Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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イタリア、東京、関東の合同研修会 人類は深遠を大法を希求

1985.8.1 「広布と人生を語る」第7巻

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3  大聖人の仏法は、円満具足の仏法である。ゆえに、世界各国において、人類の遺産としてつくりあげられた文化や伝統を、けっして否定したり、無視したりするものではない。むしろ、妙法に照らして、それらを輝かし、さらに高めていくものである。
 国には「邪智謗法の国」と、仏法を知らない「無智悪国」とがある。さらに仏法には絶待妙と相待妙のとらえ方があり、相待妙は妙法と他法を比較相対して妙法の正しさ、偉大さを証明していくのに対して、絶待妙は妙法を根本として一切の他法を部分観として生かしていくものである。
 七百数十年前、日蓮大聖人は立宗宣言をされて以来、念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊との「四箇の格言」をもって、人々の不幸の真因である邪宗教を強く折伏されてきた。「邪智謗法」の国である日本にあっては、とうぜんその方軌に則っていかなければならない。
4  しかし、イタリアはキリスト教が深い伝統をもっているが、仏法的には無智に属し、近年においてはじめて日蓮正宗が流布されてきたのである。
 ゆえに絶待妙の立場から、われわれはこれを用いていけばよいのであって、けっしてキリスト教と同じ次元で対抗していくのではない。「正法」を教えること、正法の話をしていくことじたいが、すべて弘教に通じ、折伏に通じ、厳然たる功徳があるのである。妙法という太陽が昇れば、おのずからその光はすべてを照らしていくことになるのである。さらに、絶待妙の立場からみるとき、キリスト教やイスラム教などの諸宗教や諸哲学も、分々の義として把握できる。
5  みずからが立派に生活と社会で仏法の実証を示していく――このくり返しが、折伏となり、弘教の姿となっていくことを確信していただきたい。
 法華経に、長者が窮子を除々に目覚めさせるため、方便を用いる譬えがある。何千年と妙法を知らず他宗教に染まっている状況を、一気に覚醒させようとあせる必要はない。英知と包容力で、忍耐強く、人生を楽しみながらの活動であっていただきたい。
 人間の本性は、より高度な価値ある方へと向かうものである。深いもの、深遠なものを求めるものである。また暗闇に一点の灯があると救いを感じ、うれしさ、希望を感じるものである。
 日蓮大聖人の仏法を知らなかったイタリアに、今、一点、二点、三点、そして数多くの妙法の火が灯されたのである。灯が照らしつづけていくならば、多くの人々がかならずやそのもとに集まってくることを確信されたい。その灯が正法受持の皆さん方であることを忘れてはならない。皆さんの活躍によって、イタリアに広布の夜明けが開かれたことを祝福したい。
6  広宣流布は、仏意仏勅の偉業であり、その推進のために、信心を根本に社会的に開花し、力をもち、実証を示していくことは大事なことである。
 したがって、現実社会のなかで広宣流布をなしとげゆく異体同心の姿のなかにあって、とうぜん立派な力ある有名人になることも必要であろう。
 それは信心の実証であり、大切なことである。ただし、信心も薄らぎ、目的も薄らぎ、ただ自分自身の私利私欲に流されていくことは、「名聞名利」であり、絶対に戒めたい。
7  また、仏法を修行する者にとって戒めなければならないのは謗法であり、おそろしいのは「増上慢」、驕慢の心である。増上慢、驕慢の心で自らの内なる生命を無残に燃やしつくしてしまうことは、仏法の修行者としてもっとも危険なことである。
 それは、自分自身のエゴから出るものである。それはもはや、自分の感情にとらわれた所作であり、人々を苦しめ、法をさげすんでいく心の表れである。これはもはや、目的を忘れ、求道を忘れた姿である。
 これに対し「法華の慢」がある。これは端的にいえば、信心の確信である。多くの人々を救い、多くの人々に信心の原動力を与え、さらに広宣流布のために、わが組織を拡大し、わが友を励まし、わが地域を発展させゆくという大確信の信心である。
 いわゆる「増上慢」は自己の堕落であり、「法華の慢」は自己の求道の表れであるといえる。
 どうか、それらのことをよくよく銘記され、正しい信仰を貫かれるようお願いしたい。

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