Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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創刊35周年記念「聖教文化賞」授賞式 真の信念は御本尊への信仰

1986.4.20 「広布と人生を語る」第8巻

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7  我慢偏執は退転の困
 退転しゆく人の心は、要するに「我慢偏執」であり、「エゴ」なのである。広布の偉大な前進から自身の成長が遅れてしまい、しだいにだれも相手にしなくなってしまう。ちやほやしてくれる人がいなくなるがゆえに、醜いもがきのなかから、自分で大騒ぎし、あるいはマスコミ等を舞台に名聞名利の演技をくり広げてみせるのである。
 そして自分の堕落と悪を、他者に責任転嫁し、「我尊し」との増上慢の姿を現じるのが常である。このまったくの本末転倒の退転の構図を、どうかよくよく賢明に見ぬいていただきたい。
 もったいない例ではあるが、御本仏日蓮大聖人の時代も、多くの退転の徒、裏切りの徒があった。三位房をはじめとして、当時の弟子門下が、大聖人を裏切り、そのうえ「自分の方が境涯が上である」「自分の方が正しい」「立派である」等々、増上慢この上なしの思いをなしている。これが歴史の事実である。
 まして現代は大聖人御入滅後七百年余、”末法極まれり”ともいうべき世相であり、エゴ、増上慢の振る舞いが横行している。そうしたなか、いよいよ醜い策謀やエゴの動きもあるかもしれない。
 しかし、心して「我慢偏執」にとらわれてはならない。それらにとらわれたときは、躍動する人間としての生きがいが失われ、信仰の深き歓喜が失われていく。そして敗北の人生への軌道をつくってしまうからである。
 皆さん方はどうか未来、陸続と続くであろう後輩の方々から、「さすがに、大聖人の仏法を信じ、行じ、弘めたはんものの信者である」「なるほど見事な勝利の人生の姿である」とたたえられ、仰がれるような人生の総仕上げの模範の歩みであっていただきたいことを念願したい。

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