Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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ヨーロッパ広布20周年記念総会 「行学の二道」を深く

1981.6.7 「広布と人生を語る」第2巻

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17  朗らかに勇気ある前進を 
 初信の人々は、自分自身の苦悩の解決と願望の成就を願っての信心といえるであろう。しかし、深く日蓮大聖人の御書を拝しゆくならば、それでは完全にして真実の発心とはいえない。もちろん、それであっても、甚深無量の大法の功力によって、偉大なる利益、功徳があることはまちがいない。
 しかし、真実無量の大功徳に浴さんがためには、発心を真実にして、大聖人の門下として広宣流布に立ち向かい、地涌の眷属としての使命に生きぬくことこそ肝要である。これが、宗祖大聖人より御称賛いただける、まことの信心であることを知っていただきたい。
 大聖人の御遺命たる広宣流布を願って、自行化他の実践をしていくなかに、個々の願望もことごとくつつまれて、しぜんに所願満足の人生へとつうじていくことも、ここに確認しあっておきたい。
 畢竟するに、信心の信心たるゆえんは「無疑曰信」(疑い無きを信と曰う)と大聖人は仰せである。「開目抄」にいわく「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし」と。
 むしろ、苦難多きがゆえに、真剣な祈りと唱題がある。そこに煩悩を即菩提へと開きゆく信心がある。ゆえに、大聖人は「難来るを以て安楽と意得可きなり」と仰せである。よりたしかなる勤行・唱題に励みゆく理由は、かかる信心の境地を確立せんがためである。
 この一生のなかにあって、常楽我浄・因果倶時の生命の当体を確立せんがためには、熱烈たる思いの信心が必要であると訴えたい。そこにのみ、わが生命の奥底から、光輝燦たるみずみずしい確信が、つきることなく、湧き出ずるのである。
18  「力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」――どこまでも日蓮大聖人の仏法は、実践行動であるとの御文である。
 「力あらば」とは、もし力があるならばという意味ではない。御書に「随力演説」「随力弘通」と説かれているごとく、その人その人に力用にしたがいながらも、その社会で自己の総力を発揮しつつ、南無妙法蓮華経の大法を説くべきであるという実践軌道をお示しくださった御文である。
 法華経に「五十展転の随喜の功徳」が説かれている。
 仏の滅後に、法華経を聞いて、随喜して他人に語り伝える。このようにして、五十番目に法華経を聞き随喜した人の功徳がいかに広大であるかを説いているのである。
 法華経の説かんとするところは、最後に法を聞くという自行のみの人の大功徳をいて、最初に折伏した人、自行と化他行をともに実践した人の功徳がいかに広大無辺であるかを示すにある。
 大学の教授であれ、無名の一庶民であれ、また、法を説くことが苦手であれ、姿、形がどうであれ、大法を護持せる光り輝く”如来の使い“としての信心の歓喜があるならば、そして人々の幸せを願ってやまない真心があるならば、立派に折伏はできるものである。
 大御本尊に祈り随従し、欧州の方々の幸福と、安泰と、平和と、繁栄と、満ちたる人生の確立のために、一歩また一歩と、万年の未来へ、楽しくも朗らかな、勇気あるスクラムを組んでの前進を、くれぐれもお願いしたい。

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