Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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岩手県記念代表者会議 心の一法より国土世間も生ず

1985.5.20 「広布と人生を語る」第7巻

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5  「謗法と申す罪をば我れもしらず人も失とも思はず・但仏法をならへば貴しとのみ思いて候程に・此の人も又此の人にしたがふ弟子檀那等も無間地獄に堕つる事あり」との御文もある。
 謗法については、自分が謗法をおかしているかどうかわからない場合もある。また他の人をみても、その人が謗法をおかしていることがわからないこともある。仏法を学び、信心している姿を示しているときは、とくにそうである。しかし、信心は姿や形ではない。奥底の一念の姿勢いかんなのである。
 その人が信心の本筋を忘れ、広宣流布を根底とした信心の姿でなく、名聞名利、野心に走った場合には、たとえ表面的にはすぐれているようにみえても、すでに信心の世界から堕ちているのである。
6  世間の人が、われわれ大聖人の門下を中傷・非難し、信心の妨げをなすとき、その人は実証として「始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」の御文どおりになっていくのである。
 信心の世界にあっても、つねに人々の心を攪乱していくような人に対しては、厳重に注意していかねばならない。それは、みずからの信心を破り、人の信心をも破っていく謗法の姿勢であるからである。
 その意味で信心は、数年とか役職のみでは決まらなくなってくる場合もある。よくよくたがいに注意しあいたいものである。
 近年あった元幹部たちや正信会の連中たちの策動は、まず信がなくなり、勤行をせず、まじめな人々を一歩一歩安易な堕落の方向へと引きずりこんでいったものである。
 これからも、あの幹部が退転していったかというような場合があるかもしれない。しかし、けっしてそれに従ってはならないし、本門戒壇の大御本尊への清浄な信心と、広宣流布への仏意仏勅をこうむった信心の道を、踏みはずしてはならないのである。

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