Nichiren・Ikeda
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中野区記念幹部会
信仰で実像の幸せ確立
1983.1.20 「広布と人生を語る」第4巻
前後
9 中野創価学会の淵源は、かつての中野支部にある。初代の支部長は、いまは亡き神尾武夫さんだった。神尾さんはインテリで学者であった。牧口先生時代に入信し、あの大弾圧で牢獄に入っている。
当時は酷い時代であったし、同志も少なく、やむをえない面もあったと思うが、「心の動揺があった」とご本人がよく後悔し話していた。
戦後、戸田先生のもとに馳せ参じて、広宣流布のために戦うと誓って支部長になった。
のちに大病をわずらっている。静岡の療養所で長く静養したことがあった。戸田先生とごいっしょに、私たちは見舞いに行った。
そのさい、戸田先生は、まことに厳しく叱咤されていた。そのときは私は直観した。「これで生きのびるな。戸田先生が死魔を打ち破られたのだな」と思った。やがて、そのとおりに元気になられた。
あとで神尾さんは「何かあったときに退する心があれば、今世でその罪を全部消していく以外にありませんね」としみじみと語っていたことが忘れられない。
私の会長時代には、理事にもなられた。そのとき、決意発表をしてもらった。大病で肋骨をほとんど取っている。「これから心新たに粉骨砕身してがんばりたいけれども、骨がなくなってしまった」(大笑い)と。そんなユーモアのある人であった。
10 難があったときに、それを避けたり、退転をしたほうが楽かもしれない。しかし、そうはいかないのが妙法の峻厳なる法則であり、これがまた、大慈悲ではないかと考える。
晩年の神尾さんはまことに健康であり、長寿であった。創価大学の教授として功績を残され、ほんとうに所願満足の人生であられた。
神尾さんは学者でありながら情熱家であった。中心者がそうであったから、中野支部は熱血漢が多かった。多くの人材も育っている。青木、森田、名古屋の北村副会長がそうだし、創大の篠原誠さんがそうだ。
また、亡くなった東大出身の飛田敏彦さん(当時総務)も優秀だった。いまは子供さんたちも立派に成長している。さらに渡部一郎さん(衆議院議長)、藤原行正さん(都議会議員)らも、中野支部から育っている。
この”人材の宝庫”としての、中野の伝統の流れは、立派に受け継いでいただきたい。ともあれ、中野はインテリの人が多かった。学会は、これらの知性派と庶民派が絶妙に融合し、助けあい、励まし合いながら、今日の大発展を築き上げてきたのである。
11 中野兄弟会館の完成が間近であるし、重要な広布の位置を占めてきた中野の伝統の歴史をさらに確固たるものにしていただきたい。
どうか山崎中野長を中心に、互いに助けあい、補いあって、素晴らしい中野を築いていただきたい。そして、すばらしい人生のために、すばらしい信仰即生活のために、団結の精進であっていただきたい。