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九州新世紀会研修会 「知力」「生命力」「生活力」を

1983.7.28 「広布と人生を語る」第5巻

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1  この世に生を受け、人間としていかに価値ある人生、栄冠の勝利の人生を生きていくか。それは、さまざまな角度から論ずることができるだろうが、やはり、そのためには「力」をもたねばならない。これから大学へ行き、また社会へ旅立っていく諸君たちに申し上げたいことは、第一に「知力」、第二に「生命力」、第三に「生活力」をもたねばならないということである。
 「知力」――いわゆる知性である。ここには勉学も、思想的深さもはいる。「知力」のない人は、どうしても英知の生き方ができないものだ。“いまこそ「知力」をつけよう、磨こう”と努力してほしい。
 「生命力」――精神的にも、肉体的にも、太陽の輝きのような満々たる生命力をもった自分をつくっていくことだ。
 いくら「知力」があっても病弱であれば、ぞんぶんの活躍はできない。また「知力」すぐれていても、精神的にゆがんでいたり、内面からの輝きのない人は、やはり不幸といわざるをえない。現代の悲劇、行き詰まりも、この点に根ざしていることが多いようだ。
 「生活力」――社会人として生きていくためには、現実の力として「生活力」をもたねばないらない。「知力」「生命力」があっても「生活力」がなければ、現代社会では思うぞんぶんその力を発揮することはできないし、家族にも苦しい思いをさせてしまうことがあるものだ。
 諸君は現在は、親のもとにいる。親は諸君のために、口ではいえない苦労、現実の戦いがあるものだ。このなかには父親または母親が亡くなった人もいるかもしれない。そして、そのために、経済的な苦難、またさまざまな悩みで苦しんでいる人もいるにちがいない。
 だが、諸君の時代は、親元を離れ、自身の独立の時代へと移りゆかんとする過渡期である。親はとうぜん大切にすべきであるが、また一次元からみれば、親は諸君の成長のための“仮の宿”であったともいえる。いずれにせよ、人間は一人で巣立ち、一人で生きてゆかねばならない。諸君の将来の栄光は、一族の栄光であり、両親の勝利と栄冠にもつながっていくことを忘れてはならない。
 ゆえに、いまは苦しき経済の状況であっても耐え、辛抱し、勉学に励み、やがて栄冠の人生を勝ち取るために、現在の努力をしていってほしい。
 ただし、「知力」「生命力」「生活力」といっても、それらが幸福に結びつくかどうかは別問題である。社会には、それらゆえに不幸になっている事例も多い。結局、これらの力を生きいきと発揮させ、確実なる幸福へと導いてくれるのが信心なのである。
 有名な御聖訓に「一切世間の治生産業は皆実相と相違背いはいせず」との御文がある。仏法は現実社会とけっして遊離したものではない。この、現実社会全体が妙法と相違背しないと説かれている御文である。ゆえに、現実社会では活躍しゆくための原動力こそ妙法であり、信心であることを忘れてはならない。ここに、大聖人の仏法の偉大さがある。
 いまの諸君にとっては、勉学それじたいが、この御文に通じることを深く自覚されたい。
 地涌の菩薩の眷属とは、この人類のなかにあって“福運と使命ある存在”ともいえる。諸君には、人生の栄冠と勝利を実証し、仏法の偉大さを証明していく責務と使命があることを忘れてはならない。かりにも人生、生活の次元で社会の人々から信頼されず、軽されるような人になってはならない。
 いまは無名かもしれないが、この霧島の地で思い出を刻んだ諸君が、未来にはかならず飛し、見事な勝利の姿を示してくれることを、私は確信している。

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