Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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福山での記念勤行会 宗教はあらゆる文化の根底

1983.12.11 「広布と人生を語る」第5巻

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1  十一年ぶりに福山を訪問し、立派に成長された皆さん方と久方ぶりに再会でき、これほど喜ばしいことはない。西に宝山の峰々、東に田川の清流をのぞむ広布域・福山文化会館の姿といい、また「福山」という地名といい、福運ある皆さん方の姿といい、すばらしき広布の域である。どうか、その名のごとく、長寿であり、健康であり、功徳に満ちた福々しき境涯であってほしい。
 人類は古来、太陽あるいは自然、動物など、さまざまな存在を畏敬し、信仰の対象としてきた。すなわち宗教をもつことは、人間の本然的姿であり、人間の証ともいえる。しかし、科学や技術、教育など、文化が発達していくなかで、それら低次元の宗教のもつ迷信性、非科学性が暴露されるにしたがって、宗教否定、あるいは無関心の風潮が強まってしまった。だが、生死の問題、宿命の問題、人間としてのうるおい、社会蘇生への活動などを考えるとき、宗教を除外しては論じることはできない。
 宗教と対立するかにみえる科学じたいも両刀の剣である。また生命の問題の根本的解決の力はもっていない。ゆえに、科学を正しくリードし、生命の正しき方向づけのためにも、高等宗教が時代の要請になっていると、私は訴えたい。
2  釈尊の八万法蔵といっても法華経に納まり、さらに法華経は三大秘法の南無妙法蓮華経の御本尊に納まっていく。日蓮大聖人の大仏法こそ、全人類の宿命を転換し、幸せと平和の道を開き、時代と世界を蘇生させゆく根源の大法なのである。
 たとえば、水道の蛇口が半開と全開では、水の出る勢いは違う。同じように、無量無辺の妙法の功徳も、満開の信心によって、あふれんばかりの功徳がもたらされるのである。
 日本と欧米では、価値観が異なっている。欧州では、文化に価値を求めるのに対して、日本では経済に価値を求める傾向が強いこと、またアメリカ、西ドイツは、その中間にあると思う。文化を志向し、文化社会をめざすことこそ、人間のもつ高度な精神性なのである。
 過去において、キリスト教文化はキリスト教を、イスラム文化はイスラム教を根底とし、インドでもアショーカ王、カニシカ王は、仏教を根本として文化の華を咲かせた。また、隋・唐時代の中国では、天台による仏教の興隆とともに、文化と国家の発展があったというように、宗教はあらゆる文化の根底をなしていたことは、史実をとおして明らかである。
 だが、今日では、宗教も、文化も、政治も、経済も、あらゆるものが行き詰まりの状況にあり、時代は、宗教の高低浅深の流れのうえから、最高の法たる日蓮大聖人の大仏法を求めているといわざるをえない。われらが広宣流布に日々、運動しているということは、まさに、永遠なる文化創造の土台をつくっているのである。
 ともあれ、福山は、日本一、世界一の大福運の国土世間として、信心、功徳の模範の地として、見事なる実証を輝かせていただきたい。

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