Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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海外、中部の合同研修会 色心共に広布に生きる王者に

1985.8.2 「広布と人生を語る」第7巻

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6  法華経常不軽菩薩品に説かれた威音王仏について、御義口伝に「威とは色法なり音とは心法なり王とは色心不二を王と云うなり」と仰せである。「色心不二を王と云うなり」とあるように、われわれの生命の当体、心王である「我」は色心不二である。
 結論して考えるに、色心ともに生涯、妙法を信受し、広布に生きぬく生命それじたいが、人間王者の真髄であると拝せるのである。
 肉体があればとうぜん苦痛を感じるものだ。しかし、肉体といっても詮ずるところは一念三千の一念に収まるのである。「我」それじたいが仏界の生命になっていれば、いわゆる苦悩、苦痛は、ありえないともいえよう。永遠に遊戯できうる「我」の傾向性をかため、永遠ならしめるものが御本尊であり、信仰なのである。
 要するに法華経の経文上の舎利弗をはじめ如来の記別を受けた多くの仏弟子は、ぜんぶ妙法の法力によって、この大宇宙の仏界に融合し、やがて時を感じて何千万年か先に出てくるのかもしれない。
 今、末法は地涌の菩薩の眷属の出現する時である。広宣流布に殉じた皆さん方の父母や兄姉もまた、同じく仏界に融合し遊戯していることは、経文に照らしまちがいないのである。その融合した「我」が、いずこの国に、いつごろ誕生し、再び広宣流布のために活躍していくかは、これまたみずからの意思によって自在であり、自由に成しうるとも考えられるのである。
 ゆえに、病痛や苦悩があったとしても、正法の信心に生きぬき、この正しき信心を一生貫いていくことが大切なのである。
7  信心を根幹として、広宣流布にあって、社会、人生のうえに、どれだけの功を積んでいくか。これが、因果倶時の理法によって、未来の幸せと発展への因となっていくのである。その根本の功としての因を積んでいけるのは、もはや末法においては大聖人の仏法による以外にない。ゆえに、今後の生涯にあって、いかなる大難があったとしても、それに紛動されて信心をなくし“栄え”の因を失っていくようなことがあってはならない。
 自行化他にわたる唱題の実践に邁進し、正しき信心の軌道を進んでいる皆さんは、じつはたいへんな功を積んでおられるのである。それを深く確信し、現実の苦悩のなかで、いさぎよく信心に励み、一生成仏の見事なる人生を飾っていただきたい。

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