Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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学術部、女性医学者、青年部、アルゼンチ… 一切は信心の一念に

1986.3.22 「広布と人生を語る」第8巻

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8  日蓮大聖人の大慈大悲の御姿
 世間においても、また私どもも、ともすれば大聖人が生涯御健勝で、格幅豊かな威風堂々たる御姿のまま過ごされたかのごとく想像しがちである。しかし、大聖人が身延に御入山されたのは聖寿五十三歳の御時であり、当時とすればかなりの御高齢であられた。
 御入山じたい、「三度国をいさむるに用いずば」と仰せのように、ある意味では失意の気持ちをいだいての身延御入山であった。そして、山深き身延の沢の 「手の広さ程の平かなる処」に庵室を結ばれた。土地の広さは「一町ばかり間の候に」といわれている御書もある。そこに弟子たちとともに「をうちきりて・かりそめにあじち庵室をつくりて候」という状態であられた。
 しかし四年ほどたつうちに、柱は朽ち、壁は落ちるありさまで、とうとう「十二のはしら四方にかふべげ・四方のかべは・一たうれ」と、再建するほかなくなってしまった。そこで「なくして・がくしやうども学生共をせめ・食なくして・ゆきをもちて命をたすけて」とあるように、助ける人手も食糧もないなかを、弟子たちを励まされつつ修復されたのである。
 そうした身延での御生活は「庵室は七尺・雪は一丈・四壁は冰を壁とし」とあるように、たとえていえば現在の冷蔵庫の中にあるような寒さであり、雪が深くて訪ねて来る人もいない。あまりの寒さで「頭は剃る事なければうづらの如し、衣は冰にとぢられて鴦鴛おしの羽を冰の結べるが如し」という、まことにもったいない御様子であった。そうした極寒のなか、食するものも乏しく「雪を盛りて飯と観じ」、すなわち白く積もった雪を白米と思って食されたと述べられている。
 こうしたなか、健康も害され、弘安元年には「日蓮下痢去年十二月卅日事起り今年六月三日四日日日に度をまし月月に倍増す」と、約半年間にわたって下痢を病まれたことが記されている。そして四条金吾へのこのお手紙では”あなたから頂戴した良薬のおかげですっかり回復しました”と、門下である金吾に対しても、あくまで真摯に、丁重な礼を述べられている。まことに尊い御姿であると拝する――。
 現在の私たちの暮らしからは想像もできないような言語に絶する環境のなかで、大聖人は、われわれ末法の一切衆生のために、御自身の魂であり生命の御当体である御本尊を建立され、遺してくださったわけである。
9  戸田先生は、こうした御本仏の大慈大悲の御姿を涙とともに語るのが常であった。すなわち、御本仏の人間としての外用の御姿、仏界所具の人界の御姿を拝するとき、「御本仏がこういう御苦労をされたのだ。門下であるわれわれも何があっても辛抱していかなければならない」と、くり返し言われていた。
 また「大聖人の大慈大悲を世界に宣揚しなければならない。大聖人ほどの仏様は断じて他にいらっしゃらない」とも指導されていた。
 ともあれわれわれは、このすばらしき末法の御本仏日蓮大聖人を信じ、その永遠不滅の仏法を行じ、弘めているわけである。これ以上の栄光の人生は絶対にないのである。
 その偉大なる大法を広宣流布するために出来たのが創価学会である。その幹部であり、指導者である皆さま方は、使命深き立場にふさわしい信念と自覚がなければならない。それを忘れて、世間一般となんら変わらない人生であったならば、何のために信心したのか、その根本の目的まで見失ったことになる。
 それぞれさまざまなご苦労はあると思うが、どうか、末法万年の大法である大聖人の仏法を奉じ、近くは戸田先生という偉大な指導者のもとに連なった広布の同志として、深き使命のうえに、これからも日々さっそうと信行学の実践に精進していっていただきたい。

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