Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第一回霧島会記念総会 ”誉め称えゆく”リーダーたれ

1983.7.25 「広布と人生を語る」第5巻

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1  日蓮大聖人は、諸法実相抄のなかで「ほめられぬれば我が身の損ずるをも・かへりみず、そしられぬる時は又我が身のやぶるるをも・しらず、ふるまふ事は凡夫のことはざなり」と仰せである。この御聖訓を総別にわけて拝していきたい。
 末法において折伏を行じ、広布に邁進する法華経の行者を、三世十方の仏・菩薩が賛嘆し、諸天善神が加護することは、かずかずの経文に説かれていることろである。
 末法の御本仏日蓮大聖人は、外用のお姿では地涌の上首・上行菩薩として御出現になられた。この御文は、別して日蓮大聖人が、三世十方の仏・菩薩の称賛を受けているがゆえに、生命を惜しまず折伏・弘教に励むのだと仰せになった御文である。
 しかし、総じては、折伏に、広宣流布にと走っているわれわれを、御本仏がおほめくださり、また諸仏、諸天善神が賛嘆し、加護してくださるのであり、これ以上の尊い、偉大なことはないとの仰せであると拝することができよう。
 世間の人には、その偉大さはなかなかわからない。ゆえに非難・中傷は多くても、称賛は少ない。しかし、高空を飛行機が飛べば、その跡を示す飛行機雲ができる。海上を船が走れば波が立ち、風が吹けば木が動くのが自然の理であるように、御本尊を受持し、信行、広布に励む地涌の友を、仏・菩薩、諸天が最大にたたえ、守護しゆくことは、妙法の絶対なる法則なのである。それを深く確信していただきたい。
 日本の友はもとより世界の各地から地涌の友が集い、信心の錬磨をしゆくこの道場を、多忙ななか真心で守り支えてこられたメンバーの苦労を心から感謝申し上げたい。これからも生涯、健康であり、生涯、繁栄の人生であるよう御本尊に祈り、最大の感謝としたい。
 “ほめたたえる”ことを忘れた人は不幸であり、わびしい。人を“称賛”することを知らない人は“感謝”することを知らない。感謝のある人は、ほめることを知っているものである。
 子供の教育にあっても、また夫婦関係にあっても、叱り、批判するばかりでなく、ほめる心を忘れてはいけない。組織にあっても、真剣にまじめに努力し、精進している同志を、ほめたたえていく、ひろびろとした心のリーダーであっていただきたい。それが人間としての、偏頗のない自然の心の証であるからだ。
 ただし、お世辞と称賛とはまったく違う。御書にも「心こそ大切なれ」とあるとおり、弘教に励みゆく人のその労苦を、私どもはよくよくあたたかく見守っていかねばならない。
 一生成仏抄のなかで大聖人は「然る間・仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり」と御教示されている。
 鉄にしても磁石となった鉄と、そうでない鉄とは、鉄粉を吸い寄せる力は違う。
 と同じように、御本尊を信受している人であっても、信心の強弱によって、とうぜん功徳に差があるものだ。
 信心深き人生は、御本尊に貫き通されたものであるがゆえに、功徳う吸い寄せ受けきっていく磁石のようなものである。題目を唱えることも、読経も、また御本尊におしきみを捧げ、香をたくことも、日々の広布の活動も、仕事に励むことも、御本尊のため、広宣流布のためのいっさいの行動は、後世にわたって、これまたわが生命に刻まれゆく功徳善根となると仰せなのである。
 この御文の最後に「皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり」と仰せである。ここが大事なのである。
 その行動が功徳善根をつくっていくか、反対に、功徳善根を捨て去ってしまうか、信心の一念の姿勢の重要性がそこにあることを忘れてはならない。姿は同じような行動であっても、いっさいのものを功徳善根にしていくような、磁石のような自分であるか否かによって、すべての未来が決まってしまうことを自覚されたい。
 「見るもよし、見ざるもよし、これど我は咲くなり」の句にもあるとおり、毅然たる姿で、いっさいの道理の大法たる信心の道を歩んでいただきたい。そこにのみ、諸天善神の守り、三世十方の諸仏の守護があることを深く確信して、人生を飾っていただきたい。

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