すなわち、この一生において、深き価値創造へのなんの苦労も努力もなく、楽な環境で、気楽に、優雅に暮らしていこうという生き方もある。これは、ある意味では「極楽」で楽に過ごしていきたいとの志向性に通ずるともいえよう。
 すなわち、苦労をいとい、避けながら、楽をして幸福を得んとする生き方といってよい。目先の欲望にとらわれて、名声や名利を求め、見栄をはりつつ、人生を小手先で生き、華やかに表面を飾っていく――。
 しかし、そうしたエゴと売名の人生が、どんなに幸福そうに見え、楽しそうに見えたとしても、そこには真実の生命の充実がない。価値創造の喜びがない。社会に貢献し、人々に偉大な価値を与えゆくこともできないであろう。
 それに対し私どもは、このかけがえのない人生を自己と戦い、生活と戦いながら、その根本に広宣流布をめざしての苦労と苦闘を重ね、挑戦している。この強き信心を根本に生きゆく人の功徳は、ただ「一日」であっても、表面のみの幸福を追って「百年」間暮らした人生の功徳よりも大きいのである。
 すなわち、大聖人は「穢土の一日の功徳」のいかに甚大であるかを強調されている。まして広宣流布のため、大法のため、人々の幸福のために現実と戦い、生涯、生きぬいていった人生の意義と功徳が、どれほど深く、大きいものであるかを確信きれたい。
7  また「正像二千年の弘道は末法の一時に劣るか」との御文は、正法・像法の二千年にわたって、多くの仏弟子が釈尊の仏法を弘通してきた偉大なる功徳よりも、この末法における一時を広布に励みゆく人の功徳が大きいと大聖人は仰せである。”今日”という日を、勤行に励み、弘教や指導、激励に励み、妙法広布の前進に真剣に戦っておられる皆さま方の功徳のほうが、正俊二千年における功徳よりも、此較にならないほど絶大なのである。
 こうした仰せを拝するにつけ、仏意仏勅をこうむり、「大法弘通」の道程で苦労を重ね、働いている私どもの人生が、世界の人々のさまざまな人生のなかにあって「無上道の人生」であることを深く自覚していただきたいと思う。
 この広布の大道での歩みそれじたいが、黄金の人生となっているのである。このことを銘記しつつ、これからの人生を、またこれからの仏道修行を、どうか最高に晴れがましく歩みぬいていっていただきたい。

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