Nichiren・Ikeda
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山形県記念勤行会
御本尊は「更賜寿命」の大法
1983.4.19 「広布と人生を語る」第4巻
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3 私は長年、信心し、指導の責任的立場にあったがゆえに、多くの人の死の姿を知っている。また、多くの病魔と闘ってこられた方々の姿も知っている。
そこでよく耳にすることは、元気なときにもっと真剣に唱題しておけばよかった、ということである。いかに優秀な飛行機であっても最後に着陸に失敗すれば破壊である。人生も最期が大切であり、そのときに悔いを残さぬ人生でありたいものである。
社会的地位は、しょせんは人間のつくった制度である。それなりの努力によって、それなりの地位に達することはできるであろう。しかし「更賜寿命」し、生涯永遠にわたる生命の地位を得ることは、妙法の深き信仰による以外にない。これこそ峻厳な法のうえにのっとった位であり、これが信仰者の最高の誉れであると確信されたい。
私は、このことを確信して誉れ高く今日まできたつもりである。皆さまもまた、
そうであっていただきたい。
4 また、寿量品には「方便現涅槃」と説かれている。夜休んで朝起きるがごと、永遠の生命からみた場合、また仏眼でみたときには、いわゆる「死」は方便であるというのである。ゆえに、死に対して悲しみの心情はとうぜんであるが、しかし仏眼でみるならば、新しき生命への祝いの門出となってくるわけである。
さらに、生命の死後の状態は、われわれ凡夫にはわからないが、御書を拝し信ずるならば、楽しき夢に遊ぶがごとく、自在無碍の自我になり、喜びの連続となっていけるのである。
ただし、ここで大切なことは、広布のために労を重ね、苦難の山を乗り越えてきた信心の功大なる人々の死後の生命状態と、信心の弱く浅き人の死後の生命状態とは、おのずから違いがあるということである。そこに、どこまで人間界に生まれてこられるかという因果が、決まってしますのかもしれない。大聖人もかずかずの御書で「信弱くして日蓮を恨みさせ給うな」と仰せのごとくである。
最後に、大山形の建設のために、ともに励ましあい、来年の第二回総会をめざして、潔い前進をおねがいしたい。