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日蓮大聖人・池田大作

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第二回SGI総会 太陽の仏法は二十一世紀への光

1981.8.24 「広布と人生を語る」第2巻

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5  ここで私は、仏法者の一人として人道的見地から核兵器のことについて、ひとことふれさせていただきます。とくに最近は、核兵器による先制攻撃ということが盛んに論議されております。ひと昔前までは、核兵器は保有していても実際には”使えない兵器”といわれていました。核兵器をもっていれば、相手が戦争を始めようとしても報復を恐れるあまり仕かけることができない――すなわち、核が戦争への歯止めになるというまことに愚かな幻想が大手を振って通用していたのであります。なぜ幻想かといえば、この種の論議は、戦争の根本原因である人間相互の不信と憎悪と恐怖を前提にし、それらをテコにしてのみ成り立つ議論だからであります。
 はたせるかなそうした幻想はもろくも崩れ、核兵器はいよいよその悪魔の牙をあらわにしてまいりました。相手にどう核兵器の先制攻撃をくわえ勝利をもたらすかという最近の論議では、もはや核は”使えない兵器”ではなく、”使える兵器”として公然と戦略理論が練られているのであります。ここのところ平和を希望する人々の眉をひそめさせている、建物を破壊せず人間のみを一気に殺傷させるという中性子爆弾なども、その延長であるといってよい。不信と憎悪と恐怖を前提にするかぎり、とうぜんの帰結ともいえますが、それだけに、核兵器のもつ悪魔性をえぐりだしていく作業が今日ほど要請される時代はないと思いますが、皆さまいかがでしょうか(拍手)。この人間不信と憎悪と恐怖を生み出す淵源を、仏法では元品の無明と呼んでいるのであります。
 ゆえに、すべてを本源的にとらえていくならば、平和といい文化といっても、そうした生命次元の変革――元品の無明を元品の法性に転じ、人間が人間らしく平和と幸福に生きるためへの英知、すなわち高等仏教による信仰の労作業を抜きにしては考えられない時代に入ってきた、と私は訴えたいのであります。
 したがって、私どもの信仰のうえにつらなるこの運動は、二十一世紀へ向けてますます重要度をましてくることは、必定なのであります。(拍手)

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